蒼山高校物語《2学期編》

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一 席替え  蒼山高校の2学期初めてのホームルーム、2年D組では席替えと文化祭の出し物についての話し合いが行われることになった。  教壇には、学級委員の森内淳史と原田萌が立っている。席順はくじで決めることになっているので、淳史がくじの準備をして、萌は黒板に席順表を書いて番号を振っている。  淳史は、振り返って萌が書き終わったのを確認すると、 「では、男子から出席番号順にくじを引きに来てください」 と、クラスメイトに向かって声を張って言った。  男子生徒たちはおのおのくじを引くと萌に渡し、萌はその番号の位置にくじを引いた生徒の名前を書いていった。萌が黒板にそれぞれの名前を書くスピードより、男子たちがくじを引くタイミングが早くなっていき、いつの間にか黒板の前は人だかりができてきた。  萌は、自分の背後に黒くて背丈の大きい集団が出来て内心焦っていた。萌の心臓がバクバクしてきたそのとき、くじ引きを待っていた陽介が一言言った。 「原田に書いてもらうのを待ってないでさ、自分で書いたらいいんじゃない?」  教壇前の集団は、その言葉に従って、順次自分の引いたくじの番号の位置に名前をチョークで書き出した。  黒板前に立てる人数は限られているが、萌が一人で書くよりも一気に流れが良くなった。萌も手が空けば誰かのくじを引き取り、名前を書き続けた。先ほどのまでの息が詰まりそうな圧迫感から解放されて、萌はほっとした。  ほっとしながらも萌は、作業を止めないよう忙しく手を動かしていると、横に立って名を書き終わった男子から声をかけられた。 「よう、お疲れさん」  陽介だった。  萌は不覚にも手が止まってしまった。とても嬉しかったのだ。誰かに褒められようと頑張っていたわけではないが、分かってもらえた嬉しさは格別だった。 手際の良い萌であっても、クラスの雑用を常に背負っているのは負担に感じることがある。しかし引き受けた以上、そのことについて愚痴や文句を言ったことはなく、萌も淡々と仕事をこなしていくので他者にそのしんどさは伝わりにくい。陽介はそのあたりのしんどさを結構な頻度で見抜いて、時々手伝ってくれる。手伝うまでしなくても、先ほどのような労りの言葉は時々くれる。正直言って、学級委員の淳史より頼りになると思ってしまう。  席順を決めるためのくじ引きは順調に進み、最後は萌がくじを引いて席替えは終了になった。その後すぐ、教壇にレクリエーション委員の小林憲太郎と遠藤祐子が上がり、文化祭の出し物の話し合いに移った。 放課後になってから、各自が席を移る作業をし始めた。萌も窓際の一番前の席に移った。視力の悪い萌にとって一番前は都合が良かったが、一つ困ったことになった。 「よう、よろしくな」  その席の真後ろが陽介だったのだ。席に移ってすぐに陽介は周りに声を掛けている。萌は軽く会釈をすると、陽介はにかっと笑った。  彼はすぐに踵を返し歩んでいった。その先には貞晴がいた。貞晴の席は廊下に近い方になって陽介とは離れてしまったようだ。  2人はじゃれ合うようになにかを話している。 (本当に仲がいいなぁ)  萌は憧れに近い気持ちでその様子を眺めていた。  そのとき、教室後方から声がした。祐子だった。 「萌ちゃーん、一緒に部室いこうよー」  祐子は机の中を整理しながら、少し大きめのよく通る声で誘ってきた。 「うん。準備できたら一緒に行こう」  萌はぼんやりしていたのをかき消すように、声を張って答えた。 二 写真部部活動  部室棟の二階は、まだ夏の勢いが残る太陽に照らされて熱気がこもっていた。  萌と祐子は部室棟に来る途中でB組の優衣と合流して、3人で写真部部室に着いた。優衣が部室の鍵を開けて入ると、熱い空気で充満している。 「暑いー」 と言いながら萌は窓を全開にしてゆく。教室にはエアコンが付いているが、部室棟にはエアコンはない。  正直この時期は、部屋で活動がしにくいので、放課後一度部室に集合してどこかの教室に行くのが慣例になっていた。  今日は、文化祭の展示について話合いをする予定になっている。使う教室は琴子のいる2年E組の予定で、琴子は教室で待っている。  あとは部長と一年生の数人が来たら移動するので、3人は部室で現像した写真をまとめた冊子などを見ながら待っていた。  夏休み前から、この3人の関係に変化があった。  萌と優衣は1年生のころからの仲良しで、他の子が入り込めないような親密さがあったが、6月ぐらいから優衣のほうが積極的に祐子に構うようになって、結果として萌と優衣の間に少し距離ができていた。  距離ができたといっても、同じ部活動中は変わらず話はするし、一緒に帰ったりしていて傍から見るとなんら変わらない関係に見える。当事者の萌にだけ感じられる切ない距離だった。  ときどきD組に遊びにきている優衣が、萌より先に祐子の声を掛けて、祐子が萌のほうに視線を投げかけることがあるが、萌は気が付かないふりをしている。  優衣が萌と距離を取り出した原因に、萌は心当たりがあった。  吉川貞晴のことだ。  貞晴押しだった優衣に、貞晴のD組での様子を伝えていたのが萌だったが、基本的に優衣の喜ぶ話しか伝えていなかった。実際には、貞晴と祐子が運動会を通じて仲良くなったのは、誰の目にも明らかだったがそれは優衣に教えていなかった。優衣本人が、貞晴と祐子の親密な様子を目撃して実態に気が付くのだが、そのショックを萌のせいにしているところがあった。  貞晴と祐子については、これからどうなるのかといった雰囲気が二人の間にあったが、運動会が過ぎてしばらくしたころ祐子自身が貞晴のことを「親友なの」と女子の間で公言し出したあたりから、優衣の様子が変わっていった。萌抜きで、祐子と二人でいることが多くなっていった。貞晴の様子を萌に聞くより、彼と実際に仲が良い祐子に聞いた方が良い情報が得られると思っているのだろう。以前はあれほど貞晴の様子を萌に聞きたがっていた優衣であるが、今では萌にその話題をふることは滅多になくなり、代わりに祐子から聞いているようだった。一緒に帰っていても、以前のように会話が盛り上がることも少なくなった。  写真部の仲間同士、以前と変わりのないよう過ごしていても、萌はどこか置き去りにされている感が否めなかった。  萌の周囲には誰よりも早く秋風が吹いているようだった。  部員が集合して、必要な用具を持って2年E組に行くと琴子が机を集合させて円卓を囲むように座れるよう準備していた。  部長を先頭に写真部員たちが教室に入っていくと、琴子が顔を上げた。そのとき琴子は、写真部員の集団の最後に萌が教室に入ってきたのに気が付いた。そのまま視線を泳がせて優衣を探すと、優衣は祐子とすでに教室奥に入って、何やらキャッキャッとはしゃいでいる。萌は、というと持ってきたファイルをテキパキと机の上に並べて部長と話をしていた。  琴子はおもむろに部長と萌に近づき、2人の会話に入った。文化祭のことが話題のようだった。琴子は文化祭に興味を持っているふりをして話を聞きつつ、萌の様子を伺ったが萌はいつもと変わらず、淡々と必要事項の確認をしていた。  一見仕事好きの萌に見えたが、琴子は萌の無表情に平静を装っているふりを見た。 琴子は2人の話を聞いているふりをして、優衣を目の端の方で見ると、祐子と話に夢中になって周りのことが見えていないようだった。  はしゃぐのが大好きな優衣。  琴子は優衣が副部長になった経緯を思い返しながら(実質の副部長は萌だよなぁ)と思った。  祐子のほうは、背の高い優衣を見上げるようにまっすぐ見つめて、ニコニコしている。  優しくて思い込みの強い祐子。琴子は心の中でまた彼女が傷付かないことを祈った。 三 文化祭実行委員会  9月中旬の金曜日、放課後に文化祭実行委員会が開かれた。  生徒会が招集した第一回文化祭実行委員会は、生徒会メンバーのほかに各クラスの学級委員と参加予定のグループの代表が詰めかけていた。  蒼山高校の文化祭は、生徒会が主催者となり各クラス、文化系の部および一部有志がエントリーする形で参加する。  エントリーが認められた集団は、生徒会から文化祭活動費を支給され、それをもとに文化祭では展示やイベントを行う。生徒会は文化祭のスケジュール作成や各グループの展示等の配置も担っているので、配置の発表がある今日の委員会は結果を聞きに来た参加グループでごった返していた。  生徒会のメンバーが順番に文化祭までの準備スケジュールについて説明をしている。そして活動費の支給方法や収支報告について、生徒会会計担当の姫野楓が話し始めたとき、後ろのほうの席にいた漫画研究部の姫野清香は、急に白けた気分になった。  人前で臆せずハキハキと話をする楓を見るたびに、いろんなことがどうでもよくなるのだ。 (楓と同じ学校にくるんじゃなかった) 姫野楓は清香の姉だった。しかも同学年の。 4月生まれの楓と翌年3月生まれの清香。年子の姉妹である楓と清香だったが、出生のタイミング上、同学年として学校生活を過ごしてきた。  小学校は一緒に学校に行って、同じ勉強ができることがただ嬉しかった。中学校では楓の学業の優秀さが目立ってきたが、家では楽しく学校の話や趣味の話をし合う、仲良しの姉妹だった。  中学3年生のとき、蒼山高校に清香が受かるかどうかは微妙な成績だったが、楓と一緒に学校に通うのが当たり前になっていた清香は必死に勉強して、やっとの思いで蒼山高校入試において合格を手に入れたのだった。  楓との仲がぎくしゃくしてきたのは、高校に入ってからだった。  楓の容姿の良さや成績の良さに、周囲が彼女を「姫」と持ち上げだしたのだ。そして、清香は「姫のおまけ」扱いをされるようになった。  当の楓は、そんな周りの変化など意に介さず、幼いころと変わらず清香と一緒に過ごすのが当たり前のような顔で微笑んでいた。  楓の声は特徴がある。高音なのにハスキーなその声は管楽器の音色のようだった。その声で「きよか」と呼ばれるのが清香は大好きだったが、今は苦痛となっていた。学校のどんなざわめきの中でも「きよか」と呼ばれるとすぐに楓が分かってしまう。