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「紫陽花の君へ。」
『お久しぶりです、紫陽花が綺麗な季節になりましたね。
そちらも小雨がぢとぢと降り注いでいますか。
雨露に濡れた薄紫と青のグラデーションの紫陽花は、とても貴女によく似ている。
憂いを帯びた瞳と濡れた黒髪が、目を閉じたらいまも淡く浮かびあがります。
貴方と肌を重ねたあの一夜は、泡沫のように一瞬であのときに触れた柔らかく白い肌と乳房は、ひょっとしたら夢だったのではないか、と。
願わくば、もう一夜貴女を、一瞬でもいいから抱いてしまいたい。
もう二度と離れ離れになぞ、なりたくない。
貴女には帰る場所と守るべき存在がいるのも十分承知しています。
貴女は、浮ついたあの男を憎みつつも愛していることもあの男の帰りを待ちながらあの男の好物を作り掃除や洗濯をしてあの男が帰る家を懸命に守っていることも、すべて判ったうえで、貴女にもう一度私のところに戻ってきてほしいのです。
私なら、貴女の綺麗な瞳を濡れさせたりしない。
貴女の綺麗な黒髪に縛られることも仕合わせに感じるだろう。
貴女の白く長い指も、淡い桃色の小さな唇も濡れた長い睫毛も白い素肌も可憐な乳房も胸元の黒子も、ぜんぶぜんぶ独り占めしたい。
あの男に、一瞬たりとも貴女に触れられたくない、一瞬たりとも貴女の時間を奪わせたくない。
もしも、もう一度私のところに戻ってきてくださるのなら。
あの紫陽花が咲き誇る小路で雨がザアザア降り注ぐなか同じ傘の下でくちづけを交わしませんか。
それから先のことは、また、ふたりで考えてゆきましょう。』
*
そこまで書いて手紙を出すのを、やはりやめておくことにした。
貴女は、たとえ傷つけられても家族を捨てる人じゃないからだ。
そして、そんな貴女だからこそ不毛にも愛してしまったのだ。
手紙をグシャグシャに丸めてゴミ箱に捨てた。
窓をながめたら雨上がりの紫陽花が、一滴の朝露に濡れていた。
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