(一・一)六月・諭吉

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(一・一)六月・諭吉

 夏の初め、三上哲雄はそのおやじと出会った。三上は、自分で言うのも何だけど下らないサラリーマンで短気で怒りっぽくて乱暴でっていっても会社の中じゃ大人しいけど、いつも苛々している。何でそんなに苛々しているかは三上自身もよく分からない、ただもう常に苛々しまくってて、そんな自分に時には嫌気が差すぐらい。だけどこればっかりはどうにもならない。  そんな苛々の矛先はいつも、この世界と下らない三上の人生とに向けられる。三上はこんな世界なんて下らない嘘っぱちの世界で、人間なんかみんな嘘っぱちで、人生なんて冗談だとバカにすることで、何とか苛々を紛らしている。そんな三上だからいつも孤独で心を閉ざして、お芝居のような毎日を生きている振りしながら、死んだように生きているだけ。  今年三十歳で小太りで気障たらしい銀縁眼鏡を掛けている。東京品川の月七万のワンルームマンションの十三階にひとり暮らし、そこから品川駅まで徒歩十分、品川駅から山手線で新宿駅まで、新宿駅から歩いてビル街へ、高層ビルの中のコンピュータソフトの会社へ出勤。ヘビースモーカーで一日ハイライト二箱空けるから、仕事しながらハイライト吸ってるというより、ハイライト吸いながらついでに仕事してる感じ。  仕事が終わったら、そのまんま新宿のネオン街へ直行。飲み屋のお姉ちゃん、好みはイケイケ姉ちゃん、のケツ追い掛け回すのが唯一の楽しみ。惚れっぽいけど性格が暗く歪んでいるせいかモテたためしがない、決まって三ヶ月で振られてしまう。  そんな三上が例によって飲み屋のイケイケお姉さま、けい子ちゃんと付き合い始めたというか貢ぎ始めたのが三ヶ月前の春三月。で今夜、六月の小雨降る金曜日、見事また振られたというか捨てられちまった、ったく情けね。  バッグ、腕時計、お洋服、ついでにメンソレの煙草と、次から次へと貢いで貢いで貢いだ挙句の今夜、いざホテル迫ると、 「やだ、あたし、哲ちゃんとはそんなつもりちゃうよ」  ちゃうよて、いきなり関西弁かい、都合の悪い時ばっか関西弁使いやがって、この尼というかお姉さま。今更何だよ、素人女でもあるまいし。 「だめだめだーめ、あたしちゃんと彼氏いるんだから。しかもお金持ち」  くえーっ、だったら最初っからそう言えや、ったく。所詮飲み屋の女如き相手に、何熱くなってんだ三上。女の方だってそろそろ潮時だって思ってるぜ、いつまでもこんな陰気臭い男に付きまとわれてちゃ敵わねえってか。くっそーっ、けい子のバカ野郎じゃなくて女だから、まいいかどうでも、しょぼーん。  でその帰り、混んだ山手線にひとり揺られながら、しょんぼりと死体同然の抜け殻でドアの前に突っ立ち、ぼけっと流れ去る東京の夜景見ていた。飲む前に振られたから、今夜三上まだしらふ。品川に着いて駅の改札を抜けると、その足で馴染みの立ち飲み酒屋『諭吉』にしけ込み、一杯もう一杯、ぐぐぐぐっと安酒の自棄酒煽って。そしたら諭吉のおやじ、 「どうせ遊びなんだろ、なあ兄さん。飲み屋女相手に本気の恋でもあるまいに」  常連客の鼻まっ赤なトナカイ連中も笑ってやがる。  けっ、ところがどっこい、生憎こっちゃいつでも本気なの。逃がした魚は大き過ぎ、ぽかっと心に穴開いて、うだうだ愚痴ってねちねち恨んで悔やんで、こら、おやじ酒持ってこい。空のコップがさっきから虚しか虚しか言うて男泣きしてやんよ、ったく。酒ねえならこんな時化た店三上もう帰んぞ。威勢良く歩き出したその途端、足がもつれてそのまんま諭吉の埃だらけのコンクリートの床に顔からバターン。  三上としちゃもう安らかにしばらくそのまま眠っちまいたかったのに、諭吉のおやじときたら邪魔なのか、三上の頬っぺた思い切り引っ叩きやがって、 「なあ兄さん悪いこた言わねえ、今夜はもうこれ位にしときなよ。飲んでばかしじゃ体に悪い、ほれ、これでも持って帰って食べなさい」  手渡されたのはほっかほかの鯛焼き、しかも五匹。何でえ、バカいうんじゃねえよ。ガキじゃあるまいし、こんな甘ったりいの食えるかよ。でも折角だからお言葉に甘えて頂戴しまーす。
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