一章 ミゼラブルの選択

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 幸乃を先に帰宅させた後、セージュは窓の外を眺めたりスマートフォンをつついたりしながら、一時間ほどをダイアナの店内で過ごした。  カフェの制服に黒のスラックスは珍しくないが、加えてダイアナの制服は、黒ブラウスの上に黒のジレというシックな組み合わせだった。野沢(のざわ)須恵子(すえこ)がこの制服を着用するようになってから、もう十年は経つ。それより前は制服らしい制服がなく、野暮ったいエプロンのみを支給されていた。  いくつかの連絡事項をスタッフ用ノートに記しながら、野沢は軽く店内を見まわしてみる。残っているのは三組だ。今からこれ以上混雑することはないだろう。明日の客入りを予想しながら、再びノートに目を落とす。新宿駅から少し離れたロケーションのためか、近年は日曜の客の引きが早い。  ノートをレジ横の隙間に差し込んでから、野沢はちょうど会計カウンターの真後ろに位置するテーブル席へ、ぐるりと回りこむように向かった。 「セージュくん。先に会計する?」  野沢が小声で話しかけると、セージュは眠たそうな表情で「うん」と応じた。 「それでもいいけど。どうしてです?」 「私もう上がるのよ。一緒に帰ろうかと思ったんだけど、ゆっくりしていくの? ああ、伝説のモンスター捕まえるんだっけ」  ダイアナが入っている八階建てビルの裏には教会があり、GPSを使ったアプリゲームではその場所をモンスターの対戦スポットと設定している。セージュの言うことには、GPS上ではこのビル一帯も教会の敷地内と認識されるため、店の中にいながらモンスターを捕まえられるらしい。野沢自身はゲームのことをほとんど知らないが、以前セージュが店内で感動していたことはよく覚えている。 「ちょうど三匹目を捕まえたところです。今日はもういいかな」  そう言うセージュの声は少し気だるげだ。テーブルに置きっぱなしのタブレットに彼が指先を乗せると、どこか愛らしいモンスターのイラストを背景にデジタル時計が表示される。時刻は一六時二〇分だった。セージュは片眉を上げて怪訝な顔をしたが、野沢は彼が問う前に答えを言う。 「ころころ変わって常連さんには悪いんだけど、少し前から十七時クローズになったのよ。吉祥寺のスタッフがPCR検査で陽性だったからって全店舗一律で。私も最近は十六時半とか変な時間に帰らされて、早番に入れない学生の子たちがこのあと一時間だけ入るの」 「通勤に往復二時間かけて一日一,一〇〇円だけ稼ぐアルバイト? それって生殺しみたい」 「生殺しどころか虐殺だね。だって六時間以上勤務しないと交通費も賄いも出ないのよ。いまオンライン授業が増えて定期券買わないっていう子が多いから、わざわざクビにしなくても自主的にみんな辞めちゃう」 セージュはタブレットを見つめたまま小さくため息をついた。ダイアナの労働環境に呆れているのかもしれないが、単に疲れているだけかもしれない。 「野沢さんも僕のところで働けばいいのに。うちは昇給もあるし時給高いですよ」 「ここが潰れたらお願いしようかな。今はいいのよ。若い子がみんないなくなったら私が六時間入れるようになるんだからね」  白いマスクをしたまま、野沢とセージュは互いににやりと悪い顔をして見せた。   * * *  近頃の野沢の私服はスキニータイプのデニムパンツが多い。長らくレザーパンツを好んで履いていたが、革の質感にはもう飽きたらしい。二十歳の頃は、六十歳を過ぎたら自然とファッションの好みも変わるのかと思っていたが、野沢の場合、飽きることはあっても大きくそれが変化することはなかった。  今日着ている黒のエナメルジャケットは先月買ったばかりのものだが、思えば三十代の頃もこれに似たものを愛用していた覚えがある。見方を変えれば、三十年前に愛用していたデザインの衣服が再び手に入るようになったのだ。確かに流行というのは巡るものらしい。  すっかり白髪の増えたショートヘアをかき上げながら、野沢はビル裏口のドアをそっと開いた。 「おまたせ」 セージュはスマートフォンを弄りながら「うん」とだけ応える。そのまま二人でのろのろと新宿駅へ向かうのだが、よほど急ぎの用事でもなければ、毎回かなり遠回りをして歩いた。人通りが多く狭い道を避けるためでもあり、最近セージュが没頭している件のアプリゲームのためでもある。今日は期間限定で出現するというモンスターを捕まえると言い、二人は花園神社の前でしばし立ち止まることとなった。  まだ真冬の寒さには及ばないが、冷たいスマートフォンのディスプレイを触っていると指先が凍てつく。セージュは手が冷えることなど気にしていないようだが、野沢はその指先を見ているだけで寒くなる気がして、ボア付きのポケットに手を入れた。昔ならば、煙草をふかす絶好のタイミングだったに違いない。  まだ野沢のポケットに必ず煙草とライターが入っていた頃、冬の寒い日にセージュを連れて花園神社を詣でたことがあった気がする。いや、あれは明治神宮だったか。付き合いが長くなると子細なことはどうも忘れてしまう。 「あなた基本的に捕まえるのが好きなタイプなのね」 「好きじゃないですよ。ゲームならいいけど、実際に捕まえるのは大変だし疲れるし、まぁでも蒐集癖は少しあるかな……あ、そうだ」  セージュは思い出したようにスマホから顔を上げると、珍しく苦い表情で野沢のほうを見た。野沢がハイヒールを愛用していることも手伝って、二人の目線の高さはほとんど変わらない。 「ねえ、僕って臭います?」 「まあ、そうだね。