ママがいるから帰りたくない

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ママがいるから帰りたくない

〈望花’s vison〉  凍てつく寒さの中で、母親に渡されたカイロを握りしめて、ボクは電車に乗った。  大学の受験会場へ向かう主人公。電車の中で初恋の女に声をかけられる。女は高校のサッカー部のマネージャーで、主人公の1学年先輩だ。主人公は、中高でサッカーに明け暮れる日々を過ごしたけど、高校の最後の大会を前に膝を壊してしまって、プロを目指せなくなった。絶望していた主人公に寄り添ってくれたのがこの先輩だった。それで主人公は、先輩を追いかけて同じ大学にーー。  いやいや、設定に無理があるな。  高校への道の途中で、アタシは首を振った。  1学年先輩ということは、主人公が怪我した時にはもう高校を卒業していることになる。どうやって寄り添うというのだ。初恋が高校3年生っていうのも遅すぎる。  まあ、アタシも人を好きになったことはないけど、そういう人には初恋は来ないのだろう。  女を先輩ではなくて同級生にしてみてはどうだろう。  それなら寄り添うのは自然だ。いや、大会前に怪我をしたということは、大会中はマネージャーも駆り出されて忙しいはずだ。大会が終わった後から寄り添ったのか?何だか間延びしそうだ。そもそも、同級生だと憧れの女性の感じが出ないし、浪人しない限り、大学に追いかけていくという設定に無理が出る。  もう、女を同級生にしてしまって、主人公はいっそ浪人させるか。そして、主人公の怪我をきっかけに女はマネージャーを辞めたことにする。辞めた理由は?主人公の怪我に責任を感じて。  いやいや。重すぎるし、そうすると怪我をしてから受験まで1年半以上経っていることになる。その間、何をしていたのだ。勉強か?  女は主人公に勉強を教えてあげていた?  そんなに親密なら、さっさと付き合えば良い。  風が制服のスカートをさらって、アタシは小さく身震いした。  寒い。今、現実世界(こっち)も冬だっけ?アタシは何で半袖なのだろう。  そうか、今はまだ10月だ。  それじゃあ、何でこんなに寒いんだろう。  いや、現実なんてどうでもいい。もう一度設定を考え直そう。  何だっけ。ああ、受験会場に向かう電車の中で、初恋の女に話しかけられるのだ。女は、同じ駅から乗ったのか?それとも前の駅から乗っていたのか?乗り合わせたのは偶然か?違う、その前に、女との関係性を固めないと。あれ?アタシは、何が書きたかったんだっけ?  何だか今日は頭がうまく働かない。  いつもはもっと次々にアイデアが浮かぶのに。  涼と一緒に過ごすようになってから、アタシはどんどん書けるようになった。  涼を見ていると、小説のイメージが流れこんでくる。あんなにモテるのに、本当に好きな子には手を出せずに、アタシと付き合っている、かわいそうな涼。  おとといの涼の表情には本当にそそられた。  里奈が健人のことを好きだと言うのを聞いた時の、あの傷ついた顔。そして、里奈に変な声を聞かれてしまった時の、情けない顔。  さすがに罪悪感を覚えないでもなかった。  でも、アタシだけが悪いわけでもない。  本当に好きなら、涼も黙ってなければ良かったのだ。アタシからスマホを奪いとって、里奈に好きだと伝えれば良かったのだ。里奈だって、あんな強がりを並べるんじゃなくて、本当は涼のことが好きなのだと叫べば良かったのだ。  二人とも結局、アタシを口実にしているだけだ。『アタシを傷つけたくないから』。『アタシの方が似合うから』。本当は、勇気が出せないだけなのに。本当は傷つくのが怖いだけなのに。  愚かなくらい純粋で、一途で、臆病な二人を見ていると、反吐が出そうで、それでも何かを書かずにはいられなくなる。 「おい」  腕を掴まれて初めて、自分が倒れこみそうになったことに気づいた。  何だろう、足に力が入らない。 「顔真っ白じゃねーか」  覗きこんでくる男の顔が、ぐるぐると回っている。  誰だっけ。聞いたことがある声だ。この匂いも知ってる。  男が無遠慮にアタシのおでこに手を当ててくる。 「熱あんじゃねーか。こんなフラフラなのに無理して来んじゃねーよ。家まで送ってやるから」  ああ、健人だ。  でもあいつ、こんなにお節介だっただろうか。 「歩けるか?背中乗るか?つーか、何で夏服のまんまなんだよ。それで風邪ひいたんだろ」  説教か。この男に怒られる筋合いはない。 「……うるさい」 「あ、ああ、頭痛いか?でかい声出して悪い」  意外にも謝ってきた。  調子が狂う。 「大丈夫だから、ほっといて」  腕を掴む手から逃れようとしたら、よろけて健人の方に倒れこんだ。  身震いするほど寒いのに、健人の冷たいブレザーが頬に心地いい。 「全然大丈夫じゃねーだろ。いいから帰るぞ。家どこだ」  私の腕を掴んで、無理やり歩かせようとしてくる。 「や。帰らない」 「お前な」 「やだ。ママがいるから、帰りたくない」  健人の腕に縋り付くようにして、力を振り絞って訴えた。  ち、と舌打ちが聞こえた。 「じゃあ、保健室行くぞ」  家に帰らなくて済む。  そう思って安心したら、急速に意識が遠のいていった。
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