3.絵画、画家はバーにいる

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 二階堂がギャラリーストーカーのブラックリストの常連ならば、現在も被害に遭っている画家がいるはず。話が落ち着いた頃合いに九条は切り出した。 『最近、二階堂さんがギャラリーストーカーをしていた画家さんはいらっしゃいますか?』 『いるにはいますけど……』 ここまで息を吐くようにつらつらと愚痴を漏らしていた山野は話題を変えると急に閉口した。画家の個人情報は話せないと言いたげな顔だ。 『二階堂さんと少しでも接点がある方には全員、話を聞いています。二階堂さんから迷惑行為を受けていた画家さんのお心当たりがあるなら話していただけますか? 事件の早期解決のためにもご協力願います』  愛想笑いの南田が穏和に諭すと渋々、山野は重たい口を開いた。 『あのぅ、お二人共さすがに画家の宮越晃成さんはご存知ですよね……?』  山野の重たい口をやっとこじ開けられたと思えば、今度は九条と南田が二人して知らないと答えるのも(はばか)る気まずい雰囲気になる。 ギャラリーストーカーを知らなくとも大目に見てもらえても、宮越晃成を知らないと言えば軽蔑の視線を向けられる。芸術に(たしな)みのない九条と南田には非常に扱いづらい世界だ。 『宮越先生の知名度は一般教養だと思っておりましたが、芸術の一般教養と世間的な一般教養は異なるのでしょうねぇ。宮越晃成先生は現代美術界の巨匠ですよ。宮越先生が美大で教えていた時の教え子に堀川綾菜さんという画家がいます。この方です』  山野のスマートフォンに表示された美羽画廊のインスタグラムを九条達は覗き込む。投稿には今春に美羽画廊で開催された個展の様子や、展示品と共に写真に収まる女性の姿があった。 『個展での堀川先生の在廊日は非公開でしたが、二階堂さんは堀川先生がいらっしゃる時間帯に何度もお越しになっていて……。私が知る範囲では、堀川先生が美大を卒業された直後から、二階堂さんに目を付けられていたようですね。堀川先生はかなりの美人ですから、絡まれる頻度も高くて大変そうでした』 インスタグラムの写真で見る堀川綾菜は確かに綺麗な顔立ちをしていた。 セミロングの黒髪と、意志の強そうなキリッとした目元が誰かに似ている……と、頭に(よぎ)った面影を九条は慌てて消し去った。捜査中に何を考えているんだと、甘い己を叱責しながら。 『この時は二階堂さんが最近の堀川先生の画風は宮越先生に寄り過ぎていると指摘していましたね。もっとオリジナルで勝負すればいいとか。釈迦(しゃか)説法(せっぽう)みたいなものですよ。絵画コレクターを気取っていますが、たかが素人が偉そうに画風について画家に指図するなど、烏滸(おこ)がましいにもほどがあります』  憤慨する山野をよそに、九条は堀川綾菜の名を手帳に書き記した。白いページにいつもよりも汚い字で綴った女性画家の名前は、自分の文字なのに何故か読みにくかった。        *  山野に教えられた画家、堀川綾菜のアトリエは世田谷区代沢4丁目にあった。彼女は師匠である宮越晃成がマスターを務めるギャラリーバーの上階にアトリエを構えて活動しているらしい。  下北沢駅から徒歩10分ほどの小綺麗な住宅街の街並みに溶け込むように、画家のいるギャラリーバー【待宵(まつよい)】は静かに建っていた。 建物横のガレージにはシルバーのセダンが停まっている。宮越晃成の車だろうか。 警察のデータベースで番号照会にかければ持ち主がわかるだろう。九条は念のため、綾菜の名をメモした手帳の同じページにナンバーを書き加えた。  バーの営業時間は18時から23時、今はまだ営業時間前だ。準備中の札のかかる洒落た扉を南田が躊躇なくノックする。 数十秒後に開いた扉から若い男が顔を覗かせた。 『すみません。まだ開店前なんですが……』 『警察の者です。堀川綾菜さんはこちらにいらっしゃいますか?』 九条と南田、双方の警察手帳を見つめた男は口元を引きつらせ、二人の刑事と店の奥へ交互に視線を走らせた。 「日森くん、どうしたの?」 『綾菜さん……。警察の人が綾菜さんはいるかって……』  店の奥から女性の声が聞こえた。涼やかで凛とした声だ。動揺する若い男に変わって二人の刑事の前に立ったのは、美羽画廊のインスタグラムで目にした女性画家だった。 「堀川綾菜は私ですが、何か?」  九条の心臓が一際大きく跳ねた気がした。きっと、そう。勘違い、他人の空似、こんな場所に“彼女”がいるわけがない。 綾菜を前にして硬直する九条を盗み見た南田は、動けなくなった彼に変わって話を進める。 『二階堂隆矢さんが亡くなられたことはご存知ですか?』 「ええ。ニュースで……」 『美羽画廊の山野さんに先ほどお会いしました。山野さんから堀川さんは二階堂さんから迷惑行為を受けていたとお聞きしました』 「……ご要件はわかりました。どうぞお入りください」  綾菜が大きく開けてくれた扉の向こうへ足を進めようとした南田はいまだ動けずにいる九条を小突いた。 『何ボーッと突っ立ってんだ。行くぞ』 『……ああ』 心なしか九条の声は震えていた。足も力を入れて地面を踏みしめないと膝が震えて歩けない。 (勘弁してくれ。“アイツ”に似ている女に会ったからって、なんでこうなるんだ)  九条の動揺を知ってか知らずか、南田はさっさと先に店内に入ってしまう。 彼は九条の異変に何の詮索もしてこない。冷たいようでいて、さりげなく気遣う南田の優しさに九条も気付けるようになった。 この2年ですっかり互いの相棒のポジションが板についたようだ。
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