最終話:もしも続きが許されるなら

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 頬を湿らせたまま、私は再び椅子に腰掛けていた。母と二人、椅子ごと移動し今はテレビの前にいる。  茶々を撫でながら、音声を背景に取り止めのない話をした。途切れることなく続けた。いや、途切れるのが嫌で無理にでも口を動かした。止めると、鼓動が聞こえて恐ろしかったのだ。緊張と恐怖で泣き喚く鼓動が。  振り返れば、幼い頃は毎日のように話していたものだ。徐々に回数は減り、自室に篭るようになってしまったが。またも幸福な頃を思い出し、死が一層怖くなった。  もう少し、自由に生きても良かったな。なんて後悔ばかりが過ぎり続ける。目の前に置いた、死の薬が静かにこちらを見ていた。    刻々と秒針は進む。一分が長かった。最期から遠ざかろうと努めても、一瞬も離れない。意思とは関係なく、何度も時計を見てしまった。母には分からないようにだが。 「でね、あの先生寒いギャグばかり言うんだよ。反応に困っちゃった!」 「ふふ、変わってないんだねー」  今日という、私にとって特別となった一日を、面白おかしく繰り広げた。その全てを、母は楽しそうに聞いてくれた。    明日も明後日も命が続くなら、こんな時間は訪れなかっただろう。時間の重みも、突然の終わりがあることも、きっと気付かなかった。幸せな日々の存在も、優しさも感謝も流していたかもしれない。  何も心に留めないまま、老いていたかもしれない。  なんで今気付いてしまったんだろう。どうして、もっとちゃんと考えなかったんだろう。  幸福だったのに、なぜ不幸にばかり気を取られてしまったんだろう。なぜ、自分自身を認められなかったのだろう。ただ、自分を殺すのに一生懸命で、そうやって自分を不幸にしてばかりで。  もっと早く気付いていれば、少しは前向きな生き方ができたかもしれないのに。せめて考えることくらいはできたかもしれないのに。  どうして、どうして今なの――。    頭の中、何かが割れる音がした。経験のない激痛が頭を刺し、勢いよく椅子から転げ落ちる。すぐに母が寄ってきて、私の体を強く抱いた。慌てた様子で何かを言っているが、声の輪郭が捉えられない。  目の前は真っ暗だった。ワンワンと、茶々の咆哮が耳を突く。  頭が真っ白になって、何の判断も出来ない。激痛に呻くことしか出来ない。  ただ怖かった。痛かった。本能で感じる混じり気のない恐怖が、心身を激しく殴打した。  死にたくないと思った。生きていたいと思った。    しばらく経って痛みが消えた。激痛が嘘のように失せ、五感も薄らいでゆく。  恐怖感さえも薄まってしまったのか、不思議と怖さは無かった。胸元が生暖かいもので染みる。    お母さん、ごめんね。幸せに生きられなくてごめんね。死にたいとばかり思ってごめんね。もう少し頑張って幸せになればよかったね。  辛いこともあったけど、そればかりじゃなかったよ。それなのにごめんね。気付くのが遅くてごめんね。    ねぇ、お母さん。もし続きが許されるなら、私は。
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