三上創太郎

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三上創太郎

 ひと通り話し終え、ぐいと水を喉に流し込んだ父は、大きく息を吐いてグラスを置いた。  あまりのことに僕はグラスの底が描いた水の輪をただただ見つめることしかできなかった。たった今聞かされた真実に、頭が追い付かない。追い付こうとする以前の問題かもしれない。まるで壊れたレコードのように、僕の思考は止まってしまっていた。 「結局、彼はお前を迎えには来れなかった」  そうか。僕は、捨てられたのか。 「過労が原因となり、脳の病気で突然亡くなってしまったんだ」  そうか。本当の父親も母親も死んじゃったのか。 「母さんと話し合い、お前をそのまま引き取ることに決めた。その頃既に、お前は俺たちの家族だった。見捨てることなんて、出来なかったんだ」  そうか。それで、育ててくれたのか。ようやく理解した。  父が少しずつ語る声を、僕は水中から聞いていた。ポコポコと水面に昇りゆく僅かな酸素は、かろうじて頷ける程度の僕なりの両親への最大の気遣いに使った。窒息寸前で、今僕は生きている。  ねえ、父さん。まだ、聞きたいことがあるんだ。声にならない声を懸命に投げ掛けるように、僕は気を抜けば一瞬でがくりと落ちそうな頼りない首を、懸命に持ち上げた。  父は、そんな僕の首を一緒に支えるかのような力強い瞳で僕を射抜く。前のめりになり、僕の奥の奥までを見つめる。 「創太郎。彼は、作家だ」  僕の中で、何かがごとりと音を立てる。 「彼は、やり抜いた。愛する人との約束を、果たしたんだ」  最早支えがなくとも首の力は抜けない。その代わり、じわりじわりとこめかみから眉間にかけてが熱を帯びてゆく。 「彼は、描きたかったものを描ききって、死んだんだ。彼は俺の最大の恩人だ。借金だけじゃない。その後も生きる指針になってくれた。作品を遺してくれた。そしてなによりも、創太郎という欠けがえのない希望を俺たちに与えてくれたんだ」  熱が徐々に下瞼を濡らしていく。  視界の端で、母さんが顔を覆って泣いている。 「もう少しで創太郎を迎えに行けそうだ。いつの間にか、僕の書く理由は息子になっていた。ようやく親になれそうな気がしている。早く息子に会いたい。そう電話で話してくれたのが、彼との最後の会話だった」  徐々に溢れ始める涙をこらえ、歯をがちりと噛みしめる。 「彼から何度も電話があったよ。創太郎は元気か、と。元気だと答えると、ありがとう、頑張れそうだと言って電話を切ったもんだよ」 「うっ」  思わず漏れ出る声を堪えながら、僕はもう涙を止めることが出来なくなった。これまでの気持ちと今感じている気持ちとがごちゃ混ぜになって、感情に抑えがきかなくなっている。けれども聞きそびれてはいけないとどうにか声を振り絞る。 「もう一度……名前を聞いても良いですか」 「高井、総次郎。創太郎という名前は、彼がつけたものだ」 「違う……そうじゃなくて。だって、その名前って……」  涙腺に歯止めがきかない。父はもう、黙って頷いただけだった。  高井総次郎。あの作家の名前だ。まさか僕が、自分が心底惚れ込んだ作家の息子だったなんて……。 「これが、彼の遺作だ」  父さんから、一冊の本が渡される。  著者は高井総次郎。  タイトルは、【(みにく)かろうが】。    僕に、ぴったりなタイトルじゃないか。 「父さん、僕、大学で文学を学びたい」  家族と、恋人と、夕暮れと、公園と、本と。様々なものが僕を作り上げてきた。僕も、そういうものを描きたい。そう、思ったんだ。  親子三人で歩いた帰り道、夏の終わりの物語を彩ったのは、空一面の鱗雲。青と白とオレンジのグラデーションは、まだ見ぬ僕の未来と同化してどこまでも続いていた。
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