休み時間や登下校で清香は楓を避けるようになっていたが、楓の声を聞こえないふりをするのは辛かった。  高校に入ってから楓と清香は、言うなれば、生息域を急速に分けていったのだ。  成績が優秀で美人なわりに人懐っこい楓は、高校ですぐに人気者になり、生徒会から声をかけられ活動を手伝ううちに生徒会会計に指名された。  一方、清香のほうは人と話をするのが苦手だった。言いたいことがすぐさま言葉にできないタイプで、言葉を選んでいるうちに、目の前で人の話題は移っていく。いつしか人と話すときは聞き役に徹するようになっていった。学業にも面白味も見いだせず、容姿にも自信がない清香はクラスでも目立たずひっそり過ごしていたかった。長い前髪を下ろしたその下の眼鏡でキラキラした同級生たちを眺めては、別世界の住人として観察している毎日だった。 「はぁ」  清香は、ため息をついて俯いた。顔を伏せていても、楓の声は容赦なく耳を刺激した。 「はぁ」  清香が二回目のため息をついたとき、横に座っていた大野桃子が清香の肩を突いて言った。 「清香ちゃん、大丈夫?」  桃子は俯く清香を心配して声をかけた。体調が悪いのかと思ったのだ。  顔を上げた清香は、へらっとした笑いを浮かべ「大丈夫、大丈夫」と返した。  壇上では楓の説明が終わり、部活動や有志のための展示場所の発表が始まるところだった。  清香も桃子も、できれば3か所ある空き教室のどれかが当たってほしいと思っていた。それはどこの文科系の部員もそう思っていた。空き教室は生徒の教室に隣接しており、展示を見てもらうのに呼び込みもしやすい。備え付けの物品も少ないため、片付けの手間も少なくて済む場所だった。  文化祭で校内に展示場所を必要とする参加グループは、あらかじめ第一希望から第三希望までリストを生徒会に提出している。希望場所が重複したグループは生徒会内で協議して決めていくのだった。 「では、教室Aは……」  壇上で場所割担当の副会長が手に持った紙を見ながら発表していた。  希望どおりの場所を獲得したグループの代表たちはガッツポーズをしたり、歓声を上げたりしている。清香も桃子も心の中で祈りながら待ったが、漫画研究部には空き教室は当たらなかった。空き教室ほど人気はないが、広くて使い勝手の良い理科実習室や家庭科実習室も当らなかった。漫画研究部が割り当てられた場所は、職員室の隣で教室から遠く離れた進路指導室だった。 四 楓と清香 「ねぇ清香ちゃん、やっぱり体調悪い?」  文化祭実行委員会が終わっても無言の清香を気遣って桃子が聞いた。  清香と桃子は会場だった視聴覚教室を出たところだった。 「ううん、そんなことないよ」  清香は、誤魔化すように作り笑いを浮かべた。内心は、漫画研究部に最も不人気の進路指導室を割り振った生徒会もとい楓に強い怒りを感じていた。 「それならいいけど……。無理に付いてきてもらって、ごめんね」  桃子が申し訳なさそうな顔をして言った。  漫画研究部の部長である桃子は、責任感は強いのだが押しが弱い。今回の文化祭実行委員会も本来なら部長の桃子と副部長の谷川悠斗が出席するはずであるが、悠斗が放った「その日は無理」の一言で引き下がり、頼みやすい清香に同席をお願いしたのだった。 「謝らなくっていいよ。本当に大丈夫だから。じゃ私これで帰るね」  清香は作り笑いをしているのが辛くなって、その場から離れたかった。自分 を気遣う桃子には悪いが、早く家に帰りたかった。  清香はこの場所割りの結果が漫画研究部のメンバーに知れたら、自分が誹られるのではないかと怖かった。と同時に、惨めな気分になった。惨めさを感じたら、一気に楓への怒りが募った。楓にとってはとんだとばっちりであるが、とにかく清香の頭では自分の惨めさの根源は楓にあるとしか思えなかった。  清香は足早に玄関に向かい、駐輪所に向かう。途中ですれ違うすべての生徒たちが楽しそうで煌めいて見えた。自分だけが、この蒼山高校で楽しくなくて、くすんでいるように思えた。自転車に乗って帰る途中も、赤信号にかかるたびに自分だけが割を食っているような気がしてしまった。  どうしてこんなことになってしまったの。  どうして漫画研究部の割り当てが、よりによって進路指導室なの。  楓に頼んであったのに。すごくお願いしたのに。  漫画研究部でも期待されていたのに。清香の伝手で今回の文化祭は良い場所かもよって。  楓のカッコいい姿、見たくなかったのに。我慢して文化祭実行委員会行ったのに。  どうして楓は私を裏切ったの。  清香の帰り道の景色は、涙で滲んできた。こんな、情けなさが100パーセントの涙流したくなかった。清香は泣いちゃだめだと自分に言い聞かながら、家に急いだ。  楓が帰ってきたのは姫野家の夕食前だった。 「ただいまー。もう、お腹ペコペコー」  制服のままキッチンを覗いた楓を見て母親の章子は、料理の手を休めずに「お帰り。着替えておいで」と短く答えた。  大きなソファに身を預けてタブレットを見ていた清香は反射的にソファに沈み込んだ。楓が帰ってくるのをずっと待っていたのに、楓に見られたくないと思ったのだ。 「清香、手伝ってちょうだい」  章子がキッチンから声を掛けても清香は返事をしない。  清香は動かず数秒考えて、ポイっとタブレットをソファの座面に投げると、おもむろに立ち上がってキッチンに向かった。手伝わず母親の小言を浴びるより、少し手伝った方がましだと考えたのだ。  キッチンで章子が茶碗にご飯をよそっている。3人分の茶碗をお盆に乗せて、清香がテーブルに並べる。そこへ軽やかな足音を立てながら楓がやってきて、キッチンとダイニングテーブルの様子を見てから手伝いを始めた。  女3人、流れるように息の合った動きで、あっという間に食卓の準備が出来上がった。何年にも渡って毎日やり続けた成果だった。  章子は、その様子を感慨深く見ていた。小さな楓と清香をワンオペで育てるのは本当に大変だったけれど、自分の苦労を汲み取って子供たちはキチンと手伝える人に成長したのだ、私って本当に良く頑張ったわよね、などと章子は自分で自分を褒めていた。  章子と楓の食事が済んでも清香はまだもぐもぐと白米をかみしめている。清香は食べるのが遅い子だった。楓はそんな清香の横を通って、自分の食器をキッチンのシンクに運ぶと、その足で二階の自室に上がって行った。  清香は慌てて白米を飲み込むと、楓を追いかけてリビングを出た。 「かえで」  清香が声をかけてから階段を踏み上がると、楓は階段途中で振り返って待っていた。 「なに?」  楓は優しい声で尋ねてきた。見下ろすように清香を見る楓は、いつにも増してお姉さんに見える。 「あのね、今日の実行委員会で話があった文化祭の場所割りのことだけど」 「うん」 「なんで、漫画研究部は進路指導室なの?」 「うん?」 「前に頼んだよね?漫画研究部の場所は良いところにしてねって」 「……ああ」 「私、頼んだよね?」 「……そうだね。でも、希望どおりにならないことは清香にも説明したよ」 「あのとき各グループの事情を考慮にいれるからって言ったよ?」  清香は少し大きな声になった。 「そうだよ。だから、展示物が多かったり大きかったりするグループは、大きめの部屋が割り当てられるんだよ」  反対に楓の声は重たく静かになっていった。 「漫画研究部の事情は?印刷物が多くて重くて運ぶの大変なんだよ!」 「それでも、写真部や美術部みたいに大きなパネルはないでしょ?」 「だからってなんでウチがあそこの部屋なのよ!他にも手芸部とかESSとか、こじんまりした部があるじゃない?!」 「……進路指導室が人気のない場所だっていうのは生徒会だって分かってる。だからこそ、2年続けてその部屋を使用しないっていうルールがあるの。去年は手芸部が使ったから、今年は別のところに割り振られるの」 「……そんなルール知らないよ」 「最初の説明会で話はしたよ、鹿内先輩が」  鹿内真一は場所割り担当の生徒会副会長だ。 「でも、楓が生徒会の中でどうにかしてくれたっていいんじゃない?そういう意味で言ったのに……」 「そんなこと、できるわけない!」  楓は鋭く清香の言葉を遮った。そして 「生徒会は、すべての生徒に対して公平な存在なの。そんなことしてバレたら、私が生徒会に居られなくなる!」 と強く言い切ると、楓は清香を見つめた。そして、あからさまに顔を背けて、自室に入って行った。 五 なぐさめ  階段に取り残された清香は、思いがけない展開に頭がついていっていなかった。遅れて自室に入った清香は、回らない頭で先ほどの階段での出来事を反芻していた。  いつも優しい楓が、怒っていた。  清香がまず感じたのは、怒るのは私の方なのに、なぜ楓が怒るの?という気持ちだった。  清香は、心のどこかで楓はいつも自分のことを分かってくれる存在だと思っていた。自分の言い表せない気持ちを汲んでくれる唯一の存在だと思っていた。だから、清香の言いたいことを分かって、そのように動いてくれると思っていた。  確かに楓は言った。「希望どおりにならない」と。  でもそれは一般的なことであって、姉の楓が生徒会にいるのだから、自分の希望が反映されることがあってもいいのではないかと、清香には思えた。  楓が口にした一言一句、意味は理解できた。理解はできたが納得できなかった。なぜなら、清香はあらかじめ頼んでいたからだ。「良いところにしてね」と。出来ないなら出来ないと最初から言えばいいのだ。それを勿体つけて、と清香は思った。「事情を考慮する」なんて言うから期待してしまった。  清香は自分の短慮を棚に上げて、心の中で楓を責めた。  漫画研究部の人たちの期待も裏切ることになった。 (来週、部活でなんて言おう……)  清香は、ベッドに置いてある薄汚れた猫のぬいぐるみを抱きしめた。その擦り切れた頭部分に顔を埋めた。心の奥底にぐるぐる渦巻く何かがあったが、もうそれは無視した。しばらくぬいぐるみを抱えて深呼吸をしてから、おもむろにそれを投げ出すと清香は机に向かった。積み上げた本やノートの間から一冊のキャンパスノートを取り出し開いた。そこには、現実が現実ではない姿に組み上がった清香の世界が広がっていた。  清香は、良く言えば夢見がちな少女だった。