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「ただいま」  家に着き、いつもより小さな声で呟いた。母が帰っていませんようにと思った。しかし、願いも虚しく母はキッチンからニョキッと首を出し、ひょうきんな表情で僕を出迎えた。 「おかえりぃ」  なにやら焦げた臭いが部屋に充満している。(すす)に覆われたような黒い円形の物体が、調理台の隅に隠すように置かれていた。 「あのね、チーズケーキを作ろうとしたんだけど、なんかすっごい焦げちゃって」  ポリポリと頭をかきながら、母が申し訳なさそうに笑った。頬に黒い水滴の跡が見える。マスカラが落ちてしまったのだろう。それが何を意味するか、僕はすぐに理解できた。 「オーブンの設定温度は確認した? 焼き上がり前にアルミホイルは被せた?」  僕は足もとを見ながら言った。涙をこらえるのに必死で、代わりに声が震えた。 「うん。レシピも説明書も読んだんだけど、うまくいかなくて」  馬鹿でごめんね。  母がそうこぼすと同時に、僕は母に思い切り抱きついていた。柔らかかった。お腹がゆっくりと膨らんだり、へこんだりする。安心する匂いだ。こんなことをするのは、おそらく小学校の低学年ぶりかもしれなかった。 「ど、どうしたっ!?」  殿はご乱心か、とでも言わんばかりの母の動揺が伝わってくる。顔を上げると、行き場を失った母の両手が宙に浮いていた。僕を抱きしめ返すこともできずに。 「母さん、いつもありがとね」  こらえていた涙があふれた。僕はずっと悔しかった。受付のおじさんの同情に満ちた目も、クラスメイトの好奇の視線も、母が嬉しそうにママ友だと語る女性の嘲笑も、何もかも。僕の母を馬鹿にするなと思った。けれどいつしか、誰よりも僕が母のことを恥ずかしいと思うようになっていたのだ。  母はおそるおそる僕を抱きしめた。僕がぎゅう、と力を込めると、母もさらに力を込めた。僕はぼろぼろ泣いていたけど、母は泣いていなかった。ただ、どうしたものか、とおろおろしていた。母らしいなと思った。
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