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「善行や徳というのはね、積めば積むほど良いものだ。生まれてから死ぬまでの間にどれほど善いことをしたか、人は生ある限りそれを試される。つまりね、善いことを沢山することが大切なのだ。そうすれば、その次の人生は必ず恵まれたものになるからね」
いかにも子どもに言い聞かせるようなわざとらしい口ぶりで、狒狒の顔をしたそれは『私』に説法の真似事を始めた。まだ私が生まれてくる前の微かな記憶だ。その狒狒は古びて色褪せた袈裟をかけて、いかにも旅の途中である僧侶のような恰好をしていた。
「沢山善いことをすれば沢山徳が溜まる。これはわかるね? しかしお釈迦様というひとは、人々に沢山善いことをしてほしい。だから何度生まれ変わっても、なかなかすぐには良い人生にならないのだ。そうだねぇ、大抵の人間は、中途半端で退屈な人生を百回は繰り返すことになろうか。しかも、手前が其方にこうして教えていることを、生まれてしまうとすっかり忘れてしまうものなのだ。
もともと悪行に走るのは人の性だよ。だから何百年もかけて辛抱強く積み上げた徳が、たった一度の過ちで台無しになることもある」
狒狒はそう言いながら肩を震わせている。笑っていたのだろう。赤ん坊よりはるかに無垢で無知だった私は、もったいぶる狒狒に話の続きをねだった。暗い色の瞳をぎょろりと動かし、狒狒は内緒話をするように声を潜める。
「昔、お釈迦様がまだ生きている只人だったとき、わざと苦行というものをされた。どんなに賢くて素晴らしい人でも、飢餓の苦しみは飢餓を味わってみるまで到底わからないからだ。そうやって様々な苦しい思いをすると、それだけ様々な人々の苦しみを知ることができる。苦行によって哀れむ心と慈しむ心を知り、だんだんと良い人間になるのだ。
わかるかい? つまり徳を積むには、良いことをするだけではなく、苦労を被るという方法もあるということだよ」
狒狒は喉の奥から、くぐもった低い笑い声を漏らした。
「だから其方が次に生まれるとき、不幸を沢山沢山被れば、次の次の人生は必ず恵まれた素晴らしいものになるのだ。おや、怖いかね? しかしこれは実に良い生き方なのだよ。
どんな高僧も、聖人も、菩薩様も、そしてこれから其方の親になる者も、必ず其方に『苦労を沢山せよ』と言う。だからいまここで不幸な生涯を選択しても、やはり間違いではなかったのだと、其方はすぐにわかる」
* * *
生まれる前の幸乃の記憶が、流れるようにセージュの脳内に映る。セージュの質問への回答は言葉でなくとも構わない。ここでなら、セージュはシネマを観るより遥かに正確に、幸乃のおぼろげな記憶の全貌を聡ることができた。
「なるほど。まだ何者でもなかった頃に口八丁で誑かされたというわけか。僕はね、ときどき妙に不幸を呼び寄せる類の人間がいることには、昔からなんとなく気づいていたんだ。だけどそれがどうしてなのかは見当もつかなくて、ずっと不思議だった。ようやく絡繰がわかってとても嬉しいよ、ありがとう。時間もまだあるな」
そう言われ、幸乃はセージュから砂時計に視線を移した。残り時間は三九〇秒、つまり六分以上ある。
制限時間を超えたときどうなってしまうのか、幸乃にはそれだけがわからなかった。セージュにそれを尋ねようとしたが、幸乃は口から零れそうになったその問いかけを、ぐっと押し戻すように両手で覆う。
脚を組み彼女の前に座っている青年は、先ほどまでとはまるで別人のように変容していた。
ビスクドールのようだった白いおもては今や死人のようで、しかし唇と瞳だけは血管が煮えているように赤い。血走った二つの眼で射殺すかのように、セージュは目元に深い皺を刻み幸乃を睨んでいた。
彼の異様さ、そしてあまりにも強烈な眼差しに幸乃は戦慄し、言葉を失う。だが逃げる場所はない。助けを求めるようにソファの背もたれにしがみついたが、その瞬間、こんどは「ひっ」と短い悲鳴が喉の奥から飛び出した。
セージュが豹変したことに恐怖した、それだけではない。ソファに触れたとき、自分の左肩に、何かが乗っていると気づいてしまった。
一瞬だけ見えたのは、土気色をしたぼろぼろの皮膚だった。
――指が、手が。だけどここには二人しかいないはずだ。私に触れているのは、誰の手?