悪く言えば、空想に耽溺してしまうタイプで、疲れたときや嫌なことがあった日は、特にその自分が作り上げた都合のよい世界で遊ぶのだった。  漫画もそのための一つのツールであったが、今、彼女が夢中になっているのは、身の回りの人たちを使って架空の恋愛話を作り上げることだった。  清香は絵も描くが、文章も書いた。文字を使って、学校にいる実際の人物を登場人物として、物語の中で「好きだ」と言わせ睦み合わせた。今のお気に入りの登場人物は、2年D組の吉川貞治、和田陽介、そして2年F組の瀬川卓だった。この3人を使った三角関係の架空の物語を作っては、一人で悦に入っていた。  清香は、同じ漫画研究部で2年D組の山之内真紀から貞晴と陽介の様子を聞かされから、二人のウオッチャーをしていた。貞晴は2年F組の卓とも因縁があるらしいことも耳にして、それ以来、清香の脳内では彼らのいろんなやり取りを妄想してはノートに綴っていた。  17歳の少女が想像できることといえば、現代日本の少女漫画の中であふれ返っている男女のさまざまなのシーンであるが、その非現実なカップルの関わり方を覚束ない形で3人に実行させては喜んでいた。  そして今日もまた、その物語にどっぷり浸って、楓のことも文化祭の場所割りのことも束の間忘れていたのだった。 六 2年D組放課後  文化祭実行委員会が開かれた翌週、2年D組のホームルームでは文化祭の出し物について、その制作作業の分担が話し合われていた。  迷路を教室内に制作することになった2年D組は、段ボール収集&段ボールパネル作成チームとチケット&看板作成チームに分かれて活動することになった。  2つのチームに分かれるのであるが、労力は圧倒的に段ボールにかけなければいけないので、男子全員と女子の半分が段ボールを担当し、残りの女子がチケット作成などの雑用を行う。  クラスでの話し合いの後、萌と淳史と祐子と憲太郎は一つの机を囲み、当日までのスケジュールを話し合っていた。   クラスメイトも、ホームルームの話し合いの余韻で教室のあちらこちらでしゃべっている塊ができていたが、次第にそれもほどけて、D組に残っているのは萌たち4人と陽介と貞晴だけになった。  憲太郎が顔を上げて教室を見渡して、陽介と貞晴を見つけた。 「まだ、帰っていなかったのか?」 「段ボールをもらいにいくなら手伝おうかなって思っているんだけど」 と貞晴。 「うちは数が必要だから、早いうちから行ったほうがいいんじゃない?」 と陽介。  蒼山高校の文化祭では近隣の商店やスーパーから不要な段ボールをもらって資材にするのが恒例であったが、商店やスーパーにも限りがあるので、間近になると争奪戦になるのだ。  萌は陽介を見ながら、 (ああ、やっぱり……) と思った。やはり陽介は他の人と違う。自分のこと以外に目を向けられる人なのだと改めて思った。  大抵の人は、基本的に自分に割り振られた仕事しか目が向かない。その仕事をこなすだけで精一杯の人が大半だろうが、同時に、他者の仕事にそこまで関心を持たない。その進捗が遅ければ腹立ちはしても、踏み込むことは滅多にしない。踏み込む場合は、そういう立場である場合だけだ。  しかし陽介は、平気でそこを乗り越えてくる。  見ようによっては、おせっかいとも思える行動であるが、よく全体を見て、必要と思えるときに行動を起こしているのだから、決して一人よがりでもない。 (こんな人、会ったことない……)  萌はぼんやりとそんなことを考えていると、 「そうなんだけど、俺、今日は都合悪いんだよな」 と憲太郎がバツの悪そうな顔をして言った。 「僕も今日塾で、もう行かないと……」  淳史が便乗して、この話し合いを切り上げたい雰囲気を醸し出している。 「原田と遠藤は?」と陽介。 「私、行けるよ」と祐子。  その言葉を受けて萌が頷くと、陽介は 「じゃ、4人で偵察がてら近くをまわるか」 と言って、その後の行動が決定した。  蒼山高校から歩いて行けるスーパーに4人は向かうことにした。高校の近所に住む祐子が案内人である。  住宅地の細い裏道を近道にしたので、自然と2人組で歩くようになり、前を貞晴と祐子が並んで歩き、後ろを陽介と萌が並んで歩いていた。  萌は少し落ち着かなかったが、陽介はまるで気にしてないようでむしろ初めて歩く道を面白がっているようだった。萌の緊張が溶けいくようだった。 (あ、そっか……)  陽介の周りにいつも人がいるのは、きっと彼がいつも楽しげでポジティブで、そばにいるだけで鬱々とした気分が晴れるような気分になるからだろうと思った。  不思議なものを見るように、萌は陽介を見た。 「何?」  陽介は、目じりを下げたまま萌を見た。 「……なんだか楽しそうだなって」と萌。  陽介は萌を見て、一呼吸置いてから 「楽しいさ。原田は楽しくないの?」 と聞いてきた。 「えっと……楽しいかな?」 と萌が言うので 「なんで、疑問形なの」 と陽介は笑いながら言った。  萌はなんと答えようかと頭の中で逡巡していると、少し前を仲良さそうに歩く貞晴と祐子が目に入った。そのとき急に、このダブルデートのような構図が滑稽に思えて、自分のような人間と歩く羽目になった陽介が気の毒に思えてきた。先ほどまでほんの少し軽くなった自分の気持ちが重たくなっていくのが分かった。 「あのさ、原田はさ……」  陽介が急に話し出したので、萌は物思いから我に返った。 「原田はさ、見えすぎているんじゃねぇの?人の気持ちだけじゃなくて、社会のルールとか常識とか、あるいは自分に何が期待されているとか……」  陽介の言葉に萌はドキリとしたが、 「それは陽介君のほうでしょう?」 と言い返した。 「あはは。俺のほう?どうだろう。見えてんのかな?」  陽介は茶化すように言った。そして、 「俺のことはどうでも良くてさ。原田のことよ。言いたかったのは、原田はよく見えているくせになんかそれを隠そうとしているだろ?」 と陽介が言うので、心を深く掘り下げたくない萌は 「いや、見えてないし。隠すこともないし」 と強く突っぱねて陽介から顔を背けた。 「あ、そう?それならいいけど」 と陽介もそれ以上深追いしなかった。 七 二年D組放課後Ⅱ  陽介と萌の前で、祐子は道すがらスマホで何かを写真に撮り、それを貞晴に差し出し見せる、を繰り返していた。祐子は行儀よく並んで歩く、なんてことはせずに何か見つけると気の向くまま数歩駆け出しては写真を撮り、貞晴はそれを楽しそうに眺めている。  萌が、この二人実際どうなっているんだろうと内心思っていると、 「なぁ、次はどこで曲がるの?そろそろじゃね?」 と、陽介が祐子に声をかけた。ちょうど祐子が貞晴のところに駆けて戻ってきたところだった。 「うん、そうだよ。この先の細い道を右に入ってまっ直ぐ行くとスーパーの裏手に出るよ」  祐子は快活に返事をした。  その言葉に一行は道を曲がって、目的地のスーパーに到着した。  スーパーの責任者には段ボールを改めて取りに来る日を伝えて、その日は解散になった。  自宅が近い祐子はそのまま家に帰り、自転車通学している陽介と萌と、バス通学の貞晴は三人連れだって高校に引き返すことになった。 「今日は本当にありがとう。一緒に来てくれて助かった」  萌がそう言うと、 「こっちこそ、ありがとうだよ。こんな抜け道、知ることができたし」  陽介がニカっと笑いながら答えた。隣で貞晴も、気にしなくていいよと言っているような笑顔を向けてきた。  その後にふいに訪れた沈黙に、萌はつい思っていたことが口に出た。 「それにしても、祐子と吉川君は仲良しだよね」  萌は、その言葉にさほど深い意味は込めていなかった。祐子からは「吉川君は親友だから」と聞かされていたので、お互いに友達ポジションに落ち着いているのだろうと思っていた。  だか、その言葉に何を思ったか、陽介が笑い出した。その横で貞晴が渋い顔をしている。  萌は混乱しながらも、言ってはいけないことを言ってしまったのかと思った。 「なんか、嫌なこと言ったんだったらごめん。詮索するつもりはなくて、仲良しっていいなって思っただけなんだ」  萌は、普段は見せないような渋い顔をしている貞晴に、とりあえず謝った。 「いやいや、原田。笑った俺が悪い」  まだニヤニヤしている陽介。貞晴も 「僕のほうこそ、ごめんね」 と、萌にいつもの笑顔で謝った。  まだよく状況が読めない萌は、少し迷ったが、砕けた雰囲気の中でこれくらいは言ってもいいかと思い、つい口にした。 「えっと、祐子からは吉川君とは親友って聞いているよ」  その言葉に陽介は沈黙し、貞晴は小さく笑った。  少し間を置いて、陽介が 「親友って、なんなんだろうな」 と、言い出した。 「えっ」萌と貞晴が顔を上げた。陽介は続けて、 「友達と親友の違いってなんだろうなって……ふと思ったんだけどさ、どう思う?」 と話を振られた萌は、しどろもどろ答えた。 「親友は……言いたいことを何でも言い合えたり、阿吽の呼吸があったりとか、かな」  陽介は足元を見ながら「うんうん」と言って「じゃぁ、友達は?」とさらに聞いてきた。 「友達は、なんていうか範囲が広いよね。だから、友達だからって全部が全部、言いたいことを言ったりはできないっていうか……」  萌が頑張って答えると、陽介が 「気を遣ったり?」 と言葉を補ってくれたので、萌が「そうそう」と言った。 「つまりさ、相手に遠慮があるかどうかが、親友と友達の分かれ目ってわけだ」と陽介。  萌は黙って頷いた。貞晴は話を聞いているが、ずっと黙っている。 「俺はさ、遠慮って大事と思うんだわ。遠慮も配慮の一つだろ?相手の気持ちに配慮せずに、相手が受け止めてくれるからって自分の言いたいことばかり言うのは、ただの甘えだよ。相手の気持ちを自分のことのように感じることができないと、そもそも友達じゃないと思っているんだけどな……」  どうやら陽介は、祐子のことを暗に批判しているようだと気がついた萌は、内心困ってしまった。祐子の立ち位置がまったく見えてこなかった。 「では、祐子が勝手に言っているだけってこと……なのかな?」  萌は注意深く聞いてみた。  誰にでも聞かれたくないデリケートな話というものがあるが、そのデリケートな部分に触れないように、触れていたとしてもすぐに撤回できるようにそっと言ってみた。 