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「へ?」
「どうせなら一緒に新年を迎えちゃいましょうよ」
と狐坂さん。
「ちょうど年越しうどんもありますし」
「年越しうどん?」
そして、じゃーん! とカウンター裏の収納スペースから取り出したのは、真っ赤なパッケージが印象的な国民的和風カップ麺だった。
「これ、大好きで買い置きしてるんです」
「まあ、おいしそう」
「でしょう? こんな機会もなかなかないですし、一緒にいただきましょうよっ」
「あら、いいの? お邪魔じゃないかしら?」
「ぜんぜん! よかったら、たぬきさんもどうですか?」
「お、俺も?」
「はい! 三人で特別な夜にしちゃいましょー!」
というわけで、女子二人の年越しカウントダウンに野郎が一人、急遽加わることになってしまった。狐坂さんを左端に、丸子さん、俺といった横並びの配置でもってデスクの椅子に腰かける。
年明けまであと二十分少々。よーし、と気合を入れた狐坂さんが、真っ赤なジャージの裾をまくり上げる。三人分のカップ麺のビニールを破き、容器のフタを半分まで開け、さらさらの粉末スープを手際よくまぶしていく。傍らの電気ポットから勢いよく熱湯が吐き出される。
それにしても驚いた。狐坂さんが、まさかこのカップ麺の愛食家だったなんて。実は俺も宿直や夜勤の日にはよくお世話になっていて、言わば推しメン、いや推し麺なのだ。
彼女との思いもよらぬ共通点に頬の筋肉が自然と弛緩してしまう。
「たぬきさん、なんだかうれしそうねえ。いいことでもあった?」
「うはは。まあ、そんなところです」
そうこうしているうちに五分が経ち、俺たちはそれぞれに容器のフタを開けた。まるで玉手箱のごとくもわもわと立ち昇る湯気、そして同時にふわりと鼻を抜けてゆく、かつおだしの馥郁たる香り。
お好みで七味唐辛子をかけたあと、
「いただきます!」
三人そろって年越しそばならぬ年越しうどんを食し始めた。
「おいひぃ……」
「はああ……いい仕事してるわねえ」
乙女たちのうっとり顔を横目に熱々のお揚げを一つ、割り箸でつまむ。フーフーと息を吹きかける。食欲をそそる、輝くばかりの黄金色を視覚で十分に楽しみ、
「うまあ……」
これだ、これ。繊細な味わいのスープをたっぷり吸い込んだ、ふっくらジューシー、大きなお揚げ。ほどよい塩味を伴った上品な甘さと、ふくよかな旨味が口いっぱいにじんわり広がっていく。五臓六腑に幸福の二文字が染み渡る。お馴染みの、コシと弾力のある太麺を二、三口すすったころには早くも身体全体が温まってきた。
空調の音だけが慎ましやかに流れる空間の中、お腹と心を存分に満たしながら、俺たちは数えきれないほどたくさんの言葉を交わし合った。終始みんな笑顔だった。俺が七味唐辛子にむせ、たらりと鼻水を垂らしたときなんか、二人は心配する素振りを見せつつも大笑いしていた。
会話に夢中になり過ぎたせいで、気づいたときにはもう年が明けていた。
「きつねちゃん、たぬきさん、明けましておめでとう。今年もよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
「素敵な一年になるといいですね」
果たして、どんな日々が俺を待ち受けているのだろう。仕事に恋にプライベートに……主に狐坂さんとの関係の進展を願いながら、しかしその実現のためには言わずもがな、自ずと一歩を踏み出さなければならない。
「……お腹もいっぱいになったことだし、そろそろおいとましようかしら」
丸子さんが満足げにつぶやいたのは、〇時を十分ほど回ったときのことだった。
「お部屋までご一緒します」
「ありがとう、きつねちゃん。でも結構よ、すぐそこだもの」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫。そんなことより、狐と狸って、てっきり犬猿の仲だと思い込んでたんだけど……」
一拍、二拍と置いた丸子さんが、続けざまに一言、
「あなたたち、とってもお似合いよ?」
その瞬間――時間がぴたりと止まってしまったかのような、そんな錯覚に陥った。
それじゃあ、あとは若い二人で、の言葉といたずらっぽいウィンクを置き土産に、丸まった背中が徐々に、徐々に遠のいていく。
自然と顔を見合せる俺たち二人。
火照った頬をカップ麺のせいにして、必死に平静を取り繕って、
「お、お似合いって……うは、うはは」
「なんだか照れちゃいますね」
「ああ……うん……」
たった数十分のあいだに、世界はがらりと様変わりしてしまった。
みんなのアイドルである狐坂さんの存在をより身近に感じられるようになったのは、ほかでもない丸子さんのおかげだ。
手元の、空になった容器を感慨深く見つめる。
見つめながら、俺は次の言葉を探している。
「あの、さ――」
推しが、やわらかな表情でこちらを向いた。
「たぬきの推しごとっ」完
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