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第一章 老年にて
ゴミ係とか清掃員とか汚れ役とか、果てはもっと汚い言葉とか。
わざわざ表立って口汚く罵られることこそ少なくはあるけれど陰口を叩かれることは日常的。
誰のおかげで清潔な生活を送れているんだなどと昔はよく思ったものだ。
現在はそのおかげでありがたい話仕事に困ることはなかった。
どこに行こうとどんな時代だろうとどんな情勢だろうと生きていけた。
若い頃はなんとかしようと努力をしたこともあった。
必要最低限があってもそれ以上を持たない身では出来ることに限度があったし、やれることをやってもそれで何かが変わることはなかった。
食うに困らず住むに困らずと少しの侮蔑の視線に耐えさえすれば生きるに困らなかったことを思うに人生はさほど悪い物でもなかった。
他の人は明日の食べる物や魔物に襲われることを心配しながら生きている。
それに対して食べ物の心配はないし、魔物も臭いがきついゴミ捨て場には寄り付かない。
老年まで大病もせず家族もいない。
心残りはあってもこれからに心配なく日々をのんびりと過ごしていくのみである。
大きな戦争があった時も災禍が国を襲った時でも自分は能力がなく前線に出ることもなかった。
だからといって仕事を失うこともなかった。
今では片田舎でのんびりと過ごしながら同じ仕事を続け少しのお金を貰い質素な生活を続けている。
文句を言う者もいなくはないが感謝している者もいて快適に暮らせている。
「よしよし、今日の仕事は終わりじゃの」
軽く穴を掘りそこに捨てられたゴミの山が本を読んでいる間に無くなった。
それも長い間本を読んでいたわけでもない。
穴の底から緩やかな斜面を跳ねながらゆっくりと1匹のスライムが登ってくる。
流線型のボディはうっすらと青く半透明で中に黒い核が透けて見える。
大きさは抱えられるほどで跳ねるたびに身体が波打っている。
スライムは穴の横にあるところどころ傷んだ木の椅子に座る老人に近づくと少しばかり高く飛び上がって膝に着地した。
ほとんど衝撃はなくぷにゅんとした感触があり老人の足の形に合わせて接地面の形が変わる。
「ご苦労様、フィオス」
老人はスライムを優しく撫でる。
水よりも固く、それでいて水のように柔らかいスライムの感触は非常に不思議で、暑い時にはヒンヤリと感じられ寒い時にはほんのりと暖かく感じる。
歳をとってからは暖かく感じるときの方が多いようにも思えた。
若い時なんかは枕代わりに頭の下に置いたりしてもなかなか気持ちが良かった。
「こんな歳になってから言うのもなんだが、ワシはお前さんに感謝しておるぞ」
子供、老人の歳であれば孫でも愛しむようにスライムを撫でながら共に生きた経験を語る。
どうしてそんな気分になったのか自分でもよく分からない。
おそらく誕生日だからではないかと思う。老人は自分の生まれた日を知らない。物心ついた時には両親はいなかったし誕生日を祝うなんてこと出来る余裕もなかった。
本当の誕生日なんてのは知りようもない、今さら知る必要も知りたくもない。
老人の思う誕生日とは名前を持った日のこと、友人がくれた人生でも大切な贈り物を受け取った日である。
ふと、スライムの表面が波打つように揺れていることに気づいた。
撫でているからではない。自発的にである。
「嬉しい……これは……」
ジワリと胸に広がる感情。
自分のものではない温かい気持ちに、老人は思わず息を飲んだ。
心を通わせ互いに信頼関係を築くことができれば互いの心が分かると言われている。
今まで老人はスライムには知恵がなく感情もないものだと、そう思っていた。
撫でられて嬉しい。そのような感情がスライムから伝わってきた。
老人の頬に涙が伝う。
「そうか……フィオス、お前さんにも感情があったのじゃな。すまなんだ、今まで分かってやれずに」