「遠藤がどうって言うんじゃなくてさ、一般的な話をしただけなんだけど……」  陽介が素っ気なく言った。萌は、返す言葉が見つからなかった。  少し沈黙が続いた後、貞晴が口を開いた。 「遠藤さんが僕のこと『親友』って言っているなら、そうなんじゃないかな」 「そもそも、『親友』なんて言いふらすもんでもないだろ」  陽介がすかさず言った。 (決定的だわ……)  萌は、陽介が祐子の貞晴に対する一連の行動を、良く思っていないと確信した。  それはなぜか。 貞晴が祐子のことを好きで、でも、祐子がそれを受け入れないのであえて友達ポジションに甘んじているからに他ならない。そのこと自体は、祐子と貞晴の自由なわけだが、祐子の言動には貞晴の気持ちに配慮する様子は見られない。陽介は「甘えだ」という言葉を使ったが、確かに祐子はお兄さん気質の貞晴に甘えている風に見える。  萌は、今までのことがすべて納得いく思いだった。  そして、貞晴と自分を重ね合わせ、自分の好きな人に思いを受け入れてもらえない切なさに共感していた。  そのとき、 「『親友』認定、良いんじゃない?」 と、貞晴があっけらかんと言い放った。 「マジか。……そういう手もあるけどさ」と陽介。 「そういう手って何だよ」 と、貞晴が本当に分からない顔で陽介に聞くと、 「え?俺は何か深い意味があるのかと……」 と、陽介の方が驚く顔で貞晴を見つめた。 「ナイナイ。無いよ。深い意味は無い」 「下心はあるだろう?」  からかうように言う陽介に、 「無いよ。遠藤さんが親友だって言うんだから、それで良いんだよ」 と、貞晴は断言した。貞晴は、以前、自分が祐子に向かって「いつでも味方だ」と言った言葉に忠実でいたかった。 八 校門にて  3人はそのまま文化祭のことを話ながら高校の正門に向かったが、萌は別のことを考えていた。  貞晴の言葉の一つ一つに祐子への想いが感じられて、居たたまれなかった。なぜなら、萌は優衣の貞晴への恋心を知っているからだ。 (優衣、吉川君は望みは薄いよ……)  萌は、心の中で優衣に話かけた。これをそのまま優衣に言ったら、彼女はどうするだろう……泣くのかな?怒るのかな?などとぼんやり考えていると高校の正門に着いた。  バスで通学している貞晴は、そのまま三人と別れてバス停に向かった。  自転車通学の萌と陽介は、自然な流れでそのまま二人で自転車置き場まで歩くことになった。 「あのさ、さっき私、へんなこと聞いちゃったかな?」  萌がもじもじと聞いたら、陽介が「ああ」と言ってから、 「俺こそ余計なこと、言っちゃったよなぁ」 と独り言にように言った。さらに、 「俺がどうこう言うことじゃないんだけどさ。サダはさ、めっちゃくちゃ良い奴でさ。良い奴すぎるから、俺の方がもやもやするっつうか」 と熱を込めて言ってから、見つめる萌と目が合って黙ってしまった。 「そんな、冷静な目で見られると俺、恥ずかしくなってきた……」  そう陽介が言うので、萌は、 「いやいや、陽介君すごいなと思って見ていただけだから。友達のために、相手の気持ちを分かろうとするのって立派だよ」 と言った。  そして、 「私、目つきが悪くって。普通に見ているだけでも、冷たい視線って言われるのよ。全然、冷静じゃないし」 と付け加えた。表情の変化が乏しい萌は眼鏡をかけていると、よく冷たい表情をしていると言われるのだ。 「陽介君と吉川君の関係、すごくいいね……」 「なにそれ」  陽介は、まんざらでもない様子で照れていた。 「今日の話、あまり他の人に言わないほうがいいよね……」  萌が小さな声で訊くと、陽介は 「さっきの親友うんぬんってこと?」 と言うので、萌は「うん」と頷いた。 「……原田は察しちゃうよな。まぁ決定的な話はしてないから、原田の好きにしたら?」 「え、いいの?私、ペラペラしゃべっちゃうかもよ」 「言わないでって言っても、言っちゃうのが女子の世界でしょ」  陽介がおどけて見せた後、真顔になって言った。 「原田は分かる側の人間だろ?」  そう言って「じゃあな」と自転車の群れに入って行った。  一人になった萌は、今日のスーパーまでの往復で起こったことを反芻していた。陽介と貞晴の関係が心底羨ましくて、自分自身に絶望した。   九 ヒソヒソ話  その日陽介は、朝からクラスで浮いているような、不思議な感覚があった。  特に、男子のクラスメイトの一部が自分から距離をとるような、それでいて時々じっと見られているような、今までにない距離感を感じていた。 (なんか、あったな)  陽介は敏感に察したが、それ以外の貞晴や憲太郎たちは変わりない素振りなので、あえて気にしないようにしていた。  それから数日経って、次第に廊下や玄関などでも、他のクラスや学年の生徒からじろじろ見られたり、こそこそ何かを話す様子も視界の端に見えたりして、学校で気分よく過ごせなくなっていた。  陽介が部活の更衣室に入ったときだった。数人の1年生が着替えていたが、陽介を見ると急に、ワイワイとしゃべっていた話をピタリと止めてコソコソと着替え始めた。 「おい」  陽介は、今までとは違う雰囲気にイラついてしまい声をかけた。 「なんだっていうんだ」  陽介が1年生たちに近づくと皆、体を避けるように陽介から距離を取る。陽介はそのうちの一人を捕まえてみると、身を縮めて出来るだけ陽介と接触したくないような仕草をした。 (あれ?これ、怖がっているっていうより……嫌がっている?) 「お前ら、俺になんか隠してないか?」 と陽介が詰め寄っているその時、更衣室のドアが開いた。一年生の滝本和馬だった。  和馬は、ぽかんとした顔をして 「どうしたんすか?」 と言った。陽介は、掴んでいる1年生の腕を放し、 「こいつら、コソコソなんか隠しているみたいだから、ちょっと教えてもらいたくってな」 と説明した。陽介も感情的になったことが恥ずかしく思えた。 「あぁ、多分アレです。最近出回っている妄想話のことだと思います」  和馬は、表情も変えず練習着の入ったバッグをロッカーに投げ込んだ。更衣室にいた1年生たちは、急に気まずそうに黙り込んでいる。 「おい、その話もっとちゃんと聞かせろ」  陽介は、着替えようとする和馬を更衣室の外に連行して、話を聞いた。 「俺は、現物を見てないけれど……」 と、和馬は前置きをして、話し始めたことに陽介は唖然とした。  和馬が言うには、陽介と貞晴と柔道部の瀬川卓を登場人物にした物語のコピーが一部の生徒の間に出回り、読まれているとのことだった。  陽介は、自分の知らないところで自分がキャラクターとして扱われていることの気味悪さを覚えたが、さらに腹立たしかったのは、その内容がいわゆる「BL」物で、どうも陽介と貞晴と卓とで三角関係を演じているらしかった。 「噂では、内容がちょっとエロいらしいっす」  和馬が淡々と話すので、陽介はこれが現実のこととは思えなかった。  が、自分が関わっていることを黙って見過ごす男ではない陽介は、 「お前、そのコピー手に入るか?」 と和馬に迫った。和馬は、 「無理っす。俺はその噂を聞いただけで、今、誰が持っているかは知らないから」 とあっさり言った。  陽介は、踵を返して戻ろうとし、振り返って和馬に声をかけた。 「サンキューな」 和馬は別に嬉しそうでもなく会釈した。  陽介が先ほど更衣室にいた1年生たちを追求すると、あっさり現物にたどり着いた。その中の一人と仲が良い1年生の女子がコピーを持っており、スマホで連絡させるとまだ学校にいたため、格技館まで届けてもらった。  手渡されたものは、B5のノートに手書きされたものを見開きで印刷したものが数枚だった。いろんな生徒の間を渡ってきたのか、紙の角が折れたり擦り切れていたりしている。  陽介は、それを一人格技館の裏手の人の通らないところで読んだが、眩暈が起きそうだった。  貞晴と自分のキスシーンでは、吐き気を感じてしまった。  陽介は、顔の前から引きはがすようにコピー紙を振り下ろし、握り拳で格技館の壁を叩いた。しばらく呆然としていたが、そっとコピー紙を折ってゆっくり更衣室に戻って行った。  陽介が身支度を終えて、部員たちと合流したとき、彼らはルーティーンの素振り練習を行っているところだった。  陽介はコピーを入手した1年生男子のそばに行くと 「お前のカバンに突っ込んているからな」 とだけ声をかけると、滑らかな動作ですぐに素振り練習に加わった。  声をかけられた生徒は、陽介からどんな怒りをぶつけられるだろうかと恐々としていたため、拍子抜けでびっくりした。周りの1年生も陽介の様子を伺っていたが、普段と変わらない彼の様子にお互い目を見合わせていた。  陽介は、そんな周りのざわつきなどお構いなしに正面を向いて、いつも通り軽やかに素振りを繰り返していた。   十 噂  翌日2年D組は、クラスの男子総出で以前約束したスーパーから段ボールをもらってくる予定になっていた。放課後を待って、陽介と貞晴が先導する形で、同じクラスの男子生徒の大半を引き連れて先日歩いた道を再び歩いていた。 「どうした?なんかあった?」  貞晴が陽介に顔を寄せて訊いた。集団の前の方を並んで歩いていた貞晴と陽介だったが、あまりしゃべらない陽介のいつもと違う様子に、貞晴はなにか問題がおこったのかと心配になったのだった。  貞晴は、陽介の様子が朝から少し違っていることに気が付いていた。  いつもは、休憩時間は必ず誰かとしゃべっている陽介が今日に限って手元のスマホをずっといじっていた。昼休憩に至っては、「悪い、ちょっと出る」と言って一人教室から出て行ってしまった。  あまり他人を詮索しない質である貞晴も、明らかにいつもと様子の違う陽介のことが気になっていた。  そのとき、貞晴と陽介の後ろで笑い声が起こった。それはゾッとするような陰湿な笑い声で、陽介も貞晴も眉を寄せて振り返った。  ピタリと止まった声とは裏腹にいくつかのニヤニヤ顔があった。  陽介は何もなかったように正面を向いて歩きだした。その顔はむしろ爽やかな表情を浮かべている。  貞晴は気持ち悪さを感じつつも、さっさと歩きだした陽介についていった。  