9人が本棚に入れています
本棚に追加
「セーターも着ねーで、寒くねーの?」
健人が不意にアタシの腕に触れた。
温かい手だった。
「冷たくなってんじゃん」
半袖の中にまで指を這わせてこようとする。
背筋がゾワゾワするのに、なぜか不快に感じない。
「触らないでよ」
振り払うと、健人はパッと両手を上げた。
「これは失礼」
芝居がかった調子で謝ってくる。
「カノジョの前で他の女触るとか、何考えてんの?」
訳もなく、鼓動が速くなっている。それを隠したくて必死になった。
「へえ?お前は嫌じゃなかったんだ?」
「馬鹿じゃないの?鳥肌立ってるから」
「どれ?」
アタシの腕を覗きこんでくる。
本当に、苦手だ、この男。アタシのこと全部、見透かしてるみたいで。
「ほら、貸してあげる」
里奈がアタシの後ろからカーディガンを羽織らせてきた。
里奈の家のにおいがする。喋りだすと止まらないおばちゃんと、おばちゃんの話を聞くために生まれてきたみたいなおじちゃんと、サッカーバカの里奈のお兄ちゃん。
嫌いだ。里奈の家に行くと、惨めな気持ちになるから。
「いい、大丈夫」
突き返したら、健人に取られた。
こいつもアタシに着せてくる気かと身構えたけど、奴は何を思ったのか、自分の腕をそのカーディガンに通した。
「やめてよ、伸びちゃうじゃん」
里奈が笑いながら怒る。
やけに嬉しそうだ。
「これ、里奈の匂いがする」
袖口のあたりを嗅いで、健人がヘラヘラしている。
何だろう。すごいムカつく。
「返して」
立ち上がって、健人からカーディガンを脱がしにかかった。奴の背後に回った時、柑橘系の匂いが強くなった。
生意気にも香水を付けているのだ、この男は。そのせいで、知りたくもないのに健人の居場所がすぐに分かる。
「返しても何も、私のだからね?」
里奈が冗談めかして指摘して、さりげなく健人とアタシを引き離した。アタシに代わってカーディガンを脱がしてやっている。ヤキモチでも妬いたのだろうか。
「はい」
改めて、カーディガンを差し出してきた。
仕方なく、受け取って着る。
「わり、オレのにおい付いちゃったかも」
健人がニヤニヤして言う通り、シトラスの香りが移っていて、まるで健人と密着してるみたいだ。
「最悪」
口ではそう返しながら、里奈の家のにおいが消えていることに、内心ホッとしている。
「というわけで、今度ダブルデートしようね」
健人がにこやかに里奈に囁いた。
何が『というわけで』なのかは分からないけど、こいつのこんな顔、初めて見た。嘘みたいに優しい顔。
「ダブルデート……?」
里奈はアタシの方をチラッと見て、少し躊躇う表情を見せた。
里奈は嫌だろう。アタシのカレシのことが今でも好きなのだろうから。
アタシの中の黒い部分が笑った。
「いいね、ダブルデート」
賛同したら、健人は笑みを小さくして、スラックスのポケットに手を突っこんだ。
そして、アタシの聞き間違いでなければ、
「悪い子だなぁ」
と、呟いた。
二人が去っていった後、小説の構想の続きを考えようとしたけど、さっきまであんなにインスピレーションが止まらなかったのに、まるでアイデアが死んでいくように、ひどく味気なく思え始めた。
最初のコメントを投稿しよう!