「それはあのときの狒狒だよ。ずっとどこかできみのことを見ていたんだと思う。そしてきみが不幸に陥るたび笑い転げていたんだろう。この場所できみがそいつのことを思い出したから、僕の目にそれが視えるようになった。僕が視えるようになるときみにも視える。それ以上は僕にもよくわからないから聞かないで」
セージュが焼石のように煌々と光る双眸で凝視していたのは、幸乃自身ではなく左肩のそれである。奇妙なことに、幸乃はそれの存在に気づいた途端、その手の気配や重みまで肌から感じ取れるようになってしまった。ぞわりと鳥肌が立つ。
意を決して、おそるおそるそちらへ目を向けると、彼女の肩に乗るものは更に異様さを増した。
はじめはただの『手』であったものが、次第に形を変えてゆく。粘土や泥のようにぐにゃりと変わるのとは違う。幸乃が瞬きをするたびに姿がまったく異なっているような、奇妙な変貌だった。まるで出来の悪い不気味なアニメーションのようだ。
顔のすぐそばにそんな気味の悪いものがあるのは耐えがたく、今すぐ払い落としてしまいたかったが、幸乃はソファにしがみついたままやはり微動だにできない。
肩の上のものも厭だったが、目の前に佇むセージュの眼光も厭だった。まるで鬼か悪魔の前へ無防備に捨て置かれたような心地がする。
怖気づいているせいか、腰が抜けているのか、あるいは金縛りに近いものなのか。どうしても身体が思うまま動かない。
「僕のことはいいから狒狒のことを考えて。例えば昔見た襤褸の袈裟の色形を。足元はどうだったか覚えている? 毛並みは悪い? 毛色は緋色のようだった? 歯が汚かった? 目が濁っていたんじゃない? どんな表情でどんな声だったかもっと思い出して。臭いは? 獣の臭いがしただろう。本当はあれは死臭なんだけどね、きみはまだ知らなかった。まったく人を騙したり不幸に陥れて楽しむ類の『ルヴナン』はどうしてあんなに酷い臭いがするんだろう。まさか僕もあれと同じような臭いが? いや、やめて、今は僕のことは考えなくていい。それはあとでまた聞くから、今は狒狒のことを」
セージュが次々に捲し立てる間にも、幸乃の左肩に乗っているそれは幾度も幾度も姿を変えた。だが不意に、おぼろげにすうと透けて、視えなくなってしまいそうになる。どうやら幸乃の意識が狒狒から離れると、それは消えて無くなってしまうものらしい。
幸乃はセージュに言われた通り狒狒の姿を思い出そうとしたが、それは酷く難しい注文だった。
――大体、目も耳もない頃のことを思い出せと言われても無理がある。
ほとんど無いも同然の記憶を努めて掘り起こすには、幸乃はあまりに冷静さを欠いていた。
それでもセージュは質問を続ける。長い髪がふわりと浮いて逆立っているようだった。
「この狒狒からきみは何を言われた? もう一度思い出して。きみはこいつと話をしただろう。そのときどんな気持ちだった? 楽しかった、言っていることがよくわからなかった、期待した、不安になった、可愛いお猿さんだと思った、それとも嫌なやつだと思った? 汚らしくていけ好かないお猿さんに見えそうなものだけれど」
瞳孔の奥の奥まで血の色に染まりきったセージュの瞳が、左肩から幸乃の顔へと、ぎょろりと動かされた。
嫌なやつ。
幸乃は狒狒の記憶を再び手放しかけていたが、セージュの口からその言葉が出た瞬間だけは、どこか引っ掛かるような、微かな手ごたえを感じた。
噛みしめるようにその言葉に意識を傾ける。そうすれば離れて行きそうだったあの記憶に再び指先が届き、今度こそしっかりとこの手に掴むことができる、そんな気がした。
厭なやつ。
そうだ、私はあの狒狒に似ている人間を知っている。会社の嫌な上司だ。あいつはあの狒狒と笑い方が似ているし、最初は親切な善人のふりをして近づいてくるところもそっくりじゃないか。