その瞬間、また背後にクスクスと笑い声を聞いたが、もう陽介が反応していないので、貞晴も不審に思いつつも陽介と並んで歩きだした。  スーパーから持ち出しを許された段ボールを銘々が持てるだけ持って、2年D組の教室に戻ると他の物品の買い出しに出ていた憲太郎たちと合流した。  教室の後ろ側に山積みになった段ボールは、同じサイズのパネルに仕立てて文化祭前日に迷路に組む計画だった。 「うわー、集まったねぇ」 と、祐子たち女子が集まって、歓声を上げている。 「じゃぁ、今日の予定はこれまでなんで、解散です」  憲太郎が誰に言うでもなくクラス全体に声をかけると、クラスメイトたちはばらばらと散っていき、D組に残った男子は貞晴と陽介と憲太郎になった。  貞晴と陽介が売店に行く相談をしていると、憲太郎が寄ってきた。 「あのさ、サダと陽介のことで変な噂があるんだけど……知ってる?」 と声を落として訊いてきた。 「なになに?」と貞晴。 「詳しく聞かせろ」 と、陽介は憲太郎の肩に腕を回して言った。  3人はそのまま教室を出て、売店の横にある自販機で飲み物を買うと、藤棚の下のベンチに座った。  藤棚の下には、いくつかのテーブルとそれを挟むようにベンチが配置されており、蒼山高校の生徒たちの休憩場になっている。放課後になってだいぶ時間が過ぎていたので、他の生徒はいなかった。 「で、なんの噂だって?」と陽介。  話しにくそうに黙っていた憲太郎に水を向けた。 「昨日、部の後輩からチラッと聞いてさ……なんか変な話になっているなと思っていたら、さっきの買い出しのとき堀ちゃんから変な話が出回っているって教えてもらってさ……」 『堀ちゃん』とは、同じ2年D組の堀内久志のことだった。 「変な話って、何?」 と、貞晴が砂糖入りのコーヒーを啜りながら訊いた。憲太郎が答えるのに間が開いたので、陽介がすかさず、 「俺とサダがデキてるって話か?」 と言ったので、憲太郎は慌てて「知ってたの?」と言った。貞晴も驚いて 「それ、どういうこと?」 と身を乗り出した。 「俺とサダがデキてるっていう……一種の作り話が一部で流行っているってこと」 と、陽介があっけらかんと言った。 「堀ちゃんが言うには、すげえ際どい話らしいんだけど……」 と憲太郎が言うと、「エロくて、キモイんだわ」と陽介が付け加えた。そして、「俺、読んだんだ。それ」とドヤ顔をして見せた。話が良く呑み込めていない貞晴に、陽介がかいつまんで説明すると、 「あはははははは」 と貞晴は爆笑した。  あまりに笑うので、憲太郎が 「いや笑い事じゃないだろ?1年生から、『二人は付き合っているんですか?』なんて聞かれてさ、俺は全力で否定したけど。作り話だったのが本当だったみたいな噂になりつつあって、お前ら困るんじゃない?」  根が善良な憲太郎は、本気で貞晴と陽介を心配しているようだった。 「でもさ、実際は違うわけだし。ていうか、よくそんな、有りえないこと考えるよね」 と、貞晴がまだ笑いながら言った。 「サダが気にしないならいいけどさ。陽介はどうよ?」  憲太郎が陽介の方を向くと、陽介は手元のコーヒーを見ながら、 「噂自体は、その妄想話をベースにして一部の人間が面白がって言っているだけだと思うんだよ。でさ、俺はこの妄想話を複数コピーして誰かが広めたってとこに作為的なものを感じるんだよね」 「そりゃ、書いた本人なんじゃない?」と憲太郎。 「いや、俺は違うと思うよ」と陽介。 「こういうのってめっちゃ偏った嗜好性なわけよ。マニアが楽しむみたいな。話自体も、流れが不自然っていうか。人に読ませる体裁になってないんだわ」 「じゃぁ、書いた本人とは別にこの話を広めた奴がいるってこと?」 「多分な」  陽介は、冷めたココアをぐいっと飲んだ。 十一 緊急ホームルーム  翌日の朝、蒼山高校では全クラスで緊急ホームルームが行われた。  教壇に立った担任の溝口は、見たことのないような厳しい表情をしていた。 「最近、我が校で在校生を侮辱する印刷物が出回っています」 と溝口が口にすると、教室は一斉にざわつきだした。 「静かに!」  溝口は大きい声で生徒たちの私語を制した。 「内容については詳しく言いませんが、在校生を登場人物とする創作の物語のようです。コピー用紙3枚程度が一組として、生徒間で複数部出回っているようです。それを持っている人は、至急私まで申し出てください。持っていなくても、持っている人を知っている場合は、その持っている人に学校へ提出するよう伝えてください」  教室はまたざわつきだしたが、溝口はもうそれを制することはなかった。  少し間を置いてから、溝口は言った。 「僕は……創作活動に制限はないと思っています。ですが、他者の名誉を一方的に貶めるような内容は看過できません。以上です」  溝口は、そう言い切ると教室を足早に出て行った。  陽介が教室を見渡すと、皆、その創作物語について話をしている。一部男子はニヤニヤしながら貞晴や陽介を見ている。その中で、陽介は矢野浩太とばっちり目が合って、浩太が含み笑いで俯いたのを見た。それとは対照的に、後ろのほうの席にいる真紀は真っ青な顔をしていた。  休み時間に入ってすぐ、陽介の席に憲太郎が駆け寄ってきた。 「アレ、没収されるんだな。噂も消えるよ、良かったな」  そこへ貞晴が寄ってきて、天気の話をするように話し出した。 「昨日の夜さ、卓から電話があって。どうも、昨日卓の親が学校に文句を言ったらしい」 「へえ」  陽介と憲太郎は同時に反応した。 「瀬川はなんて言ってた?」 と陽介が聞くと、貞晴は 「卓の親御さん、PTA会長しているだろ?同じPTA役員の他の親がさ、自分の子供が持っているコピーを取り上げて卓の親に見せたら激怒したんだってさ。卓もその時親から現物見せられて、びっくりしたんだって」 と説明した。 「激怒!」と憲太郎。 「で、どうした?」と陽介。 「校長室に怒鳴り込んだのが一昨日で、昨日緊急職員会議があったらしい。それで、回収が決まったんだって」 と貞晴が言うと、 「じゃぁ、アレが回収されるの知っていたのか?」 と憲太郎が聞くと、貞晴は頷いて「さすがに今日するとは思わなかったけど」と付け加えた。 「でさ」と貞晴は続けた。 「卓が言うには、書いた本人も分かっているらしい」 「へぇ」と憲太郎。 「誰だよ」と陽介。 「漫研の人らしいよ」 と、貞晴は興味が無さそうに空いている陽介の隣の席に腰かけた。  そこへ久志がふらりと寄ってきた。 「なになに、なんの話?」 「お前、噂知っていたんだろ。いつからだよ」と陽介。 「噂はここ数日に一気に広まった感じで。変なコピーが出回っているのは、先週に小耳に挟んだくらい」 と久志が返すと 「じゃ、俺に言えよ」と陽介。 「いや、俺も現物読んでないし。噂もさ、聞いてすぐコバケンに言ったくらいで」 と久志は言い訳をした。そして、 「だいだい、コピーも噂も1年生が中心になって騒いでいる感じだよ」 と言った。 「俺ら2年生は、陽介とサダの実態を知っているからさ。変な話が出ても、そんなに食いつかないよなぁ」 と憲太郎が言うと、 「そうだよな。3年生は受験でそれどころじゃないだろうし」 と久志も言った。 「そうなんだよ。他のクラスの連中に聞いても、コピーのことを知っている奴ってほとんどいなくってさ。噂は2年生の間でも結構広まっているみたいなんだけど、みんな『なんでこんな噂出た?』みたいな反応でさ」 と陽介が言った。陽介が言う「他のクラス」とは他の2年生のクラスのことで、前日にスマホを使って他のクラスの友達にいろいろ確認を取っていたようだった。 「卓も全然知らなかったらしいし」 「うちのクラスではずいぶん盛り上がっているみたいだけどな……」 と陽介がつぶやいて、浩太を見た。 十二 校長室  その日の放課後、清香は、簡易な応接セットのソファで、校長と教頭と漫画研究部の顧問である小西と対面していた。隣には母親の章子が座っている。 「では、これを書いたのはあなた本人であることは間違いないですね」  教頭は、テーブルの上に置かれたコピーを指さして言った。その横には清香の秘密のノートが置かれている。  清香は真っ青な顔をしていて、消え入りそうな小さな声で「はい」と答えた。 「登場人物に実際の同級生を使ったのには、なにか理由が?」 と教頭は続けた。眼前の三人の教師はじっと見つめている。清香が、 「話を聞いたので。この人たちがとても仲が良いと話を聞いて、そこから想像を膨らませただけです」 と答えると、教頭は 「では、彼らに悪いイメージをつけようという意図は?」 と重ねて訊いた。 「ないです。そんなものはないです」  清香は必至で訴えた。最初は、面白半分に書き始めた男子三人の三角関係であるが、なにか悪意があったわけではないのだ。意図せず大勢に読まれてしまったが、悪意がないことは分かってほしかった。  清香は、前日、小西からコピーの作者について追及されていた。  清香は(とうとう見つかった)と思った。清香がコピーの存在が出回っているのを知ったのは一週間前だったが、いつ自分が作者だとばれるかずっとびくびくしていた。清香は、小西から詰問されたことがショックで今日は登校できなかった。母親には、学校に行きたくない、と言って自宅の自室にこもっていると、学校から呼び出しの電話が掛り、事情を聞いた母親からものすごい剣幕で自室から引っ張りだされ学校に連れてこられたのだった。  校長と教頭を前に、清香は 「ただ自分のために書いただけです。こんなふうにコピーはしていません」 と泣きそうになりながら訴えた。  校長と教頭は、ふぅとため息をついた。清香の横で母親の章子が身を固くして様子を伺っている。  清香も、内心とばっちりだと思っていた。なんで私がこんな目に合わなければいけないの、と。この現状を招いた何かに対して腹立たしさを覚えていた。  清香が、自分の秘密のノートが無くなっていることに気が付いたのはもう2週間ほど前だった。清香は、ときどきプライベートの楽しみで書いているBLストーリーを漫画研究部の同じ趣味の子に見せるため、秘密のノートを学校に持ってくることがあった。面白さを共感してくれる他人と一緒に盛り上がると、さらに書くモチベーションが上がるのである。  