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あまり特に僕はこれまでの時間で不自由と思わないで暮らしていた。
今、こうしている時だって別に悪い気分がしない。ただ一度間違えた事は有る。その時に忘れ物をしたような気がするが、そんな事だってもう忘れてしまった。
子供のころから塾に通い続けて、高校も大学も結構良いところに進んだ。もちろん就職だって一流と呼ばれるくらいの商社に受かって、言うことはなかった。
「疲れたよ」
けれど、僕はそんな言葉を残して会社を辞めてしまった。その疲れが子供のころからの勉強に有ったのか、単純に仕事に合わなかったのかなんて今では忘れてしまった。それにもうどうでも良い。
僕は疲れた気分で飲めない酒を求めて今のオーセンティックバーを訪れて、その店で働き始めた。
結構この職は僕に合っている。
「聞いてくれよ。会社の若いやつが使えないんだ」「今日は良いことが有ったの」「相談聞いてくれないかな」
人の悩みを聞いたり、時には元気づけたりするのが得意なのだと知ったのはこの仕事についてから。僕は人見知りで物静かな人生を歩んでいたと思っていたのに。忘れたみたい。
充実した毎日を送ってないわけではないのだが、なんとなくだけど忘れている気分が残っていた。
夕方を忘れる時間になると仕事帰りの人なんかが良く集まる。常連さんも増えている。
「こちら、最近通ってる店の女の子なんだ」
歳を取って結構身分も良さそうな常連さんで、どうやら同伴のために寄ってくれたみたい。
「ちょっと、そんなお店と勘違いされちゃうじゃないの」
「えっと? 違うの?」
僕の心を読んだように連れられた女の子が否定をしている。そして自分の名刺を取り出して僕の方へ差し出していた。
そこに有った名前に記憶の中の忘れ物に気が付いた。そして彼女の顔を見る。忘れてない懐かしい思い出が有った。
「一応、ピアノバーって事になってます。良かったらどうぞ。因みに本名ですから」
僕も名刺を彼女に渡す。名刺を見た彼女はちょっと笑っていた。
「ピアノも聞けるスナックなんじゃなかったの?」
まだ常連さんはこんな話を続けていた。
「まあ、確かにお酒にお付き合いもしますし、営業の届け出的にはスナックと一緒です。だけど、ピアノがメインですから」
楽しそうに会話をしている。こんな時は僕からはあまり話さない。もちろん過去の思い出なんて、彼女の営業妨害になりかねないから今は忘れる。
「彼はお喋りもできて良いんだが、お酒は頼んじゃだめだよ。おいしいお酒を飲みたいなら店主さんにね」
常連さんの言う通り。知っている人になると僕にカクテルなんかは頼まない。それは僕がヘタッピだから。
「それは重々承知してます。でも、ストレートなら問題有りませんよ。それにお話は好きだから付き合います」
「そう! 店主さんの方は話さないからねー。腕は良いんだけど」
無口な店主もそれは自覚しているらしい、横の方で静かに頷いている。
「もう君もなん年にもなるんだから上達しないと。理由でも有るのかね?」
すると店主がそれには反応してにこやかな顔になっていた。そして「こいつは飲めないから」と呟く。
「自分は遺伝子的に酒が飲めないんです。だから美味しいカクテルを作れなくって」
実際自分でも研究はしているのだが、味見をしているうちに僕は倒れてしまう。そのくらいに弱いんだ。なのでカクテルに関しては全く上達しない。
「それじゃあ独立もできないじゃないか。君だっていつかは主にならないとダメだろ」
常連さんの言葉を聞いて僕は落ち込んでいた。僕と店主は師弟の関係。もちろん店を開くのは目標にしている。それでも光明は忘れてない。
それは店主の言葉で、今も「こいつは作法は良いんだ。アルコールじゃなければ上達するだろう」と話してくれている。若干常連さんは店主が、今日は良く話すので驚いている。
常連さんはわかっている様子で「そうか、楽しみだな」と頷いていた。
店が終わって僕はポケットの紙片を時々確かめながら街を歩いた。この辺の店はかなり知り合いになっている。それでも目的地は知らなかった。単純に縁がなかっただけ。遺恨が有るわけではない。
ビルの二階にある、ちょっと重めのドアを開くと、ピアノの音が響いている。そのピアノに向かっているのはバーに訪れた彼女だった。
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