今まで誰にも言われたことなかったの?」 「ありません。そうか……僕はベジタリアンだから失念していたんですよ。何が腐った臭いです? 魚? 水? ナスやトマト? それとも硫黄系?」 「良い匂いよ。フローラル系の香水みたいな。サシェってあるでしょう、香り袋というやつね。あの古めかしいローズの香りにもちょっと似てるかな。だけどユニセックスじゃなくてレディースフレグランスね。私が付けるにはちょっと可愛すぎる香水だわ」  セージュは顔をしかめたまましばらく黙っていた。 「それはつまり、良いか悪いかで言うとどっちです?」 「良いんじゃない? でも今まで誰にも指摘されなかったってことは、あー彼女が悪戯してかけた香水なんだろうなーとか、そんなふうに思われてたんだろうね」 「それは、僕にとって恥ずかしいこと?」 「うーん……どうかしら。いまどきそうとも限らないのかな」 野沢は明るい声で笑うと、そろそろ行こうとセージュを促した。 「今日のお嬢さんも無事に帰れたかしら」  のんびりと狭い路地を歩きながら、野沢が思い出したように呟く。居酒屋はすっかり支度を整えて、通りのあちこちで提灯(ちょうちん)や飾り電球の赤っぽい光が灯っていた。雑居ビル上階の窓からも、クリスマスのイルミネーションも賑やかに点滅しているのが見える。入ったことはないが、ダイニングバーか何かなのだろう。 冬が深まり日が短くなるにつれ、人々は賑やかなイベントに浮ついてゆく。夜が濃くなるほど、街には灯りと彩りが増えるのだから、まぁよくできているものだ。毎年のことながら、野沢はいつも感心してしまう。 「野沢さんから見て、彼女はどうでしたか」  セージュが問うたのは幸乃のことだ。野沢は白い息を吐きながら先ほど見た彼女の姿を思い返す。 「そうだね。私は特に何かを感じるってことはなかったかな。セージュくんはよく見つけたわね。昔より鼻が利くようになったとはいえ、ネット経由で見つけてきちゃうんだから。もう勘と言うより神通力レベルじゃない?」  セージュはマスクの端を指で弄りながら首を傾げた。 「でも前より視えるようになったわけではないし、僕自身は相変わらず鈍感です。僕はルヴナンを持っているから。別のルヴナンが僕のコレクシオンに引き寄せられて集まりやすいというだけ、たぶん。野沢さんは、彼女の死期もわからない?」  こんどは野沢が顔をしかめる。眉根を寄せたまま、暗色の空を仰いだ。昨日は黄昏から宵へと移ろう美しいグラデーションがビルの隙間に垣間見えたが、今はあまり天気が良くない。 「そうだなぁ。なんとも……身近にいたらちょっと気を付けて見てあげたい感じの子ではあるけど、そういう人が短命とも限らないからね」  そう、とセージュは呟いた。  本人にどれほどの自覚があるかは不明だが、真壁幸乃のブログには「私は長生きしない」というフレーズが頻出する。セージュとの会話の中でも、おそらく無意識のうちに、似たような台詞を繰り返していた。  きっと彼女は生まれてくる前にを決めてしまったのだろう。  一九九五年生まれの幸乃は今年二十六歳を迎えた。自ら定めてしまった寿命が五十歳なのか、三十歳なのか、あるいはそれより短いのか、セージュには知る由もない。  ただ、それを幸乃自身も忘れてしまっていることは不幸中の幸いともとれる。寿命など知らずにいれば最期の訪れ(カウントダウン)に怯えて暮らす必要はないのだから。 「宿命は変えられないけど運命は変えられるって、映画か何かの台詞だった? 私はただの言葉遊びみたいだと思っていたけど、あの子にはぴったり当てはまるね」 「うん。人間が被る不幸は、逃れられないものばかりじゃありません。彼女が不幸を望まなくなって、むしろ幸運を掴む選択ができるようになれば、これまでとはまったく違う人生になるでしょうね」 「これまではわざと不幸になるための選択をしていたんでしょう。それがわかっただけで、きっと全然違うと思うよ。あの子は明日から、新しい人生を謳歌するんじゃないかな」  風にあおられて顔にかかる長髪を手で押さえながら、野沢の言う通りだ、とセージュは納得した。  幸乃は、セージュが自らを不幸だと思うかと問うたとき「悪運は強い」と答えた。おそらく幸乃の生来の気質は前向きなのだ。どれほどの不運に幾度となく叩きのめされても「死にはしなかったから運が良かった」と、必ずいつも仄かな幸運を見つけて喜ぶことができる。  そんなしたたたかな彼女ならば「自分の未来は過去よりも必ず幸運である」と、すぐに気がつくだろう。考え方次第では、幸乃は世界で最も幸せな人間にさえなれるかもしれない。 「最期のときまで、ずっと薔薇色の人生だ」  セージュの囁く声はひそやかだったが、どこか賛辞するような優美な響きを含んでいた。しかし、今になってふと気にかかったこともある。 真壁幸乃という人間の人生が幕を下ろし、その肉体が滅びた後、彼女の不幸は終わる。あの狒狒の話を真に受けるならば、幸乃はそう考えているだろう。セージュも最初はそう思った。だが、仮に輪廻転生の概念に則って彼女がいつか再びこの世に生まれくるとして、今度こそ不幸ではない人生を送ることができるのだろうか。  本当に?  もしも、幸乃がかつて取り決めた不幸の誓いが『真壁幸乃としての人生』ではなく、彼女のさらに本質的なもの、つまり輪廻を繰り返す魂そのものに刻みつけられていたとしたら。  ――まあいいや。  セージュはバーガンディのジャケットからスマートフォンを取り出すと、再びゲームアプリを起動した。 Fin.
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