忘れる昨日と、忘れる明日

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 私は物忘れが激しい。  こんな言い方をすると若年性認知症じゃないかと疑われそうだが決してそうではなく、私の物忘れには一定の法則があるのだ。    ※  私は基本的に早起きだ。目覚めがいい、というわけではなく、化粧に人一倍時間をかけている、なんてこともなく、忘れ物が酷いため、必ず早起きして時間割の再確認をする必用があるから。  十月十五日月曜日。今日の時間割はっと……。  国語。日本史。数学。英語。体育。道徳。体育かあ、憂鬱だなあ。私はあまり運動神経が良い方ではない。体をどう動かしたら良いのか理屈はちゃんとわかっているが、体が自分のイメージ通りに動いてくれない。どんなに練習しても上達しないのでもう諦めている。  才能とか努力とか、人の能力を分類する(あるいは、しようとする)言葉が私は嫌いなのだが、この運動神経の悪さは明らかに親譲りだ。  私の両親は、二人揃って運動神経が悪いのだから。  なんて、親のせいにしたところで、運命を嘆いたところで、どうにもならない。人生諦めが肝心なのだ。  ご飯と味噌汁という純和風の朝食を終え (私は和食党だ!)、寝ぐせのついた前髪を櫛で強引に撫でつけ、セーラー服に袖を通して姿見の前でターンしていると、階下から母の声が響いた。 「美晴(みはる)ー! 真樹(まき)ちゃんが迎えに来てくれたわよー!」 「はーい」  時計を見ると、ぴったり七時三十分だった。小学生時代からの親友で、高二になった今でも一番の友達である真樹は、時間にとても正確だ。誤差があっても数分程度で、毎日決まった時間に迎えに来てくれる。ハンカチ持った? 時間割は大丈夫? と事細かに確認してくる様は、まるで母親のようだ。心配性を通り越して過保護ですらある。  貴重品が入った青いポーチと鞄を手に取って、とんとんと階段を降り、真樹に手を上げる。真樹が片手を上げて応えると、二つ結いの髪がふわりと揺れた。 「大丈夫。時間割なら二度確認したから」 「ならよろしい」  先手を打って報告すると、真樹が笑顔で応じた。二人揃って家を出た。 「昨日のドラマ観た?」 「あー……。えーっと」  学校を目指して歩く道すがら、真樹が話しかけてくる。彼女のほうを向いたとき、立木から真っ白な木漏れ日が差して、眩くて思わず目を細めた。  真樹が言っているドラマとは、日曜の夜九時から放送されている連続ドラマで、聴覚障害がある主人公の女性と、高校卒業後に疎遠となった、初恋の相手である男性との再会から始まる恋物語を描いたものだ。  一度目の放送を観て引きこまれ、それから毎週欠かさずに観ている……観ている、はずなのだが。 「ごめん。観たと思うんだけど覚えてないや」  一度目の放送は観て、二度目の放送を見逃して (というか覚えていない)三度目の放送は観て、そして昨日が四話目だ。んー。話を合わせられないので、今度から録画しなくちゃな。 「ああ~……そうか。忘れちゃったんだ。じゃあ、しょうがないね」 「ははは、ごめんね」  私の物忘れの激しさを、真樹はちゃんと心得ている。昨日はねえ、と言いながら、四話目の概要を教えてくれる。 「うんうん。それで?」  うーん、キュンキュンする展開。来週はちゃんと観なくちゃね。  閑静な住宅街を抜け、国道沿いの商店街を歩き、やがて大きな交差点に到達する。歩行者用の信号は赤なので、私と真樹も立ち止まる。 「おーい」  その時、道路を挟んだ反対側の歩道で手を振る男子生徒の姿が見えた。私の交際相手である拓海(たくみ)だ。私も彼に手を振り返す。  信号が青に変わり、道路を渡り切り、彼と「おはよう」の挨拶を交わし合う。そんな私らの脇を、同じ制服を着た高校生らが通り過ぎてゆく。 「真樹もおはよう」 「おはよう、拓海君」 「美晴。今日は、時間割大丈夫か? 数学の宿題は?」 「どっちも大丈夫だよ。土曜日の夜、拓海君が心配してチャットで教えてくれたでしょ」  当然彼も、真樹と同じで忘れ物が激しい私の事情を知っている。こうしてたびたび、メールやチャットアプリで忘れ物をしないように注意喚起してくれる。 「ならいいんだけど」 「ところでさ。拓海こそ忘れてないよね? 来週の日曜日の約束」 「来週の日曜日? なんか約束してたっけ?」 「何? アンタまで記憶喪失? 来週の日曜日にさ、一緒に映画観に行こうって約束したよね?」  私ですらしっかり覚えているのに、拓海が覚えていないなんて珍しい。 「あれ? そうだっけ? ごめんごめん。