そして、あいつらはどことなく同じような臭いがする。実際に香っているのではないのかもしれない。けれど傍にいるとわかる。いわゆる「気配」のようなものに近いのだろうか。
あの厭な臭い。
私はよく知っている。はっきりと思い出せることができるじゃないか、あの悍ましい死臭のような何かを。そして、かつてあの狒狒から知らず知らず感じ取っていた厭な気配も。
――臭いのだ、あの男も狒狒も。きっと人間の汚いところを集めて腐らせたような酷い腐臭。あの狒狒からはそんな厭な臭いがしていた。
「すごい。まさか例の塵屑野郎がここで役に立つなんて。おかげでようやくお出ましだ」
セージュの感心したような声は、醜悪な獣の咆哮によって搔き消された。
とても声とは思えぬほどの轟音に、幸乃は驚いて咄嗟に目を瞑る。不快な臭気に顔をしかめながらも、そろそろと瞼を開くと、温室の中は先ほどより一層不可解なことになっていた。
セージュと幸乃の間に、巨大な狒狒の顔だけが浮かんでいるのである。束の間幸乃への執着を失くしたのか、狒狒はセージュだけを恨めしそうに睨みつけ、憎悪の籠った咆哮をもう一度激しく浴びせかけた。
幸乃が記憶していた旅僧とは随分な違いで、いま目の前の怪物はただの怒り狂う獣でしかない。
毛を逆立てた狒狒が牙を剥いてセージュに襲い掛かろうとしたとき、幸乃は瞬時に彼が無惨に噛み殺されることを予感した。それより先は恐ろしすぎて何も考えられない。ただ雷に打たれたように全身が竦み、頭が真っ白になる。
苦悶と恨みの籠った甲高い悲鳴がドームに響き渡った。
だが、幸乃が恐れた惨劇は起こらない。皮膚に深々と突き刺して赤い肉を裂いたのは、狒狒ではなくセージュの牙だった。狒狒はセージュから逃れようと頭を振るが、すぐにその動きは鈍くなる。
大きな狒狒の顔にはセージュの長い髪が幾重にも絡み、鬱陶しくまとわりついていた。その毛束に撫でられるだけで、あれほど怒り猛っていた狒狒はどうしてか威勢を失くしてゆく。
思わぬ事態に、幸乃はあっけに取られた。
一瞬だけ呑気に、昔観たヴァンパイア映画のワンシーンを想起したが、セージュは臭い狒狒の血など口に含むのも厭なようだ。墨が混じったような気色悪い血液を、だらだらと口の端から垂れ流している。
しかしその赤黒い滴りは、人の血とは似て非なるものなのかもしれない。あれほど巨大だった狒狒の頭部は血を流すにつれみるみる萎み、遂には人の頭ほどの大きさにまで縮小した。
シルエットだけならば、狒狒はセージュの両腕に抱かれてキスをされている赤子のように見えたことだろう。狒狒を絡めとるセージュの髪はさながら非情な御包身だった。いまや狒狒は完全に身体の自由を失い、赤子同然の無力な存在に成り果てている。
それでもなお、腐臭が湧きたつ血を流し、狒狒の頭部はますます萎み続けた。よく見れば、セージュが牙を突き立てた箇所から少しずつ、狒狒は狒狒でなくなっている。少なくとも幸乃にはそう感じられた。
緋色の毛は既に抜けそぼり、土色のぼそぼそした肉塊と化している。肉、といっていいものかもわからなかった。幸乃が想起したのは、乾ききって生気のない、灰色の樹皮である。どこか色形の悪い流木にも似ていた。そんなことを考えていると、かつて狒狒の口や眼球であった部分から色の悪い葉が生え始め、ばさりばさりと飛び出しては床まで垂れた。
ただの醜悪な観葉樹と化したこの狒狒に、未だ敵意や念のようなものが宿っているのかどうか、定かではない。
幸乃は、変わり果てた狒狒を哀れとは微塵も思わなかった。彼女にとってそれより気がかりだったのは、狒狒を絡めとっているセージュの髪もまた、なにか植物の蔓のように変移していたことだ。
酷く顔色の悪い彼の肌も、不思議と痩せた木の幹を思わせる。古くて細い、まるで誰も足を踏み入れない森の一番奥に佇む、誰も見たことがない樹木のような――
