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1.喧騒、刑事の休息
2021年10月13日(Wed)
桜田門にそびえる警視庁の南に位置する新橋五丁目には、警視庁の刑事達が常日頃通う老舗ラーメン屋がある。この店の特盛餃子とチャーハン、種類豊富なラーメンに日々、多くの刑事が活力を貰っていた。
警視庁捜査一課に所属する九条大河も御多分に洩れずその一人だ。混雑時間帯を過ぎた午後2時のラーメン屋で特盛餃子とラーメンを頬張る彼の耳には、先ほどから湿っぽい話し声が届いている。
「嫌だ。タイガくんと別れたくないよぉ……」
九条の席と通路を挟んで隣に位置する席には別れ話の真っ最中の若い男女がいた。
よりによって、“タイガくん”とは。自分と同じ名前を女に泣きながら呼ばれる状況は気分のいいものではない。
あちらの“タイガくん”は歌舞伎町に五万といるであろうホスト風の見た目をしていた。顔はいいが、髪には艶がなく肌も浅黒いため、清潔感に欠ける印象だ。
相手の女の外見は何と形容すればいいか九条にはわからなかった。黒髪のツインテールに結んだ紫色のリボン、フリルのついた真っ黒なワンピース、耳たぶには複数のピアス。
ハタチは越えているように見えるが、服装や舌足らずな発音が幼さを感じさせる女だ。もしかしたら未成年の可能性もある。
量産型、地雷系、闇属性、メンヘラ、ヤンデレ、トー横キッズ……この数年で頻繁に耳にするようになった言葉がいくつか浮かぶ。数日前に新宿駅周辺を巡回した時も、量産型や地雷系の外見をした少女が売春相手を探して立ち尽くしていた。
「ねぇ、私のどこがいけなかった? 悪いところがあるなら直すから……だから……」
目の前で女が泣いていても男は素知らぬ顔でラーメンをすする。対して女側に置かれた天津飯は卵の山を切り崩されず虚しく温度を失っていた。
(おいおい、女が泣いてるのに平気で飯食うなよ。っていうか、こんな所で別れ話して泣かせるなよ)
平日午後2時のラーメン屋で別れ話をするホスト風の男と地雷系の女。この際、二人の外見は差し置いても場所をわきまえろと言いたくなる。
思わず出そうになった大きな溜息を烏龍茶と一緒に飲み込んだ矢先、今度は男の怒声が聞こえた。作業着姿の二人の男が席を立って口論している。
男達の怒声から察すると日本のプロ野球のどの球団が強いかで揉めているらしい。
俺はあそこが強いと思う、いや俺はあそこだと、傍から見れば小学生並みの口喧嘩だ。怒鳴り声はともかく、喧嘩の内容は平和としか言いようがない。
あっちもこっちも喧嘩をするなら余所でやってもらいたい。
九条の身分を知っている店主が先ほどからアイコンタクトを送ってきている。店主から感じ取れるメッセージは『この場を何とかしてくれ』だ。
(はぁー。もう。仕方ねぇな……)
別れ話真っ最中の男女と血気盛んな男二人組の喧嘩、優先で止めるなら男二人組の方だろう。男達の口論が殴り合いの喧嘩に発展されたら店に被害が出てしまう。
食べかけのラーメンと餃子を名残惜しく見つめつつ、九条は立ち上がる。向かう先は今にも取っ組み合いを始めそうな二人の男の席だ。
『お兄さん達、そんなにカッカしないで』
『なんだお前。関係ない奴は引っ込んでろ』
ひとりは唾を飛ばして九条を怒鳴りつけ、もうひとりは話に割り込んだ九条を睨みつけている。
予想通りの反応だが、こちとら天下の警視庁の刑事だ。血の気の多い男に睨まれた程度で怯むようでは、刑事は務まらない。
『確かにお兄さん達が喧嘩しようと俺には関係ないけど、これ以上は店に迷惑だからね。ちなみに警察です。わかってると思うけど警視庁すぐそこだからね?』
九条は警視庁の方角を指さしながら男達に向けて警察手帳を提示した。思わぬ警察の介入にわずかだが彼らの怒気が削がれ、二人の男は表情を強張らせた。
『け、刑事がこんなところで油売ってていいのかぁ? 俺らの税金で生活できてるくせによぉ』
『そうだっ! ちゃんと仕事しろっ』
『お兄さん達も腹減ったままじゃ仕事にならないよね。刑事も昼飯くらい食わせてよ。空腹で走れなくて犯人取り逃がしたら困るでしょう?』
九条が男達をなだめすかしている間に彼の視界を横切った影がある。九条の警察手帳を目にして顔を強張らせた人間がもうひとりいた。例のホスト風の男だ。
“タイガくん”は九条の視線を避けるように自分の分だけの会計を済ませ、いまだ泣いている女を置いてきぼりにして店を出ていった。
男が食べていたラーメンはまだ半分も残っている。九条が素性を明かすまでは泣きわめく女を放置して呑気にラーメンを食べていたくせに、急に逃げるように店を去った男の行動は不可解だ。
あの男が一刻も早く立ち去りたかった理由として考えられるのは、警察に探られるとまずい何かを抱えていたから。
大方、女から金を騙し取っていたクチだろう。不健康な肌や髪の質感から違法薬物の使用も疑える。
叩けば埃が出るかもしれないが、今は出て行った男を追う気にはなれない。
口喧嘩の仲裁を終え、やっと店が静かになった。伸びた麺とぬるくなったラーメンのスープを胃に流し込んでいると、胸ポケットにあるスマートフォンが振動した。
(今度はこっちかよ。ゆっくり飯も食ってられねぇな)
着信表示は相棒の南田康春。特盛餃子の最後のひとつを口に入れたまま、彼は着信に応答した。
『もひもーひ』
{お前どこでサボってるんだよ。しかも何か食ってるな?}
『サボりじゃねぇし。いつものラーメン屋で遅い昼飯。で、何?』
{今朝、杉並で発見されたバラバラ死体の身元が割れたぞ}
バラバラ死体と聞いても平気で食事を続けられるメンタルの強さは刑事特有のものだろう。警視庁に配属されて今年で4年目、手足のない死体や凄惨な現場は何度も見てきた。
『もうわかったのか。身元がわかる所持品は何もなかったのに』
{ガイシャは9年前にストーカー行為で聴取を受けていた。その件は示談になったそうだが、聴取の時に採取した指紋と死体の指紋が一致した。15時に捜査会議だから早く戻ってこい}
『はいはい』
束の間の昼休憩も隣席の湿っぽい別れ話を聞かされたあげくに喧嘩の仲裁でまったく休息にならなかった。
あの“タイガくん”に置き去りにされた地雷系の女はまだ泣いていた。時折、九条を盗み見てわざとらしく泣き真似をする彼女を無視して店を出る。
警察は何でも屋ではない。嘘泣きの女の面倒まで見きれるかと、秋晴れの空に向かって彼は小さく吐き捨てた。
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