コーンスープ・バレンタイン

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  コーンスープ・バレンタイン    その日まで話したこともなかったその彼は、創一というらしかった。名字で呼ぼうとしたのだけど、なぜかちっとも口に馴染まないので今は名前で呼んでいる。相手もそれに合わせてか、ちなみのことを名前で呼ぶ。あの日からしばらくして、彼がとても博識なことに気が付いてからは、たまに名前の後に先生、とつけてみたりすると、彼は照れたように笑うのだ。    家から一時間のところに位置する高校に入学してから、二年が経とうという二月のことだった。同級生からチョコをもらった。放課後の窓の外は、青く染まっていた。  一般にチョコを渡す日、つまりいわゆるバレンタインは、ちょうど一週間前に過ぎていたから、ちなみは友チョコを持っていなかった。なんならいつもはしわくちゃになってスカートのポケットに入っている、ハッカ飴すら持っていなかった。ポケットに手をつっこんでちょっと固まったちなみに、同級生は「お返し」はいらない、と言った。それから薄くてほくろが印象的な顔に少し不安を浮かべて、迷惑ではないか、と聞いた。うん、と答えると彼はほんのりと頬を染めて、颯爽と立ち去っていった。正確には三歩目まで颯爽としていた。彼は盛大に腰を机のかどに打ちつけたのだ。    次の日の放課後、そうは言っても、とコンビニで買ったチョコレート菓子を持って二つ隣のクラスを覗くと、創一は数名のクラスメイトに外国語を教えていた。赤いペンで男子生徒のノートに何か書き込んでいるらしい。〇〇、あの人。ともう一人の男子生徒がこちらを見遣って彼に声をかけた。ぱ、とこちらを向くと、創一は少し迷ってから、文字の続きを書き切って、生徒たちにことわるとこちらへと歩いてきた。す、とばれないように息を吸い込んで、ちなみは片手を軽くあげた。 「ちょっと、時間いいかな」 「もちろん」 「友達は大丈夫?」 「大丈夫、あそこまで行けばソノ、園田が中村に教えてくれるから」  ああ、奥が園田ね、と言って、彼は後ろ手で教室の引き戸を閉めると、どこに行けばいい、と少し硬い顔で聞いた。  人が少ないところがいいかな、と言う声に頷くと、彼は東館の方へ歩き出した。三年生の教室と、芸術の教室がある塔で、あまり馴染みがなかったが、彼はよく知っているのか、少し背の低い後ろ姿には迷いがない。しばらくすると、創一は廊下の端にある赤い自動販売機の前に立って、小銭を二枚入れると粒なしコーンスープとミルクココアの缶を一つずつ取り出した。 「どっちがいい?」 「……安い方……」 「値段は一緒かな」 「じゃあコーンスープ」 「はい」 「ありがとう」  ちなみはコーンスープが好きだった。彼が素手で持っていたから、あまり構えずに缶を受け取った。あまり熱くないと思ったが、しばらく持って黙っている間に指先が温まってくる。思いの外冷えているらしかった。 「ごめん、ちょっとやっぱりテンパってるみたいだ」 「え?」 「ここ、寒いじゃん」 「ああ……」  そういえば、ここは教室よりもずっと寒い。ごめん、中に入る?と聞く彼は、彼の言うとおりテンパっている。普通に考えてそろそろ本題に入りたいところだろう、とちなみは苦笑した。 「「あの」」  被った。だけど、予想した沈黙は訪れなかった。創一がすぐにこちらの目を見て、好きです、と言った。 「このタイミングでわたしたのは、その、当日に勇気がなかったからです。尻込みした。あとは、友チョコだって思われるのがいやだったんだ。だから昨日のあれは、正真正銘の本命チョコです。昨日もテンパってて、わかりにくかったと思う、ごめん」  創一はそこまで一気に言ってから、ごめん、こんな捲し立てて、と言って、さらに、ごめん、別にこんな、謝りたいわけじゃないんだけど……とミルクココアの缶を撫でた。その間、彼は一度も俯かなかった。切れ長の瞳が、自動販売機のライトに濡れたように光っていた。 「……なんでわたしなの?」  創一の鼻のあたりに視線を集中させながらちなみがつぶやくと、彼は少し緊張したように缶を握った。きつい印象を与えなかねない目が優しく見えるのは、彼の表情のせいなのだ、とちなみは思った。いつの間にか彼の目を見てしまう。 「笠原さん、今年の前期、文化祭実行委員会だったでしょ」  ちなみは頷いた。じゃんけんで負けて押し付けられたが、結構楽しくていい思い出になったなぁと、思った。 「俺、実は生徒会の端くれでさ、ちょっと監督みたいなことしてたんだ」  覚えてない?と聞かれたので正直に頷くと、彼はちょっと苦笑して、暫くぶりにこちらから少し視線をそらした。それからミルクココアの間を手のひらの間でころころと転がした。 「その時に、いつの間にかみんなサボる放課後の係会とかに、必ず来てる子がいるなぁって思って、それで、」  いつの間にか。と彼は缶を片手に移して、もう片方の手で口元に手をやった。薄い唇が、少し隠れた。 「……へえ……」 「いや、自分もほんと、なんでかわかんないんだけど、なんかもう、例えば笠原さんが座ってるだけでたまんなくて、それで」  好きなんだ。俺と付き合ってほしい。と創一は丁寧に発音した。そういえば彼の言葉は少し訛っているが、丁寧で綺麗だ。とても、綺麗だ。 「そういえばあの時、ちなみさんは何を言おうとしたの?」 「え」 「その、コーンスープ、飲んだ日」  ちなみは彼が運んできたファミレスのコーンスープを受け取りながら首を捻った。そしてぼんやりと思い出す。そうだ、自分は何かを言おうとして、かぶって、それで創一の告白を受けたのだ。 「……なんだっけ……うーん」  創一がそっと笑いながら、席について、手を合わせていただきますといった。思い出しとく、とスープを掬うと、彼はよろしくと言った。そういえばチョコレート菓子を渡すのも忘れた、とちなみは思いだした。忘れた、ということを思い出す。ちょっと面白い。  きっと、創一の言葉も、あの日のわたしの言葉のように、忘れてしまう日が来るのだろう。声は一番忘れやすいと言うから、この丁寧な発音も忘れてしまうのだろう。だけど忘れてしまった何かがあったこと、それはきっと、穴というよりは、思い出本来の姿として、自分を温めてくれるのだ。  ちょっと口に含んだスープは思ったよりも熱かった。ふと、ちなみはあの日はちょっと冷めていたコーンスープが、とびきり甘かったことに気がついた。  
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