その時もBL友達に見てもらおうと学校に例のノートを持っていき、日ごろの成果を友達に見てもらい、二人でひとしきり盛り上がったのだか、その日家に帰るとそのノートがどこにも見当たらなかった。  翌日、早めに部室に行くと、隅の長机の上に無造作に置かれているのを見つけて慌ててカバンにしまったのだった。  清香は、その顛末を説明すると、教頭が 「では、姫野さん以外の誰かがその紛失のタイミングでノートの一部を印刷して、校内に広めたということですか」 と言った。清香はまた小さな声で「多分」と言った。  教頭と校長は渋い表情で顔を見合わせた。小西は俯いたままだった。 「となると、ノートを印刷した人物にも話を聞きたいですが……」 と教頭が小西の方を向いて話かけた。 「……そうですね。部員を集めて話を聞きたいと思います」 と疲れた表情で小西は答えた。  黙って成り行きを聞いていた校長が口を開いた。 「姫野さんは、今回の件は自分でどう思っていますか?」  急に話を向けられて、清香はびくっと肩を揺らし、「えーっと……」と呟くと俯いてしまった。そこに章子が身を乗り出してきた。 「娘には私からよく言って聞かせますので!」 「今は清香さんに訊いています」  校長は静かな声で章子を制した。  校長室に重苦しい沈黙が流れた。清香は何も言えず、俯いたままだ。  校長はゆっくりと清香に語りかけた。 「自分の好きな物語を紡いていくのは、楽しいものですよね?」  校長の優しい問いかけに清香は顔を上げて、頷いた。 「それがいろんな人の目に触れて、あなたはどう感じましたか?」  清香は、意図せず自分の物語のコピーが出回ってしまったことにもショックを受けたが、それを読んだ人たちの反応があまり良くないことにもショックを受けていた。さらに、その物語を起点とするように、登場人物のモデルになった生徒たちの噂が広がっている現実には、恐怖すら感じていた。  ずっとその気持ちを見ないようにしてきた。もう、清香の心のキャパシティを超えていた。  校長は続けた。 「今、あなたが感じている動揺は理解できますが、仮にも創作者であるなら、その物語の全てに責任を持たなければなりません。あなたがもし、この現状を他人事と捉えているなら、それは違います。分かりますよね?」  静かに語る校長の言葉に、清香は俯いて黙ったままだった。膝に置かれた手の甲にぽつぽつ涙が落ちるだけだった。 十三 好みのタイプ  同じ頃、2年D組では、集めた段ボールをパネルに仕立てるため、生徒たちはカッターやガムテープを手に作業していた。  女子の一部は看板や内装の準備をしながら、ひっきりなしにおしゃべりしている。  話題は、今朝の緊急ホームルームで話が出たコピーのことだった。  読んだ読んでない、から始まり、読んでない人は読んだという人から内容を聞かされ、奇声をあげて騒いでいた。彼女たちは一応声をひそめる努力をしていたが、それはあまり効果がなかった。そして、女子の誰かが 「愛されるって、素敵」 と発言した瞬間。 「ぶはっ」 と浩太が噴き出した。  彼は背後の位置にいる女子たちのせわしない会話が耳に入って、段ボールをカッターで切りつけていたところ、こらえきれず笑ってしまったのだ。  浩太は作業するのを止めて、床に腰を下ろた。女子の言葉がツボに入ったようで、まだ笑っている。  そこへ陽介が通りかかったので、その笑いを含んだ声で 「よう。愛されて、いいなぁ」 と声をかけた。  陽介は手にガムテープをいくつか持っていた。必要な人に渡すためだった。  陽介は立ち止まり、ゆっくり啓太を見た。 「何が言いたい?」 と、陽介が冷ややかな目で浩太を見ると、浩太はひるんだが、生来の負けず嫌いが顔を出し 「普段偉そうにしてても、仲良しの前では実際どうなんだか」 と言い返した。と、その時。 「矢野っち、感じ悪いんだけどー」  傍で作業をしていた田中美緒が声を上げた。  思っていない方向から声が出て、浩太は驚いて美緒のほうを見た。  美緒はしゃがんだまま浩太を睨んでいる。美緒の周りの生徒も、浩太を冷ややかに見ている。女子だけでなく、男子もである。  教室が一瞬、静まり返った。  美緒は続けた。 「なんかさ、コソコソして感じ悪いんだよ。あんなクソな話、真に受けるほうがバカだっつうの」 と言い切った。さらに、 「女子がしゃべってんのは、あくまでも架空の設定の話だから。なにあんた、女子の妄想に乗っかってんの。それに、うちのクラスにコピー持ち込んだの、あんたでしょう?アレが好きならマジおかしいから」 と言った。  教室の空気は、美緒を支持する雰囲気だった。 「アレ、読んだの?」  立っていた陽介が美緒に訊くと、美緒は 「読んだよ」 と言ってから「矢野っちのじゃないけどね」と付け加えた。 「どう?」と陽介。 「超絶ファンタジーで、引くわ」 と美緒が吐き捨てるように言うと、周りの生徒がどっと笑った。  浩太はその場に居づらくなって、カッターを放り出して廊下に出て行った。  それを見送りながら、美緒は 「でさ、実際は二人はどんな子が好みなの?」  と、陽介と貞晴にストレートに訊いてきた。貞晴は少し離れたところで作業していたが、聞こえないふりをしていた。  陽介は、 「ボクは女の子ならだれでも」 とにっこりしながら言うので 「そういうこと言うから……」 と、美緒があきれた顔をした。そして、美緒が貞晴の方を向くとそれに同調してクラスメイトの視線が貞晴に集中した。それに気が付いた貞晴は、しどろもどろしながら「好みは、女の子です」と言ったので教室が沸いた。  美緒とその周りのクラスメイトは、陽介に「可愛い系と美人系とどっち?」とか「元気と大人しいのとどっち?」などと二択を迫り始め、「やっぱり陽介くんは……」と陽介の答えを待たずに、謎の推測を言い合い盛り上がっていた。  そのとき、30センチほど2年D組の出入り口が開き、そっと長い黒髪の頭が教室内を覗いた。楓だった。  楓に素早く気が付いた祐子が近づいて「どうしたの?」と声をかけた 。  楓は、笑顔を見せてから 「ちょっと」 と言って、祐子を廊下に引っ張りだした。 十四 準備要員 「実はね……、2年D組から、まだこれが出てなくて」 と言って、楓は一枚の紙を見せた。 「あー!」  祐子は思わず、大きい声を出して叫んだ。楓が見せたのは、文化祭前日に行われる学校全体の準備の参加者リストだった。  文化祭は生徒会主催なので、その生徒会の手足になってくれる人をすべてのクラスから2名選出しなければならない。その提出期限は一昨日だった。 「やだ、憲太郎くん、まだ出してなかったんだ」  祐子が独り言のように呟くと、その背後から 「どうしたの?」 と、貞晴が声をかけた。廊下に出た祐子を気にかけて、貞晴が様子を見にきたのだ。 「憲太郎くんが未提出のものがあって……でも、今いないんだよね」と祐子。  憲太郎は、一部の男子生徒を引き連れて、まだ足りない段ボールをもらいに出かけているところだった。  貞晴は祐子の横に回ると、「ごめんね」と言いながら楓の手の紙を受け取った。貞晴は、用紙の内容にざっと目を通すと、「急ぎ?」と楓を見た。  楓は、綺麗に弧を描く眉を下げて申し訳なさそうな表情をして、 「出来れば、今日中に……お願いしたいのだけど」 と言った。 「じゃあさ、僕の名前を書きなよ。遠藤さん」  貞晴は、用紙を祐子に渡しながら言った。 「いいの?」と祐子。 「いいって。どうせ力仕事だから男がいいでしょ。あと一人は……」  貞晴が教室の中を振り返ると、陽介はまだ美緒たちと何かしゃべっている。  黙々と作業をしている生徒のグループの中からこちらを見ている男子がいた。菊池海だった。 「海くん、ちょっと……」  貞晴が手招きをすると、海はさっと立ち上がって出入り口に来た。  廊下に出て楓を見つけると、「よう」と声をかけた。楓も、少し驚いた顔で「久しぶり」と返した。 「あれ、二人は知り合い?」 と祐子が海に訊くと、「ああ」とだけ短く答えた。  海は、自分を呼んだ貞晴に並んだ。小柄な海は、貞晴の顎に届くかどうかの背格好だった。 「海くんさ、生徒会の準備要員になってくれない?」 と貞晴が訊くと、海は表情を変えないまま「いいよ」とすんなり了解した。  海は、もう話は終わり?と言った表情をすると、片手を上げて自分の仕事に戻っていった。  海は、万事がすべてこんな調子だった。いつも短い言葉でしか語らない。しかし、嘘を言わず感情が揺れない安定感があるので、貞晴はひそかに信頼を寄せていた。 「じゃあ、名前書くねー」 と祐子は元気よく教室に戻り、自分の筆記用具を探している。  廊下に取り残された貞晴は、楓を見た。楓は少し下がってから 「ありがとう。助かった」 と言った。その柔らかいのに芯があるような声に、貞晴は初めて動揺を覚えて、「いや」と言いながら俯いた。そして、二人は沈黙した。 「ごめん、ごめん。お待たせ!」 と、祐子が廊下に飛び出してきて、沈黙は破られた。楓は、祐子から渡された用紙を受け取ると、貞晴に 「文化祭の前日、よろしくね」 と言って、軽やかに去っていった。 「可愛いよね、姫野楓ちゃん」 と祐子がその後ろ姿を見送りながら、誰ともなく言った。 貞晴は、内心(可愛い、とは違うような気がするけどな……)と思いながら、祐子の言葉に答えず、黙っていた。  そこへ、担任の溝口がやってきた。 「吉川くん。ちょっと話があるから、こちらに来てもらえる?」 と言って、貞晴の肩に手を置いて移動を促してきた。 「済んだらすぐ戻るから」 と祐子に声をかけると、溝口と連れ立って歩き始めた。 十五 個別面談  着いた先は、保健室の隣の小部屋だった。月に2回、心理カウンセラーが希望者と面談する場所だ。 「すまんな、ここしか空いてなくて」 と溝口が言うと、貞晴に席に座るよう言って、自分もドカッと座った。 「こういう場所に君を連れて来たのは、話を他の生徒に聞かれたくなくてな」 と、溝口は前置きすると、 「今、君と和田君と瀬川君を登場人物とする創作物語が校内の一部で読まれているんだが、知っているか?」 と訊いてきた。 「知っています。読んでいませんけど」 と貞晴が言うと、「内容は知っている?」と溝口が重ねて訊いてきたので 「人から聞いて、なんとなく知っています」 と答えた。