スライムと心が通じた喜びとこれまで心を開いてきたようで完全に心を開ききれていなかった自分の醜さ、もしかしたらスライムの感情を無視してきたのではないかという後悔、他にもいろいろな感情が混ざり合って涙になる。
スライムにも複雑な感情が伝わる。
喜びの感情は心配に変わりギュッと胸に近づくようにスライムが寄り添ってくる。
「そうか、そうか。心配してくれるのか、ありがとう」
言葉も発さぬ、表情も見えぬがスライムにも相手を心配する感情があり寄り添ってくれる知恵がある。
語りかけてくるようなスライムの感情を感じる。
老人は己の短慮を酷く恥じ、深く反省した。
これ以上心配をかけないために心を落ち着かせ涙を拭い、スライムに優しく微笑みかける。
太陽が高い所に上り日差しが強くなってきた。
いくら暑い季節にないとしても長時間強い日光に晒され続ければ老体に堪える。
少し長居しすぎたと老人はスライムを胸に抱いたまま立ち上がるとゆっくりと歩きだす。
スライムそのものはあまり重くなく、抱えていると暖かいので最近はめっきりこうして歩いている。
揺れるスライムから嬉しいという感情が腕の中から伝わり老人は心まで温かい気分になっていた。
片田舎の小さい村の外れ、ゴミ小屋と言われる小さい家。
決して汚いとかたくさん物やゴミがあるわけではなく、むしろ物や家具は少なくしっかりと室内は片付いていた。
ゴミを片付ける人が住んでいるからゴミ小屋とどこかの子供が呼び始めたものだがいつしか古くなった家の風体が名前に追いついてきた。
そんな家の名付け親の少年も気づけば妻子持ちの良い大人になっている。
老人はスライムをテーブルの上に置くとお湯をわかしお茶を淹れる。
お茶といっても少し森に入ったところに生えている野草を刻んで乾燥させたものである。
少し苦味があり独特の香りがするが娯楽も少なくお金もない老人には数少ない日常の楽しみであった。
カップを2つ。1つを自分用に、もう1つをスライムの前に置く。
感情が分かるようになったからお茶をあげるわけではない。
いつ頃だったか、戯れに飲んでみるかと問いかけるとスライムはコップに覆い被さるようにしてお茶を飲んでしまった。
驚きはしたが面白くもあり、以来お茶は2人分。
茶にお金はかかっていないので1人分増えたところで懐は痛まない。
最初は吸い上げて瞬く間にお茶を飲み干していたのにいつのまにか飲むペースもスライムは老人に合わせていて、よくよく考えてみればこうしたところにも知能を感じさせていたのに今更気づいた。
お茶を楽しみ老人はベッドに横になることにした。
歳をとりめっきりと活動する時間が減った。動くのも楽でなく身体の節々が痛んでいる。
もうすぐ昼時になるはずなのにお茶だけでお腹がいっぱいになってしまった。
見上げた天井から首を傾けると枕横にスライムが寄り添っている。
「もっと早くお前さんのことを理解しておればのぅ」
心通うとはこれほどまでに暖かいものなのか。
撫でようと腕を動かすとスライムは撫でられようと手の方に動く。
妙に愛おしさを感じて顔がほころぶ。
ポンポンと胸のところを叩くとスライムが乗ってくる。
「ふふっ、女性の手も握ったことはないがこのように暖かいものだろうか」
誰に言ったわけでもない、クセになった独り言。1人が長いと寂しさからか変なクセがついてしまう。
スライムに話しかけていると思えば独り言にもならないと言えるかもしれない。
ただ返事はないから独り言と変わりはしない。
「フィオスや、ワシは疲れた。少し眠るとするよ」
なんだかいつもより老人は身体が重く感じていた。
撫でる速さは段々とゆっくりとなり、やがてパタリとスライムから手は落ちて止まる。
スライムは悲しみに震えた。
そのまま老人は眠るように亡くなってしまったのである。
ようやく心を通わせたスライムを置いて。
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