18人が本棚に入れています
本棚に追加
8.アルバートの失恋と膝枕
「鬼! 鬼畜! 悪魔!」
シャルロットが悔し紛れに思いつく限りの罵詈雑言を、アルバートに投げがけると、
「はあ? どっちが?」
アルバートのほうも腹の底からの地獄の低音ボイスを響かせて、目を据わらせる。
両者一歩も引かず、やいのやいのと言い合いながら、車を降りると、
「お帰りなさいませ、アルバート様、シャルロット様」
屋敷の執事が、にこやかに二人を出迎えた。
「彼女の荷物を僕の部屋の隣に運んで」
アルバートは執事に指示をすると、
「どうしてわたくしの部屋があなたの部屋の隣なのよ?」
シャルロットが不機嫌に柳眉を顰める。
「はあ? そんなの婚約破棄の違約金の支払いのために決まっているだろ?
さっさとそんな御大層なドレスを脱いでそれに着替えたら?」
アルバートはそう言って、この屋敷のお仕着せをシャルロットに渡した。
「こうなったらもう、僕専属メイドにして散々こき使ってやる!」
アルバートが憎たらし気に鼻の頭にしわを寄せる。
「の……望むところよ! やってやろうじゃない」
シャルロットも啖呵を切って、腕をまくる。
「シャ……シャルロット様……こちらへ」
メイド頭のアリスが、そんな二人に苦い笑いを浮かべている。
二階の主寝室の前で、二人はお互いにフンっと顔を背けて
それぞれの部屋に入っていく。
◇◇◇
「今日からここがシャルロット様のお部屋でございます」
メイド頭のアリスに案内された部屋を見回して、シャルロットは目を瞬かせる。
「っていうか、この部屋って……」
居間と寝室が二間続きになっており、
その奥にバスルームと衣裳部屋が併設されている。
本来ならこの屋敷の女主が住まう部屋なのである。
間違っても一介のメイドに宛がわれる間取りではない。
「左様でございますよ、シャルロット様。
このお部屋はシャルロット様をお迎えになるために、
特別にアルバート様自らが家具や調度類、小物に至るまで、
心を尽くして準備されたものなのでございます」
アリスが優しい眼差しで部屋の調度類を見回す。
「あのお方は素直に表現するのが苦手なだけで、
本当は誰よりもお優しい方なのでございます」
アリスの言葉にシャルロットが下を向く。
(そんなの……知っているわ)
シャルロットは唇を噛み締めた。
いつだってアルバートは自分を盾にして、
シャルロットのことを守ろうとしてくれる。
今日の出来事だって、きっとそうなのだ。
しかし飄々としたアルバートの真意が、シャルロットには分かりかねる。
(ゆえに、自分は怖いのだ)
シャルロットはぎゅっと自身のドレス裾を握った。
(いつか自分がその感情をはき違えてしまうことが)
『興味ないよ』
10年間に自分に冷たくそう言ったアルバートが、
シャルロットの脳裏に過る。
(もう、あんな思いをするのはまっぴらなのよ)
シャルロットは下を向く。
◇◇◇
アルバートは自室の寝室のベッドの上に体を投げ出して、
盛大なため息を吐いた。
『それでも……婚約は破棄してください……』
先ほどのシャルロットの言葉が、アルバートの胸に深く突き刺り、
奈落の底に突き落とす。
(ある程度覚悟はしていたけど、面と向かって言われると、結構キツイな)
そしてまた、アルバートは特大のため息を吐く。
(あ~マジでやばい、軽く死にたい)
そんなことを思ってぼんやりと見まわした部屋の
ベッドサイドに置かれた一枚の写真とはたと目が合う。
自分とよく似た面影の、美しい女性が夢見るように笑いかけている。
アルバートは身体を起こし、その写真に手を伸ばす。
「母上……今日僕は、死ぬほど好きな女の子にふられました」
そんな告白と共に自嘲を吐き出す。
「ねぇ、かっこ悪いでしょ? あなたがもしこの場所におられたら、
こんな僕を見てどうお思いになるでしょうね」
アルバートは瞼を閉じて、再び身を横たえる。
自分でも気づかないうちに、
ひょっとすると自分は今日はとても気負っていたのかもしれない。
今、自分はひどく疲れているのだと自覚する。
意識が白く霞んで、その中に朧げな人影を見た気がした。
そのシルエットが、亡き母に似ているような気がして、
「今日は無性に……あなたに会いたい」
そんな呟きを漏らして、
アルバートは微笑んだつもりだった。
そしてすぐに薄い微睡に落ちてしまったので、
アルバート自身も気づいていなかったのだ。
その頬にとめどなく涙が伝っていたことに。
◇◇◇
最悪の一日だったにもかかわらず、
その眠りは不思議と安らかなものだった。
ひどく柔らかい何かに頭を置いて、自分は幼子のように身を委ねている。
(は? ありえない)
微睡の中にいるくせに、頭のどこかで、僕はその状況を全否定している。
この無駄に高いプライドが憎い。
優しく誰かが僕の髪を撫でている。
その温もりに、すべてを委ねてしまえばいいものを、
悲しい性分だと自分でも思う。
「アルバート……」
名前を呼ばれたところで、アルバートは覚醒する。
ぱっちりと開いた眼に、
いきなり飛び込んできた人物に、息が止まる。
「シャルロット……」
自室のベッドの上で、なぜだか自分はシャルロットに膝枕されているのである。
反射的に身体を起こそうとしたアルバートは、
がっちりとシャルロットに両手でホールドされてしまった。
(身体が、起こせない)
アルバートは高速で目を瞬かせる。
「そのままでいいから、お願い、話を聞いて。
ごめんなさい。今日、わたくしはあなたのことを深く傷つけたわ」
シャルロットが愁傷気に項垂れる。
「ちょっ、別に僕は傷ついてなんか」
全否定して身体を起こそうとする僕を、やっぱりシャルロットががっちりとホールドする。
「嘘よ、ひとりで泣いていたくせに」
シャルロットの衝撃の証言に、アルバートが狼狽える。
「な……泣いて? この僕が?
まさか、あり得ない、そんなの」
アルバートがひどく顔を赤らめて、シャルロットから顔を背けて身体を丸める。
亀のように丸まったアルバートの背中を、シャルロットが無言のままに撫でてやる。
「嘘だよ。そりゃあ僕だって……へこむ日は……ある」
蚊の鳴くような声でそう言ったアルバートに、
シャルロットは一瞬目を丸めて、
「うん」
と小さく頷いた。
最初のコメントを投稿しよう!