空高く舞う

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空高く舞う

 走り高跳びの県大会に向け、僕は猛特訓を重ねた。先週の練習では自己ベストも出た。準備は万端だ。絶対に一位をとってやる。  意気込みながら控室に入り、エナメルバッグを開け、僕は絶望した。スパイクシューズを入れた袋が見当たらないのだ。昨日の夜、玄関で手入れしたのは覚えている。おそらくそのままバッグに入れ忘れたのだろう。  履き慣れた靴でないと、とても最善なんて尽くせない。鼓動が激しくなり、冷や汗が頬を伝う。自分と世界との間に薄い膜が張られたみたいに、他の選手たちの声が聞こえなくなる。  ふらつく足取りで控室の扉を開け、外に出た。時刻を確認し、自宅に取りに帰る時間はないことを悟る。いっそのこともう帰ってしまおうか。捨て鉢な考えが頭をかすめた、その時だった。 「そこの人、止まりなさい!」  競技場のスタッフがメガホンで叫ぶ声が聞こえ、僕は何事かと思い顔を上げた。そこで目にしたのは信じられない光景だった。    1メートル以上ある競技場のフェンスを華麗なベリーロールで飛び越える女性の姿。風に舞う髪としなやかな身のこなし。今まで見たどの選手よりも美しいフォームだ。僕が釘付けになっている間、彼女は鮮やかな受け身を取り、こちらへと近付いてきた。 「鷹也、忘れものだよ」 「母さん……どうしてそんなにフォームが綺麗なの?」  シューズの入った袋を抱えて現れた母に対し、“ありがとう”だとか、“仕事はどうしたの?”だとか、言うべきことはたくさんあっただろう。けれど僕は開口一番、無意識にそう尋ねていた。 「昔陸上やってたのよ。今はこんなだけどね」  母はお腹の肉を揺らしてケラケラと笑った。未だに豆鉄砲を食らったような顔をする僕に気を良くしたのか、「“埼玉の白子鳩(シラコバト)”って呼ばれてたんだから」と付け加えた。 「なんだよ、それ。全然カッコよくないよ」  全身の力が抜け、僕もつられて笑った。  ウォーミングアップの招集アナウンスが聞こえる。僕は母の持ってきてくれたシューズに履き替え、集合場所へと向かった。向かう途中で振り返ると、母はスタッフの人にこっぴどく叱られていた。叱られながらこっそりと親指を立て、僕にグッドサインを送った。    無事にアップを終え、いよいよ本番を迎える。スタート位置につき深呼吸をすると、土のにおいが鼻の奥をくすぐった。時間が止まったみたいに静かなこの瞬間が、僕は好きだ。  助走を始める。景色が猛スピードで置いてけぼりになる。流れる景色の中、唯一とらえたのは母の姿。「たかやーッ」と声がかれるほど叫ぶ母の姿。  恥ずかしいからやめてくれ。踏み込みながら、ふっと笑みがこぼれる。その日僕は、誰よりも高く跳んだ。
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