Prologue.夜明けの森

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Prologue.夜明けの森

 明治17年春の夜明け。不意にがさりがさりと近づく音に目を開けた。  世界の端はわずかに明かりを取り戻し始めたが、この小さく深い森は未だ静まり返っている。僅かに漂う血の匂いに変事かと巨木の上から見下ろせば、ミケがのそりと現れた。ミケはこの土御門(つちみかど)神社の森に棲む大きなジャコウネコだ。私はこの森の巨木に巣を作り住んでいる。つまりご近所さんである。  ジャコウネコというものはミケ以外で見たことがないが、姿としては体長が2メートルほどの大狸にしかみえぬ。私も羽を広げれば3メートルほどにはなる大烏にしか見えぬだろうから、お互い様である。けれどもその日のミケはいつもののんびりした様子と異なり、酷く緊張を滲ませていた。 「何があった、ミケ殿」  ミケはバサリと口に食んでいたものを地に落とす。未だ中天に残る僅かな月の光を反射し、白く艷やかな表面が明らかになる。人の皮のように見える。その予想外に思わず声が大きくなる。 「それは人の皮ではないか? ミケ殿もしや」  ミケは首を振る。その様子にほっと息をついた。一瞬、ミケが人を襲ったのかとも思ったが、そもそもミケは極めて温厚だ。人を襲うことなどない。では一体何が起こったというのだ。 「ヤタ殿、狐の森で狐どもが襲われていたので撃退したのだが、その際に敵がこれを落としたのだ」 「落とす……? それはどんな奴だったのかね?」 「……そうだな。吾輩が狐の森を訪れたのはたまたまだったのだが、その時既に何者かと戦闘状態だった。未明で夜の闇のこと、はっきりせぬがそいつは最初は人間の姿をしていた。加勢して戦ううち、何かの弾みでこの皮がずるりと脱げ、中から黒い大きなものが現れこの皮を残して立ち去ったのだ」 「大きな黒いもの?」  そう問うても、ミケは首を横に振るばかりだ。夜戦では相手の様子がわからなくとも仕方がない。気にかかるのは狐の森はここから北東方向にあり、ほど近いことだ。ミケの足では四半刻(十五分)ほどもかからぬだろう。 「そいつは何故狐の森と戦っていたのだ?」 「狐はいきなり襲われたと言っていた。けれども狐はもとより警戒心が強い。狐の長は万全でないようだから、単純に不明のものの侵入に迎撃したのかもしれん」  私の思う狐の森も、そのような印象だった。彼らは見知らぬものには攻撃的だ。以前、ミケから狐の長は高齢で弱っていると聞いたことを思い出す。だから余計に警戒心は強まっているだろう。 「その黒いものはこの森の敵になりそうかね?」 「……わからん。こういうことは宮司に聞くのが一番と思ったのだが、不在をすっかり忘れていた」  ここ土御門の森の頂点は、土御門神社をおさめる人間の宮司である。5日ほど前に出かけ、未だ戻っていない。この森は宮司の守りが効いているからそうそうおかしなものが入り込んだりはできないはずだ。けれども宮司の力を超える強大なものであれば、話は別である。 「なにせ固いのだ。見てほしい」  ミケがその爪先で、器用に丁寧に生皮を広げた。その肌はやけに白く、頭髪は黄色がかっている。皮の表面には墨で複雑な模様が描かれ、その一部が途切れていた。 「異人の皮のようだな。港の方に多くいる。この模様を消したのはミケ殿かね?」 「吾輩が? そういえば何度か殴り飛ばしたな。けれどもおそらく違う。この皮自体は恐ろしく靭やかで強靭なのだ。破れそうにない」  ミケ殿はそう述べ尖った爪で皮を引っ掻いてみたが、つるりとその表面を撫でるだけで、切り裂くことはできなさそうだ。特殊な皮なのかもしれない。  そう思っていれば、ガラリと音がして社務所の襖が開き、寝ぼけた男が現れた。いつのまにか日はたふたふと上り、森の木々の隙間からチラホラと光の筋が舞い入り始めている。 「んんーう。眠いぜ」  この大あくびを上げる男は山菱哲佐(やまびしてっさ)といい、宮司の代わりの留守番に逗留している。いつも閑古鳥が鳴くこの神社も春先は時折訪問が在り、御用を伺うのだそうだ。 「お? ミケじゃないか。後でアラをもってってやるからなって……なんだそりゃぁ」  山菱は地面に広げられた人皮に目を丸くした。
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