突然、幸乃の視界が奇妙に歪んだ。まるでゆるやかに失神するような心地悪い感覚に溺れる。僅かな息苦しさをおぼえたあと、幸乃の意識は底なしの闇の中へと落ちていった。
* * *
「あの場所のことを最初に温室と言ったけれど、僕は牢獄と呼びもする。きみにとっては尋問室かも。だけど僕にとっては捕まえた『おばけ』を置いておくためのショーケースで、おばけにとっては絶対に出られない特別な檻だから」
やんわりとした穏やかな声が耳に入り、私ははっと我に返った。平は不貞腐れたように大きく息を吐くと、左手でマスクを外して紅茶に口を付ける。右の指先で軽く自分の顔に触れてみると、私もいつもと同じ、使い捨ての不織布マスクを口元に付けたままだった。
平が紅茶を飲んでいる間、私は御行儀など構わずに彼の姿を観察せずにはいられなかった。が、どうやら最初に出会ったときと変わりないようだ。鬼のような形相でもなければ異様に充血した赤い目でもない、ビスクドールの顔。ちゃんと可愛げがある。
私はといえば、永い昏睡状態から覚醒したばかりのような、少し妙な感覚だった。どこか朦朧としたまま俯くと、ティーサロン・ダイアナの白いティーカップを手に持ったままであったことに気づく。
なんとなく、私はマスクを外し、平と同じようにそれを口元へ運ぶ。熱い湯気にふわりとまつ毛を撫でられた。たった今運ばれてきたばかりのような温かさに、私は溜息をついて心底安堵する。
カップをソーサーの上に載せ、私は着席したままぐるりと店内を見まわした。けれど、やはりおかしな点はない。他の席の客達は相変わらず談笑したりタブレットを眺めたりしているし、レジの方からはウェイターが小銭を数えている音がする。
紅茶を飲みながら、私は少々遠慮気味に、平へいくつかの質問をした。ただ、ここはあの温室ではないし、私は平ではないから、彼が何もかも本当のことを答えているのかはわからない。
私が一番気になっていたことは、なんとなく後回しにしてしまった。それが結局、私から平への最後の質問となった。
「あの狒狒は何だったんでしょうか。妖怪とか悪霊とか、そういうもの?」
「そうかもしれないけれど、僕もよく知らない。案外、何者でもないのかも。悪いものの群れをまとめて魑魅魍魎と言うでしょう。けれど実際は、魑魅魍魎を構成するひとつひとつの存在すべてに名前があるわけではないのだと思う。だから僕もひとまとめに『ルヴナン』とかおばけと呼んでる」
平はそう言いながら徐々に目を伏せた。眠いのかもしれない。
「けれどね。何者かわからない名無しの『なにか』でも、人に悪さをしたり、あるいは趣味を持ったり、日々を愉しむことはできる。あの狒狒は人を騙すことや不幸に苦しむ人を眺めるのが趣味だった。僕はルヴナンを探し出してコレクシオンするのが趣味。ルヴナンにも色々と個性はあるみたい」
平の言うことは、私からすれば何もかも突拍子がないし、どこか要領を得ていない感じがした。しかし、明確な答えを貰えないことに不満を抱いても仕方がない。
私も彼と同じだからだ。もしも、生まれてくる前にいたあの『暗いところ』が何だったのかと聞かれても、私は何ひとつ満足に答えられない。
まだ空は明るいのに、窓の外を見ると半端な形の月が淡く透けていた。形や大きさは日々違えど、あれが月だということは幼い頃から知っている。
だが、月がどんな匂いで、触るとどんな感触がするのかなど、多くの人間は知るすべもないまま生涯を終えるだろう。
よくわからない存在がすぐそばにある、なんて、意外とよくあることなのかもしれない。
やがて重たそうな雲に覆い隠されてしまうまで、私は白くて薄い月をぼんやりと眺め続けた。
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