7.欠損、見えない事実と見えた真実

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「2001年4月……。九条くんが引っかかっていることって、そういうこと?」 『そういうこと……かもしれません。アイツは二階堂の事件よりも20年前のドラゴンフライが気になっているようです』 「なるほどねぇ。確かに20年前の事件との因果関係は調べる必要がある。今日の外出もこの件と関係があるのね」  壁際のホワイトボードには各人の予定が書き込まれている。九条のスペースには〈14時、啓徳大病院〉とあった。 『啓徳大病院は二階堂の解剖を担当した病院ですが、宮越の脳梗塞の手術をした病院でもあります』 「さぁて、あの暴れ馬は何を見つけてくるかな」  ノートを南田に返した彼女は視線をデスクに落とした。その先には堀川綾菜を含めた事件関係者の顔写真が散らばっている。 「九条くんが動揺するのも無理ないね。びっくりするほどよく似ている。一課長も驚いていたもの」 『だけど似ていても堀川綾菜と“彼女”は別人ですから』 「そうね。どんなに似ていても違う人。九条くんがそれをわかっているなら、私達が口を挟む問題ではないでしょうね」  九条の心配をしているのは南田だけではない。上司の真紀も、3年前の一部始終を知る上野一課長や同僚達も最近の九条の心情を(おもんぱか)っている。 「最初はどうなるかと思ったけど九条くんのバディを南田くんにして正解だったみたい。暴れ馬の手綱、しっかり握っていてね」 『残念ながら俺に乗馬の経験はありませんので、暴れ馬を乗りこなせるかどうか』  3年前、絶望と空虚を背負った九条の背中を目にしたあの日も。 九条のバディに指名されたあの日も。 ここまで来れば腐れ縁だと腹を括ったあの日も。 九条の絶望と空虚を共に背負い続けた2年間を過ごした今でも、南田は九条にとってのは自分ではないと思っている。 (きっとアイツは周りの気遣いもわかっているんだろうけど。馬鹿はバカでもそこまで馬鹿じゃない。……アホではあるが) 互いにわかっているから何も言わない。これを相手への信頼と呼ぶには(しゃく)に障るが、結局はその言葉がしっくりきてしまう自分自身に、南田は小さな溜息を溢した。         *  女神を模したと思われる石像の足元を二羽の(ハト)が尻を揺らして歩いている。 啓徳大学病院の中庭はどうやら鳩の散歩コースのようだ。九条が座るベンチの側にまた一羽、ふくよかな体躯の鳩が舞い降りた。  暑くもなく寒くもない、気持ちよく晴れた秋の午後を楽しもうと、中庭には入院患者やその家族が集っている。 先ほどは車椅子の少年が花壇の花のスケッチをしていた。小学校の高学年くらいの少年の見た目はどこにでもいる普通の子どもと大差ない。  病気は目に見えない。健常者に見えただけの少年の側には常に看護師が付き添い、少年の状態に細心の注意を払っていた。 あの少年は九条には計り知れない苦しみを、小さな身体に抱えているのだろう。  約束の時間を少し過ぎた頃、無精髭を生やした大男が九条の横顔に影を作った。ベンチの周辺をうろついていた三羽の鳩は人の気配を察して飛び去ってしまった。 『言っておくが脳外(のうげ)は俺の専門じゃないぞ』  眠たげな目を擦って九条の隣に腰掛けた男の名は早瀬(はやせ)光國(みつくに)。二階堂隆矢の解剖を担当した解剖医だ。 『専門外でも医者は医者だろ。頼んでおいたやつは?』 『脳梗塞の後遺症についてはここにまとめてある』 早瀬は書類を挟んだクリアファイルごと九条に放った。殺人事件の捜査をしていれば解剖医と接触する機会も必然的に多くなる。早瀬医師とも数年来の付き合いだ。 『感謝しろよぉ? 宮越のカルテ、脳外の教授に頼み込んで、やっと閲覧許可がもらえたんだからな』 『今度ラーメン奢る』  早瀬の文句を聞き流しながら、九条は書類の文字に目を走らせた。  脳梗塞の主な後遺症は運動麻痺、手足のしびれ、言語障害、視野障害、認知機能の低下。 運動麻痺の場合は損傷した脳と反対側の手指や足首が動かなくなり、歩行や日常生活に影響が出る。  宮越は左側の手足に軽度の麻痺が残った。階段の上り下りなど日常生活への支障はわずかだが、ギャラリーバーで対面した宮越は左足を引きずって歩いていた。 運転免許の返納も、後遺症を負った身体では運転が困難だと判断した結果だろう。 『宮越には手の麻痺以上に画家として致命的な障害がある。担当医が言うにはでまた絵が描けるようになるとは思わなかったそうだ』  早瀬の言う通りだった。宮越は画家として致命的な障害を抱えている。手足とは違って第三者の目には見えない欠損を。 『それとお前のところの一課長さんに伝えてくれ。例の遺体を切断した人間にはおそらく解剖学の知識がある』 『解剖学?』 『ただ闇雲に切ってはいないってことさ。人体のどこをどう切ればいいか、ある程度の解剖学の知識がある人間のやり方だった』  眠たげな瞳を細めた早瀬は意味深に口元を上げた。九条は早瀬の人間性を嫌というほど知っている。彼がこういう顔をする時は必ず腹に一物ある時。 早瀬は自分には答えがわかっていても、他人にはまどろっこしいヒントしか教えない人間だ。 『でもあれは医者の仕業ではない。解剖の技術としては素人同然。……さらに言えば20年前の事件の犯人、ドラゴンフライにも解剖学の知識があったと言われている』  九条の心にざわめきを残して、友人の解剖医は去っていく。新たに得られた点と点、見えない事実と見えた真実。  混乱してどうにも考えがまとまらない。病院の駐車場に向かう道すがら、九条は相棒のスマホに通話を繋げた。 南田には九条の頼みで調べ物をしてもらっている。今、南田は日本橋にいるらしく、あちらの街の雑踏がスマホ越しに聴こえてきた。 {お前のタブレットにメール送ったから、とりあえずそれ見ておけよ。あとでかけ直す}  目的地に到着した南田との通話をひとまず中断した九条は車内でタブレット端末を起動させた。確かに30分前に南田からメールが届いている。  メールに添付してあるURLを開くと、ある美術系サイトの特集記事が表示された。下北沢のギャラリーバー【待宵】の紹介記事だ。 記事では堀川綾菜がインタビューに答えている。ギャラリーバーの写真も掲載されており、中にはアトリエで綾菜を撮影した写真も数枚あった。 ──お店の椅子は堀川さんの手作りなんですね。とても素敵です。 ──〈テーブルと雰囲気が合う椅子がどこにもなくて、私が作りました。大学ではカリキュラムに彫刻の授業もありましたし、木を彫ったり切ったりするのも得意なんです。仕事に煮詰まった時は気分転換も兼ねて大きな立体物も制作しますよ。愛用の電動ノコギリでなんでも切ってしまうので、アトリエをシェアしている宮越先生にも“また切ってるのか”って呆れられています(笑)〉──
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