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宿直室の扉を押し開けエントランスホールに出る。消灯後の空間には人型のピクトグラムだけが妖しく光っている。左腕のアナログ時計が指し示す時刻は二十三時二十分。いよいよ年明けが近い。そう、今日は十二月三十一日。泣く子も黙る大晦日。
よりによってこんな特別な日に宿直が回ってくるなんて本当にツイてない。心底から落胆しつつ、いやしかし仮に今日が休日だったとして、この俺にいったい何ができただろう。二十五歳独身恋人なし。趣味と呼べる趣味もなし。強いて言うならば売れない地下アイドルの追っかけ程度……となれば家賃五万九千円、築二十年の狭苦しいワンルームアパートで一人、味気ない年越しそばを黙々とすするのが関の山ではなかろうか。
なんとなく鬱々とした気分で暗がりを進む。冷え冷えとしたフロアに靴底のこすれる音が響く。突き当りを左折しエレベーターに乗り込む。
ここ、特別養護老人ホーム「あんねいの里」の介護職員となり早三年。夜間帯の施設巡視や緊急時の外部対応を主とした、いわゆる宿直業務を任されるようになってからは約半年が経つ。もともとは施設長やらアルバイトやらの仕事だったのだが、年々深刻化する人手不足の影響により現場の人間にも白羽の矢が立ち、今に至るというわけだ。
「ふああ……」
不意に漏れる大あくび。
巡視は二階、三階とつつがなく続き、そして最上階。六階です、の無機質な女性アナウンスと共にエレベーターのドアが開く。広大なフロアに足を踏み入れる。俺が思わず息を呑んだのは、次の瞬間だった。
「…………」
遠目に見ても圧倒されてしまう、華やかとしか言いようのないオーラ。
今日の夜勤者は、どうやら推しらしい。
「お疲れさまですっ」
「お、お疲れ!」
狐坂朱莉、それが彼女の名前だ。
きつねちゃんの愛称で親しまれている狐坂さんは、言うなれば「あんねいの里」のアイドルであり、看板娘であり、利用者さんやご家族、職員にまでファンが多く存在する、弱冠二十歳のザ・愛され女子である。かく言う俺もファンの一人だ。
何せ美人、顔がいい。しなやかな金髪ショートに映える、東北出身者特有の抜けるような白肌に、通った鼻梁に、ぷるんと艶めくコーラルピンクの唇に――とまあ、入職当初こそ、その極上のパーツ一つひとつに目が行きがちだったのだが、利用者さんらへの丁寧かつ愛情のこもったトップアイドル的神対応っぷりを見ているうちに好感度がみるみる上昇、彼女の人柄に心惹かれるまでそう時間はかからなかった。
「宿直だったんですね」
「うん、せっかくの大晦日が台なしだよ」
「あたしも本来ならおウチでゆっくりするはずだったんですけど、急に欠勤者が出てしまって……」
紅白観たかったなあ、と年季の入ったデスクに力なく突っ伏す狐坂さん。スタッフステーションのカウンターを介し、なんてことのない、それでいて至福のようなやりとりは続く。
月に一度あるかないかの、二人だけの束の間のひととき。この数分間がブラック、もといチャコールグレーな職場環境におけるモチベーションの向上に一役買っていると言っても過言ではない。
笑った顔、真面目な顔、拗ねた顔、照れた顔。短時間のうちにころころ変わる表情を存分に堪能した俺は、
「ところで、今夜は特変なさそう?」
「はい、体調不良の方もいませんし、みなさんいいお正月を迎えられそうです」
「そっか。じゃあ、もし何かあったら内線に連絡よろしく」
「了解ですっ」
俺を見送る狐坂さんは、いつだって純度百二十パーセントの笑顔だ。今宵も例外ではない。ぱっちりとした濃褐色の瞳を弓なりに細め、こちらに向かって小さく手を振っている。心臓が喉の奥でどきんと勢いよく跳ねる。
いやはや、期せずして、近年まれに見る最高の年越しになりそうである。
得も言われぬ多幸感に頭からとっぷりと浸りつつ、くるりとフィギュアスケート選手ばりのターンを決めた俺は、そしてエレベーターホールに向かって歩き始めた。
「……あれ?」
と、そのときのことだ。七、八メートルほど歩を進めたころだろうか。不意に聞こえた狐坂さんの声に振り返ると、そこにはパジャマ姿の小柄なご老人の姿が。
あれは、丸子さんだ。兎澤丸子さん、齢七十七。月に一度、三泊四日程度の短期入所を繰り返している顔馴染みの利用者さんである。要支援1と、身の回りのことはほとんどご自身で行ってしまうような元気ハツラツおばあちゃんなのだが……はて、いったいどうしたというのだろう。
「きつねちゃん、驚かせてごめんなさいねえ」
「どうかされました?」
「なんだか眠れなくて……」
直後、スタッフステーションに戻った俺の存在に気づいた丸子さんが、
「あら、たぬきさんじゃない」
「どうもどうも」
「職員さんが二人もいるなんて、今夜はなんだか賑やかねえ」
目尻に刻まれた無数のちりめんじわが、分厚い丸メガネの奥でさらに深みを増す。
ちなみに、丸子さんが言う「たぬきさん」とは、つまり俺のことだ。綿貫栄緑をもじって、たぬき。名づけ親は元同僚である。俺自身このあだ名を特に気に入っているわけではないのだが、利用者さんにすぐ名前を覚えてもらえるというメリットがあるため、わりと重宝していたりする。
「丸子さん、眠れないみたいなんです」
「ほう」
ふだん睡眠導入剤を服用しているわけでもない彼女に独断で薬を提供するわけにもいかず、だからといってこのまま居室に誘導するのもちょっぴり気の毒な気がする。とりあえず、ノンカフェインの温かいお茶でも飲んでもらって様子を見ることにしよう。思いつつ、キッチンに向かおうとしたときのこと、
「そうだ!」
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