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――忘れもの、しちゃった。
彼の家を出て駅まで十五分ほどの道すがら、そのちょうど真ん中ぐらいで忘れものに気づいてしまった。
ふうっと小さく息をついて、来た道を引き返す。
足取りが重い。
ついさっきまで、ケンカをしていたからだ。
『あー、ごめんごめん。別にさ、気持ちまで浮気したわけじゃないし、ね?』
だから、なに? そんな言い訳でわたしが喜ぶとでも?
泣いたわたしに薄ら笑いを浮かべて。
『はいはい、もうちょっとさ、軽く考えようよ? おれ、重たいの苦手なんだよねえ』
悪びれもせずヘラリと笑って、電子タバコを手にする。
どうしてなのかな?
こんなのって付き合ってるって言えるのかな?
わたしは、こんなに好きなのに。こんなに、こんなに大好きで、あなただけなのに。
わたしだけのものにならないなら、もういい、どうでもいい。
わたしから、別れを決めた。
泣き腫らした目に冷たい風が凍みる。
コートの襟を立てて、彼のニット帽を目深にかぶり、手袋をはめて、ついさっき施錠したドアの鍵を開ける。
「ごめんね、忘れものしちゃった」
ベッドにうつ伏せで寝そべる彼に声をかけても、返事がない。
別れたのにまた戻ってきちゃってごめんね。
「すぐに帰るから」
手袋のまま青白い寝顔を撫でたあと、彼の背に刺さる包丁の柄を丁寧に拭きとる。
あなたのことは、いつか忘れてしまったとしても。
この指紋だけは拭き忘れてはいけない。
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