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むかし観たテレビのアフリカの草原で肉食動物が草食動物を捕食しているシーンを、いまだに忘れることができない。
当時は、残酷だって目を覆い現実から目をそらしたけれど。
いまにしておもえば、懸命にいきている彼らを残酷だっておもうわたしのほうが、よほど残酷じゃあないか。
いまもこうして、フライドチキンと付けられたかつての鶏をむさぼり食っているのだから。
鶏たちは、クリスマス・イヴの夜にこうしてにんげんに食べられていくことをどうおもっているのだろうか。
それとも、なにもおもっていないのだろうか。
どちらにしても、いのちをいただいている以上ありがたくいただかせてもらう。
それが、いきることなのだから。
弱肉強食なんていうのは、ジャングルやサバンナに住まう肉食動物や草食動物のためにある概念じゃない。
にんげんだって、弱肉強食の世界にいきていて弱いものから強いものに喰らわれてゆく。
だからこそ、弱きもののなかには強きものにこびへつらう所謂“コバンザメ”のような存在もいれば弱いなりに誇りを持ちひとりでいるもの、そして強きものに喰らわれてしまうものもいて。
けれど、にんげんがほかのいきものとちがうのは、弱さと強さが立場逆転したり弱きものだと嘲笑われたものも、身を置く場所次第でじゅうぶんに強くなれることで。
喰われるものにも、矜持がある。
だから、喰われているシーンからけっして目をそらさないで。
テレビをつけたらたまたま動物のドキュメンタリー番組がやってたから、ひさしぶりにあの番組を観た。
今度は、目をそらさずにフライドチキンを口いっぱいほおばりながら、ぢっと、ずっとテレビの画面に映るチーターの捕食シーンをみていた。
食べることは、いきること。
残酷なんかじゃ、ない。
現に、わたしたちだってなにかを喰らいながらいきている。
ならば、感謝を忘れずに歯を食いしばって食らいつけ!チーターのように、食らいつけ!
そして、もし喰われることになっても喰われるものとしての矜持を忘れるな、だって、喰われるものがいなければ食らうものはいきていけないのだから。
『喰らわせてやってるんだ、ありがたく食らいつけ!』くらいに強気に誇りを持ち、喰らわせてやればいい。
だって、喰われている側が食らう側のいのちを、手綱をにぎっているのだから。
─雪降る聖夜にフライドチキンが軽やかに躍っている。
ときには、チーターといっしょになるまではげしくバターとして溶けるまで踊りつづけて、おいしいおいしいクリスマス・ディナーをめしあがれ。
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