溝口は、少し黙り込んでいたが、貞晴を見つめて言った。 「その内容について、どう思う?君の率直な気持ちを聞かせてほしい」  真剣な声だった。貞晴は、少し驚いた。溝口のことは、軽い人間だと思っていたのだ。 「最初は、まるであり得ない話なので、僕は気にならなかったですよ。どういう話を作ろうが、それは作る人の自由なので。でも、噂みたいになるのはね、ちょっと……」 「ちょっと?」 「僕らの関係は、僕らのものなんです。それについて、他人から詮索されたり、ありもしないことをあったかのように噂されるのは、良い気がしません」  貞晴が言葉を選んで答えると、溝口は「うんうん」と頷いた。 「では、コピーの内容自体に関して、何か辛く感じているとか悩んでいるとかは?」 「ないですね」 と貞晴は言い切った。 「君は、しっかりしているなぁ」  溝口は、感心して貞晴を見た。溝口は少し考えてから 「実は、必要ならその話を書いた子から謝罪させようかと思っていたが……」 と言った。「いらないですよ」と貞晴は言い切った。 「そっか。でも、その生徒の親御さんから吉川君のお宅に電話があると思うから」 「電話?」  貞晴がけげんな顔をすると、溝口は、 「その生徒さんの親御さんがどうしても直接謝罪したいそうだ。一応、私から吉川君の親御さんに電話連絡の了解は取るけどな」 と言った。 「……その生徒さんって?」と貞晴。 「ああ、E組の姫野清香さんだよ」 と、溝口が言った。 (姫野?)と貞晴は心の中で呟いた。先ほど聞いた名前と人物が脳内に蘇った。同じ苗字に不思議な気持ちになった。(関係があるのかな?)と考えている貞晴に、溝口が 「和田君にも確認を取りたいから呼んできてくれないかな。僕はここで待っているから」 と言ったので、貞晴は考えを止めてペコリと会釈をして退室した。  陽介もクラスの作業を少し中座しただけで、すぐに戻ってきた。  校門の施錠時間が迫ってきて、段ボール回収から戻ってきた憲太郎が全員に解散を伝えてから、今日の作業は終わりになった。  クラスメイトが教室の外へ散らばって行く。  陽介が、廊下で貞晴と二人になったタイミングで話かけてきた。 「さっきさ、溝口、なんて言ってた?」 「出回っているコピーのことについて、訊かれたよ。『どう思う?』って」と貞晴。 「ふうん。他には?」 「あ、話を書いた子の名前、教えてもらった。謝罪がどうのとか言っていたけど」 「姫野清香か」 「そうそう」  貞晴は興味なさそうに、前を向いたまま歩いている。 「知っているか?姫野清香は、生徒会の姫野楓の妹だって」 と、陽介が言うと、貞晴は「へぇ」と興味を示して陽介を見た。  貞晴が興味を示したことに興味を感じた陽介は「どうした?」と訊いた。 「今日、僕らの教室に生徒会の姫野さんが来てさ、文化祭のことで少し話をしたんだ」  貞晴が前を向いたので、陽介もまた肩を並べて言った。 「中学のとき、その姫野楓と海って付き合っていたらしいぞ」 「ええ!」  貞晴は立ち止まって陽介を見た。確かに海と楓は以前からの知り合いのようだったが、けして訳ありには見えなかった。といっても、他人に関心を持たない貞晴が、そこに何らかの名残を見出すのは難しいのだが。 「噂だけどな」と陽介。 「噂かぁ……」 と、貞晴が嫌そうに口にすると、陽介は追い打ちをかけるように「俺たちも付き合っているらしいよ。噂では」と言ってみた。 「勘弁してよ」  貞晴が見せたことのないゆがんだ顔をするので、陽介は可笑しくて仕方がなかった。その笑いは、貞晴の表情が滑稽だからではなく、貞晴の噂を嫌う善良さが嬉しいからだった。さまざまな出来事を、その事実だけを、悪意なく素直に受け取ることができる貞晴の聡明さが陽介は大好きだった。 十六 漫画研究部  その日の放課後、漫画研究部の部室には、活動を引退した3年生も含め部員が全員集められていた。ただ一人、清香を除いて。  その集団の前に顧問の小西が立っていた。 「だれも、心当たりはないのか?」  小西は何度目かの問いかけをしたが、部員たちは黙ったままだった。 「分かった。お前たちが何も言う気がないのは分かった。しかし、この件で漫画研究部が関与していると推測される以上、はっきりするまではこの部室の使用は禁止する」 と小西が言うと、部長の桃子が声を上げた。 「それじゃあ、文化祭の準備ができません」 「部員が私的に書いたものが、意図せず流出しているのです。この件についてはっきりさせることのほうが優先です」  小西がそう言い、それでも誰も言葉を発しないので、小西は部室から出て行ってしまった。  部員だけになって、急にざわめいた。皆、口々に言いたいことを言っている。その中で桃子は叫びに近い声を上げていた。 「どうするのよぉ。文化祭に間に合わないって」  泣きそうになっている桃子を、数人の女子生徒が慰めている。真紀も青い顔で桃子に寄り添っている。 「はっ。どうせ進路指導室しか使えねぇんだったら、頑張っても意味ないんじゃね?」  声を上げたのは悠斗だった。 「だれかさんが、自慢げに良い場所取れそうなんて言ってたくせにな」 と吐き出すように続けた。 「清香ちゃんは、自分からはそんなこと言っていないよ。みんなが勝手に期待していただけだから」  真紀がおずおずと口をはさんだが、悠斗は 「でも全然否定してなかったじゃねぇか。『ちょっと言ってみる』つって人に期待させたやがって」 と、強い口調で言い返した。その言葉に、部室はしんとしてしまった。 「ま、俺はどうでもいいや。進路指導室になった時点で俺はやる気ないから」  悠斗はそういうと、部室を出ていってしまった。  悠斗はイライラしながらスマホの画面を見ると、浩太からメッセージが来ていた。 「チッ」  悠斗は反射的に舌打ちをした。浩太は、コピー回収の日以来、不安を吐露するメッセージを繰り返し悠斗に送ってくる。 「知るかよ」 と呟くと悠斗はメッセージに返信せずスマホをポケットにしまった。  悠斗は、清香の書いたBL話が流出したことが、清香本人のせいではなく他人が関与していると学校側に思われていることに、苛立ちを覚えていた。この件が、100パーセント清香のせいであると学校に思わせられなかったことにも腹が立つし、浩太が気弱な態度をとるもの気に入らなかった。  そもそも、清香のBL話を面白がって大量にコピーしたのは浩太なのである。悠斗は、部室に置いてあったノートを見て、面白いページを一部コピーしただけだった。浩太からD組の話を聞いていた悠斗は、「面白いもんがある」程度の気持ちで浩太にそのコピーを見せただけなのだ。盛り上がったのは浩太のほうで、「もっと面白くしようぜ」と言って弟を使って、1年生の間に配って回ったのだ。浩太の弟、翔太は1年生として蒼山高校に在籍している。その張本人が、今更、気弱なことを言ってきているが、悠斗は、今更取り合う気になれなかった。  清香が学校に来なくなったのは、「ざまぁ」と思って少し気分が良かったが、やはり他人の書いたものを無断でコピーをしたことは心のどこかがチクチクと痛む。その痛みが、余計に苛立ちを増す。  悠斗は苛立ちから逃れるように、オンラインゲームのことを考え始めた。   十七 不登校  清香は、学校に行けなくなっていた。  楓からコピーの回収の件以来、学校中でコピーの作者が噂になっていると聞かされていたからだ。それでも楓は、 「清香の名前まではだれも噂していないから、学校においでよ」 と言ってくれているが、清香自身は到底行く気力などどこにもなかった。教師から状況を聞かれて、自分の物語をコピーしたのが同じ部活の誰かだろうとはっきり意識されたことで、部員たちへの不信感にさいなまれていた。併せて、この件で、清香が自室にこもって何を書いているのかが両親に知られてしまい、一方的な批判を受けてから、両親の無理解への怒りも抑えきれずにいた。マグマのような、熱く粘りのある苦しみが絶え間なく清香を襲った。胸を掻くような苦しみに耐えきれず、清香は部屋のものを手あたり次第投げたり、奇声を発したりするようになった。清香は大好きな小説も絵も描けなくなってしまっていた。  今回の清香の件では、姫野家で父親の弘明と母親の章子の間でも諍いが起こった。  弘明は子育てのことは章子に任せきりだったのを棚に上げて、清香が陰に籠って他者を貶めるような物を書いていたと大いに腹を立てた。そして、すべては章子のせいだと言わんばかりに章子と清香を批判して、清香の言葉を聞こうとしなかった。  章子も黙ってはいなかった。家では、子供のことを放ったらかしで自分のしたいことをしたいときにして過ごしている弘明の身勝手さとここぞとばかりに批判をして、自分への子育ての批判に全力で抗った。章子は母親として子供に良かれと思ってやってきたことを逐一並べ立てて、自分の正当性を主張した。そして自分は悪くない、悪いのは清香だと言い切った。  弘明も章子も自分の怒りを隠そうとせず、その怒りの矛先を平気で子供にまで向けて、怒鳴り合っていた。清香はその嵐の前で、おびえて泣くだけであった。  その様子を見守っていた楓は、あまりの不毛さにその場を立ち去りたかったが、小さく震える清香を放っておくこともできず、清香の隣で清香の背中を摩りながら楓も又、嵐の攻撃を受けるしかなかった。  以前にも増して自室にこもり、時々大きな物音をさせる清香のことを、楓は一人思い悩んでいた。  今回の件で、姫野家が機能不全の家庭であることが露呈してしまった。  楓は薄々気が付いていたが、ここまで嚙み合っていない家族だとは思っていなかった。弘明はあいかわらず、清香自身を見ようとせず全てを章子のせいにして自分は怒っているだけだった。章子も話を聞かない弘明よりも、清香をひたすら責めていた。「親がこんなに心配しているのに」という枕言葉をつけたうえで、清香がどれだけ手がかかる子だったかを並べ立てていた。  このままでは良くないことは分かっているが、楓も正直言って、何をどうしたらいいのか分からなかった。  学校の廊下を楓が元気無さそうに歩いているときだった。 「どうかしたの?」  隣に並んで声をかけてきたのは、海だった。    海とは、同じ小学校と中学校の出身だった。