ちゃんとスケジュールは空けておくから」 「ま、物忘れに関しては、私も人のこと言えないからいいんだけど。しっかりしてよね」 「はいはい。ご馳走さま」 「ちょっと真樹! からかわないでよ」  意味ありげに舌を出し、一歩先行した真樹の背中を追いかけた。  私達の間を取り持った、いわば恋のキューピッドが真樹なのだ。ほんと、彼女には感謝してもし足りない。  今日の天気は快晴だ。清々しい気持ちで学校を目指した。    ※  私は記憶障害を持っている。  朝目覚めると、50%の確率で前日の記憶を失ってしまうのだ。そのため、記憶が一日おきに虫食い状態になっている。  前向性健忘の一種だと医者には言われているが、これといった治療法もなく改善の兆しも見えない。そこで、その日起こったことをなるべくメモに残すようにしているのだが、そのメモですらたびたび忘れるのだから始末が悪い。  それでも――  私のことを気にかけてくれる真樹と拓海がいるから、私は幸せなんだ。    ※  窓に設置したブラインドの隙間から、朝日が差し込んでいるなかあたしは目覚める。  掛け布団を剥いで、上半身だけを起こしてぼんやりと中空を見つめる。部屋の中を舞う埃が、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。  ――と、こうしてはいられない。そろそろ起きないと遅刻してしまう。  十月十六日火曜日。スマホで日時を確認し、パジャマから制服に着替えて階下に向かうと、キッチンから顔を出した母が声を掛けてくる。 「あら、おはよう。今日()早いのね」 「ん。なんとなくいつもより早く起きられた。母さん、今日の朝食はパンがいいな」 「み……じゃなくて春香(はるか)()、パンが好きだものね。ちょっと待ってて。今焼いてあげるから」 「ん」  マーガリンをたっぷり塗った食パンを食べ、洗面所と自室で身支度を整え、忘れ物がないよう時間割で確認をしてから赤い袋と鞄を持って部屋を出る。  階段を下りている途中で、家のインターホンが鳴った。 「ちょっと待って」と応え、足早になって、家の玄関を開けると親友の真樹が立っていた。 「おはよう」 「お。今日は早いじゃん。いつもなら、まだ準備に追われている時間なのに」 「あたしも成長したのよ」  なんて。今日早起きできたのはたまたまだ。なぜなのか。本当になぜなのかわからないが、わずかに弾んでいるこの胸のせいか。昨日、何かいいことでもあったのだろうか。 「じゃ、行こうか」と真樹に手を引かれ、二人で学校を目指して歩き出す。 「今日、いい天気だね」 「だねーって、なんか、春香今日は機嫌いいね?」 「うん。なんだろう、よくわかんないけど心がうきうきするっていうか」 「ほほう? こりゃ恋だな。私に惚れるなよ?」  火傷すんぞ、とニヤけた真樹に苦笑で返した。 「百合とかそんなん興味ないから」 「そっかあ。春香も結局男好きかあ」 「言い方……。そりゃそうだよ」  真樹の薦めで、百合ものの漫画なんかをよく読む。見ているだけでもなんかドキドキするけど、所詮、それは創作物の中の話。自分が同じ立場になりたいとは思わない。普通でいいのだ、あたしは。普通に、なりたいのだ。 「こんなあたしでもさ、彼氏が欲しいなあ、なんて思うよ。やっぱり」  とはいえ、心のどこかで諦めている。決して積極的ではないこの性格もネックだが、記憶力が絶望的に悪いのだから。 「そうだよねえ」と真樹が相槌を一つ打った。  普通の生活がしたい。ただそれだけだ。  あたしは、記憶障害を持っている。夜眠るたび、隔日でその日の記憶を忘れてしまうのだ。  だから次にあたしが記憶を保存(メモリ)できるのは、きっと木曜日になるだろう。    ※  前を歩く、親友の背中を見つめる。  私の親友は、記憶障害を持っている。いや、これを記憶障害と評していいのかは、甚だ疑問だ。だが、医者が前向性健忘の一種だと言っているのだから、一先ずそうしておこう。  朝目覚めるたび、彼女の人格は入れ替わる。今日は春香だが、明日の朝は美晴になる。その次の日は再び春香に。そこから交互に、美晴と春香の人格が、彼女の脳と記憶を支配する。  高一の春に突然こうなって、それから人格交代が日々繰り返されている。その事実を隠したまま、周りの人間がうまく合わせているのだ。 「どうしたの?」と首を傾げる春香に笑顔で返した。「なんでもない」  いつか彼女の病は消えるだろうか。どちらかの人格が消えるのだろうか。でも、たとえどちらが残ったとしても、私はかわることなく、彼女の親友――なんだ。
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