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8.正義、ファム・ファタール
10月23日(Sat)
心の暗雲とは裏腹に、空は憎らしいくらいに清い蒼色だ。土曜の朝、寝ぼけた世田谷の住宅街には怠惰な空気が漂っている。
しかし九条大河と南田康春にとっては、たとえ早朝だろうが寝不足だろうが今はあくびをして寛いでいる場合ではない。
疑わしき者と接触を図る際に訪れる緊張感と興奮は刑事特有のアドレナリンだ。そのおかげで徹夜明けにも関わらず二人とも眠気をまったく感じなかった。
彼らはギャラリーバー【待宵】の裏手に回った。この建物は店舗の出入り口とは反対側に自宅用の玄関ドアがある。簡素なインターホンと郵便ポストを両側に従えたドアの向こう側は静寂に包まれている。
精悍な表情を保ったまま、九条は呼び鈴を鳴らした。今日も敷地内にはシルバーのセダンが停まっていた。おそらくどちらも在宅しているだろう。
ややあって、インターホン越しにくぐもった女の声が聴こえた。
{……どちら様ですか?}
声の主は堀川綾菜で間違いない。南田と横目でアイコンタクトを交えた九条は一呼吸置いた後、簡素な通信機器へ告げた。
『朝早くに申し訳ありません。警視庁の九条です』
{……九条さん? こんな時間にどうしたの?}
『宮越さんはご在宅ですか?』
宮越の所在を訪ねた数秒後、戸惑いがちな声色で返事が返ってきた。
{宮越先生はまだ眠っていらっしゃいます。先生に何か?}
『宮越さんと堀川さんにもお話があります。お手数ですが、我々の来訪を宮越さんにお伝えしていただけますか?』
{……わかりました。先生を起こしてきます。店舗の鍵を開けますから、店に入って待っていて}
通信が途切れたインターホンが無言の構えで二人の刑事を威嚇する。
たった今までインターホン越しに彼女と会話をしていたとは思えないほど、九条の頭と心は冷静だった。やはり骨の髄まで自分は警察官なのだと、呆れた笑いがこみ上げる。
『もしもの時を考えての保険で俺はここに残る。九条、お前ひとりでやれるよな?』
『……ああ。任せろ。南田こそ、もしもの時は逃がすんじゃねぇぞ?』
『バーカ。お前が逃げられるようなヘマさえしなければいいだけだ。さっさと行って、この胸くそ悪い事件を終わらせて来い』
皮肉の応酬の片鱗に互いに言葉にしない想いを宿らせて。かすかに笑った九条は南田に背を向けた。
ひとりに見えてひとりじゃない。建物の裏側に南田が、そしてこの周辺に散らばる小山班の刑事達が九条を見守ってくれている。
九条が【待宵】の店舗に辿り着いた時、ちょうど扉が開いて堀川綾菜が顔を覗かせた。
一夜のキスを交わした女の顔を見てもそこに甘ったるい刺激は存在しない。別の意味で心がざわつくだけだった。
「九条さんだけ? もうひとりの刑事さんはいないの?」
『外で待機させてる』
「宮越先生に一体何の用事か知らないけど、ずいぶん警戒しているのね。どうぞ入って」
九条は三度目の訪問となった【待宵】に足を踏み入れた。朝の光が差し込むギャラリーバーには今も宮越の絵画が展示されている。
宮越によって描かれた人物画の女達が九条に視線を向けていた。まるで、“私はここにいる”と訴えかけているようだ。
『どうして俺がここに来たか、君には理由がわかっているんだろ?』
この瞬間にだけ許された二人きりの時間。恋人でもなければ友人でもない、互いのことも大して知らない。
ただ一度キスをしただけの女の、化粧っ気のない整った顔が迫ってくる。九条の頬に添えられた綾菜の手が彼の唇に触れた。
「この前はあんなに情けない男の顔をしていたけど、今は立派に刑事の顔してるのね」
『そこまで情けなくはなかったと思うが』
「ふぅん? キスまでしておいて、その先に進まない男はあなたが初めてだった。私はあの夜は九条さんとそうなってもいいつもりでいたのにね。据え膳食わぬは男の恥だって言葉、知らないの? 意気地なし」
彼女の蠱惑的な微笑にも心は躍らない。意気地なしと言われても反論はない。
あの夜に九条は真実の糸口を掴んだ。だから刑事として堀川綾菜と男女の関係を結ぶわけにはいかなかった。
背伸びをしてキスをせがむ綾菜を片手でやんわりと制す。キスを拒まれた綾菜は不満げなしかめっ面で九条を見上げた。
『宮越さんを呼んできてください』
「本当に今日はどこまでも刑事なのね」
踵を返す綾菜の姿が見えなくなった途端に漏れた溜息が、朝の空気に溶けて消えた。南田の言う通りだ。こんな胸くそ悪い事件、さっさと終わりにしたい。
上階からかすかに人の声が聞こえ、その後に足音が響く。階段を降りる足音がだんだん大きくなり、綾菜に手を引かれた宮越晃成が現れた。
宮越の身なりは厚手のナイトガウンのみ。ガウンのポケットに膨らみはなく、武器を所持している気配は感じられない。
『先ほど起きたばかりなんだ。こんな格好で失礼するよ』
『いいえ。無礼はこちらの方ですので』
『それで、私に話とは何かな。ああ、綾菜。私と九条さんにコーヒーを。九条さんも、立ったままではなく、椅子におかけください』
場の主導権を自分が掌握することを当然とする宮越は、警察の訪問だろうと悠然とした所作を崩さない。彼は左足を引きずりながらも自ら椅子を引いて腰掛けていた。
九条の目的は宮越と談笑することではない。ここにコーヒーを飲みにきたわけでもない。
だが、最初だけは偉大な芸術家に敬意を払って宮越のペースに付き合ってやろう。
四人席のテーブルを挟んで九条は宮越の真向かいに座った。宮越の指示でコーヒーを淹れている最中の綾菜は、カウンター横のスツールに浅く腰掛けている。
『20年前の女性連続殺人事件について宮越さんにお話を伺いたく、任意同行を求めに参りました』
『20年前……とは。随分古いお話をされますね。てっきり二階堂さんの事件に関して、まだ私達が疑われているのかと思ってしまいましたよ』
任意同行の要請を突き付けられても美術界の巨匠は落ち着いていた。九条も始めからこの曲者を落とせるとは思っていない。
『任意同行に同意いただけた際は、二階堂さんの件でもいくつかお聞きすることになります。我々は1999年から2001年にかけて起きた女性連続殺人事件の犯人を宮越さんだと考えています』
宮越を名指しした瞬間、それまで九条と宮越のやりとりを静観していた綾菜が動いた。
「任意なら拒否もできるでしょう? その事件の犯人が先生だと示す証拠もないのに言いがかりで取り調べをされるのは不愉快です。もしも逮捕状を取れたら、その時にお越しください」
彼女は宮越を庇うように九条と宮越の視界の狭間に割り込んできた。怒気を孕んだ女の表情は逮捕状を取れるものなら取ってみろと言いたげだ。
まったく、綾菜も宮越も予想通り一筋縄ではいかない。
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