8.正義、ファム・ファタール

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『それなら俺がどうして宮越さんを20年前の連続殺人犯だと確信したか、ひとつずつ説明していきましょう。……宮越さん、あなたの生家は裕福とは言えない家庭だったそうですね。家の貧しさのため、あなたは六歳の時、親戚の家に養子に出されたが、その家にはあなたの四つ年上の従姉(イトコ)であるサキ子さんがいた』  童謡の赤とんぼの作詞者、三木露風と宮越の境遇が似ていることは、他ならぬ堀川綾菜がもたらした情報だ。 三木露風も五歳の頃に両親が離婚。露風は祖父の家で養育されるが、その家には住み込みで家事や子どもの世話をする“(ねえ)や”と呼ばれる女性がいた。 赤とんぼは、姐やの背中に背負われた露風が見た夕焼けの景色を歌にしたものだった。 『金銭的に裕福な環境となった宮越さんは趣味で絵を描くようになった。あなたが十六歳の時にサキ子さんをモデルに描いた絵が【お嬢さん】の題名がついた作品でした。こちらは日本橋の画廊に所蔵してある宮越さんの初期作品を集めた画集を、失礼を承知で撮影させていただいたものです』  九条のスマートフォンの画面に一枚の絵画が現れる。日本橋の画廊を訪れた南田が、画廊の許可を得て撮影してきた宮越の画集のとあるページだ。  描かれた場所は和室。裸体に浴衣を羽織った若い女性が窓辺に寄りかかって座っている。女の年の頃は二十歳前後。 浴衣からはだけた胸元は控えめに膨らみ、胸の中心部は長い黒髪に覆われて見えない。紅色に染まった細面(ほそおもて)の頬、憂いを含んだ奥二重の瞳が障子窓の向こうを見つめていた。 首周りや胸の谷間といった浴衣から見え隠れする白い肌は頬と同じく薄紅色に蒸気しており、背後にある情事の後を彷彿とさせる布団の乱れもシワのより具合まで緻密に描き込まれていた。  【お嬢さん】と題されたこの女性画について南田に解説した画廊スタッフによれば、この絵画には女と少女の狭間、処女と処女喪失の狭間、刹那的な色気と狂気、それらを内包した、宮越晃成の初期作品の中でも最高傑作と名高い作品のようだ。 『【お嬢さん】の絵には様々な憶測が流れていた。あなたと【お嬢さん】であるサキ子さんの関係性、この絵が【お嬢さん】の処女喪失を描いたならば、相手は当時十代だった宮越さんであるとか。けれどあなたにとっての【お嬢さん】だったサキ子さんは恋人と駆け落ちした。彼女の消息は現在も不明のままだ』 宮越の従姉でもあり義理の姉でもある宮越サキ子は、【お嬢さん】の絵が完成した直後に家を出た。このことは後に出版された宮越の自叙伝で明かされている。 『以降にあなたが描く人物画のモデルがどれもサキ子さんと容姿が似通った女性であることは、あなたのファンの間では有名な話だそうです。あなたはいつまでもサキ子さんに恋い焦がれ、サキ子さんに似た女性をモデルに絵を描くことで叶わなかった恋心を昇華しようとした』  三木露風も世話をしてくれた姐やに淡い恋心を秘めていた。露風の“姐や”は彼女が数えで十五の時に嫁に行き、宮越の“お嬢さん”は二十歳で男と駆け落ちした。 『仰る通り、私はずっとサキ子を捜していた。サキ子をね。【お嬢さん】の処女喪失の相手は私ではない。あの後に駆け落ちすることになる妻子持ちの男と初めて床を共にした直後、私はサキ子の部屋に呼ばれた。“あの人に処女を捧げたばかりの私を絵にして永久にこの世に残してくれ”と、私の好意を知っていて頼んだんだ。彼女は不倫の恋に処女を捧げ、自分に好意を寄せる私を利用した。酷い女だろう?』 一説には、男が女性画を描く場合、男は自分にとってのファム・ファタール(運命の女)を描いてしまう傾向があるようだ。年下の少年の恋心を翻弄したサキ子は、宮越の永遠のファム・ファタールだった。 『部屋には男と女の体液が交ざった臭気が立ち籠めていてねぇ。その地獄の空間の中で恋い焦がれた女の裸を描いた。あんなに地獄と天国を行き来して絵を描いた日は後にも先にもあの一度きりだ。モデルの容姿にサキ子に似た女性を選んでしまうのは未練がましい男のただの醜態に過ぎない。それがどうして殺人犯にされてしまうのかな?』  恋い慕う女が他の男に抱かれた直後に、その女の裸を描かされた宮越の胸中は想像を絶する。けれど彼に同情はしない。 『長谷部(はせべ)法子(のりこ)さん、北川(きたがわ)亜由(あゆ)さん、遠藤(えんどう)佳乃(よしの)さん、松林(まつばやし)千歳(ちとせ)さん、川村(かわむら)夏希(なつき)さん、吉居(よしい)礼香(れいか)さん、大倉(おおくら)美那子(みなこ)さん』  ドラゴンフライに殺された女性達の名を順に述べながら、九条は懐から取り出した顔写真を七枚、対面する宮越と綾菜に見えるようにテーブルに並べた。 『20年前に殺害された被害者の女性達の写真です。彼女達は皆、痩せ型で細面、目元は切れ長の奥二重か一重、口は小さめ、いわゆる和風美人と呼ばれるタイプの女性です。これらの外見の特徴は【お嬢さん】で描かれたサキ子さんと類似しており、そして……』 九条の視線は壁際に注がれる。そこには先日と同様、宮越が過去に描いた作品群が鎮座していた。 『被害者達の外見の特徴はあそこに展示されたあなたの女性画のモデルとも一致する。左端の着物を着た女性は北川亜由さん、その隣のティーカップを持った女性の絵は川村夏希さんに非常によく似ていると感じました』  二度目に【待宵】を訪れたあの夜、20年前の捜査資料で被害女性の顔を記憶したばかりだった九条は、店に飾られた宮越の女性画に既視感を覚えた。 既視感の正体に気付いた途端、身体中に走った悪寒とおぞましさは今も忘れられない。 『20年前の事件当時、あなたの女性画と被害者達の容姿の酷似に誰も気が付かなかった理由がここに来てわかりました。あの絵画達はどれも個人の所有物ですよね。個人所有になった絵画を所有者以外が目にする機会は少ない。20年前はまだSNSで画家の絵を鑑賞できる時代でもなかった』  1999年から2001年と言えば携帯電話も通話とメール機能のみの時代だ。インターネット環境もさほど整ってはいない。 絵画を鑑賞するには美術館か画廊に出向くしかない。画廊や画家が作品のデータをSNSに載せ、誰もが手頃に芸術を鑑賞できる環境となったのは、スマートフォンやSNSサービスが発展した現代ならではだ。 『美術界の巨匠と呼ばれる宮越さんを前にして申し訳ない話ですが、芸術に(たしな)みのない人間にとっては画家の認知度はそれほど高くありません。当時の新聞やテレビで被害者の顔写真が公開されても、その女性が宮越晃成という画家が描いた女性画のモデルと似ていると気付く人は少数でしょう。あなたのファンの中には被害者と宮越さんの絵の共通点に気付いた人もいたかもしれませんが、あなたの才能を失うことを恐れて黙していたかもしれません』  売却され個人所有になった作品達は当然、所有者だけの鑑賞物となり第三者の目には触れない。 絵の所有者によって、絵の存在と共に真実は秘匿される。 だから当時の捜査本部の刑事達も、宮越の女性画に秘められた真相に誰も気付けなかった。
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