小学校の頃は、清香や他の子と一緒になってよく遊んだ記憶がある。中学校に入り小さなきっかけで疎遠になったが、同じ蒼山高校に進学した1年生のとき、再び関わるようになった。  1年生のとき、生徒会で大規模な署名活動があった。そのとき、一緒になって頑張った仲間の一人が海だった。学校の環境改善に取り組む署名活動で、当時は自然と意識が高く向上心に溢れた人間が集まっていた。容姿や成績で何かと持ち上げられ、求められるまま型にはまった良い子を演じ続けてきた楓にとって、素でいられる唯一の場所がその仲間たちだった。  そのとき頑張ったメンバーが今の生徒会の主要メンバーになっているが、生徒会長からの指名を断った海はいつしか生徒会から距離を置くようになった。それと歩を合わせるように楓と海は疎遠になっていたが、数カ月のブランクを感じさせない親しさを楓は感じた。  なにより同じ小中学校出身の海は、清香のことをよく知っていた。海になら相談できる、と楓は思った。自分と清香のことを知っていて、それでいて先入観で批判したり、楓の弱味を掴んだとばかりに話の内容を言いふらしたりしないと確信できた。 「あのね、聞いてもらいたいことがあるんだ……」  楓は、海の目を見つめて言った。 十八 生徒会室  放課後になって、2年D組では文化祭の準備のラストスパートに入ってクラス中が活気に満ちていた。  貞晴が数人の男子生徒と一緒に、ダンボールのパネルを安定的に立てる方法を試行錯誤しているとき、背中を誰かから突つかれた。振り向くと海が立っていた。その隣には陽介もいた。  海は、「付いてきて」とだけ言って貞晴と陽介を教室の外に連れ出した。  貞晴も陽介も海の意図が分からないまま、速足の海についていくとそこは生徒会室だった。 「おい。どういうことだ?」  海の無言に耐え切れなくなった陽介が立ち止まって言った。 「海君、ちゃんと説明してくれないと分からないよ」 と、貞晴も海を問い詰めるように言うと、 「ごめん。教室では話したくなくって」 と、海は前置きのように言うと、陽介と貞晴を見つめて言った。 「姫野楓。君らと話がしたいって。どうか聞いてやってほしい」  海はそういうと、生徒会室の扉を開けた。  その中は、無数のファイルが詰め込まれたスチール棚が幾列か並んだ横に空きスペースがあって、そのスペースに長机が細長いロの字形に並べられていた。長机の上は、さまざまなプラスチックボックスに紙が積まれていたり、あるいは机の上に乱雑に紙の束が積まれていたりして、とにかく紙にまみれている部屋だった。  長机では、生徒会のメンバーが一人紙に向かって作業しており、扉が開いた瞬間、顔を上げて「よう、海。久しぶり」と声をかけてきた。海が軽く手を上げて「よう」と応えると、長机の彼はすぐに自分の作業に没頭し始めた。 「こっち、こっち」 と棚と棚の間から楓が顔を出して、海たちを手招きした。  海たちがそちらの隙間に入ると椅子がいくつか並べてあった。  海は、陽介たちをその椅子に座らせると、軽く手を上げてその場を去っていった。 「海君、おいって」  呆気にとられた貞晴が体を後ろに捻って声を上げたときには、海は部屋から出ていくところだった。 「なんなんだ」 と貞晴が前を向くと、そろえた膝の上で両手を固く握ってかしこまっている楓がいた。 「こんなところに呼び出して、ごめんなさい。二人にどうしても相談というか、お願いしたいことがあって、海君に呼んできてもらったの」 「どうして、生徒会室なの?」  陽介が楓の緊張した声とは対照的なのんびりとした声で訊いた。 「ここなら、だれにも見られないから」 と楓が言うと、陽介は指でスチール棚の向こう側を指さした。「いいの?」 「佐々木君はいいの。さっき、全部話したから」  楓は、意を決したように陽介と貞晴を見つめて話出した。  話が一段落したとき、貞晴は陽介を見て訊いた。 「どうする?」  陽介は、険しい顔をして腕を組んでいる。 「学校に来れなくなった妹を俺たちが励ませって、めちゃくちゃ自分勝手なお願いじゃない?その妹さんの書いたもので、嫌な思いをした俺たちの気持ちはどうなるんだよ」  陽介は、低い声で呟くように言った。 「勝手なお願いだっていうのは、良く分かってる。だけど、このまま清香を放っておくことはできなくて……。何か行動できるとしたら、清香がまず二人に謝ることだと思ったから」 と、楓が苦しそうに言った。 「それが身勝手な考えなんじゃない?」  陽介は顔の片側だけを楓に向けるように、視線を投げかけた。 「清香には、私が絶対謝らせるから。他人に嫌な思いをさせたことは、清香が自分で受け止めないといけないことだと思うの。だからこそ、直接会って、清香に実際の和田君と吉川君の言葉をかけてほしいの」と楓。 「会えるの?」 「え?」  貞晴の言葉に、楓と陽介が会話を止めた。 「そもそも、妹さんが僕らと会えるのかなって。はっきり言って、妹さんは僕らと全く接点がなかったわけ。それなのに、急に『こんにちは』て言われても、困るんじゃない?」 と、貞晴が言うと 「清香ちゃんには、実際の僕らなんてどうでもいいってこと?」 と陽介が訊いた。貞晴は、 「僕らがどうでもいいというより、現実なんてどうでもいいのかもね……。だって文章で、『その日は太陽が西から昇りました。』って書いたら、物語はそれをベースに進行していくわけでしょ?現実の太陽の動きなんて、その創作内容の中ではなんの影響も与えないよ。」 と説明した。さらに 「妹さんの頭の中では、僕らの実態なんて知らないほうがずっと想像の幅が広がると思うんだよね。同級生に架空の行為をさせて楽しみたい気持ちがあるなら、実際の僕らとは、むしろ会いたくないんじゃない?」 と言った。 「この前、姫野さんのお母さんからウチに電話があってね。僕の母が出て、めちゃくちゃ謝られて困ったって言っていた。でもね、その中で、妹さんが謝りたいという話は全然出なかったよ。妹さんが、実際の僕らに関心があるとは思えない」  貞晴は楓を見た。楓は怯えたように貞晴を見つめた。貞晴は、楓の透き通るような薄茶の瞳を見ながら少し胸が痛んだ。 「姫野さんの、妹を心配する気持ちはよく分かるんだ。何かしなくちゃって思う気持ちも分かる。でも部屋に籠ってしまったのは、妹さんの意思でしょう?そんな妹さんに対して、今の僕が出来ることはない。関心のない人間から『学校においで』って言われて、学校に来られるとは思えない」  貞晴は、心を鬼にして、楓に本心を伝えた。冷たいようだが、下手に関わって問題をこじらせるのは好きではなかった。 十九 本音  楓は、俯いたまま黙っていた。  貞晴も、腕を組んだまま黙っていた。 「あのさ」  急に陽介が声を上げた。 「清香ちゃんが言うには、ノートを部室に忘れたときに誰かにコピーされたってことだろ?つまり、本来は人に見せるつもりがなかったものが他人の手で強制的に人の目に触れてしまったってことで。それって清香ちゃんも被害者じゃないの?」  楓と貞晴が陽介を見た。 「楓さんは賢いからさ、今の状況を『改善』しようとしていて。それで、対外的にも『まずは、謝って』とか考えちゃうよね。でも、清香ちゃんの本音のどうなんだろう?」 と、陽介は続けた。楓も貞晴も黙って陽介を見ている。 「楓さんは、部屋に閉じこもっている清香ちゃんの気持ちをよく聞いたほうがいいよ。清香ちゃんは、俺たちのことをエロく書いたことへの後悔よりも、それが外部に出たことの他人への不信感で、人間ってもんが怖くなっているんじゃね?親の理解が無いのも精神的にキツイだろうし……楓さんが唯一の理解者になってあげないと。楓さん自身は理解者がいて、支えられているんだろ?」  陽介は楓から視線を外して、スチール棚の向こう側で静かに作業している生徒会メンバーを覗いた。  その、少しおどけた仕草に楓はくすっと笑ってしまった。 「もうさ、俺ら、あのコピーのこと何とも思ってないから。な?」 と陽介が貞晴を向くと、貞晴も口を引きしめてから頷いた。そして楓の靴先を眺めていた。そうしなければ、貞晴は潤んだ目でほっとしたように笑った楓の顔から眼が離せなくなりそうだったからだ。  その頃、校長室の扉を開けたのは、小西に連れられた悠斗だった。  悠斗が部屋に入って目に入ったのは、浩太と翔太の兄弟だった。翔太は俯いていて顔が見えないが、浩太は扉が開いたのと同時にその方向に顔を向けたので、悠斗は浩太と目が合った。  浩太は、怯えた青い顔をしていた。浩太の顔を見たら、もう全部彼が話してしてまったことは明白だった。  悠斗は、椅子に座らされると、教師たちからいくつかの行為について、したのかしなかったのかの詰問を受けた。それは言わば、浩太と翔太から聞き取ったことの整合を取るための最終チェックであり、悠斗がどういう気持ちで漫画研究部に在籍して、どういう気持ちで同じ部員の活動を眺めていたかなど、お構いなしの形式的な問い掛けであった。  悠斗は、従順に、はい、はい、と詰問を肯定することで、教師たちに抵抗し、浩太たちを心の中で嘲笑った。浩太の青い顔がすべてを物語っている。清香のノートをコピーしただけでなく、コピーをばら撒くアイデアまでもが悠斗のせいになっていた。  悠斗がコピーを渡したのは事実だった。浩太からばら撒きのアイデアを聞いて、止めなかったのも事実だった。それが清香のせいになれば、さらに憂さが晴れて良いかと思ったのも事実だった。  綺麗な漫画も描けて小説も創れるという清香は、漫画研究部ではもてはやされる存在だった。悠斗は自分の細密な戦車の絵が、清香の絵ほどに部員たちの歓心を買わないことに不満を持っていた。だから、少し清香が困ればいいと思った。  多くの事実の元、いくら悠斗がその悪意が出来心程度と弁明しても、徒労に終わるかもしれない頑張りは空しいと思えた。  悠斗が漫画研究部に入ったのは、自分なりに細密に描いたキャラクターやメカのイラストを見てもらう場を求めていたからなのだが、入ってみるとそこは女子の偏ったお花畑ワールドに満ちていた。  男子であるというだけで副部長に推挙されたときは、心底、部員たちが嫌いになったが、固辞するほど悠斗に責任感は無く、仕事をする気も無いまま副部長を引き受け今に至っている。  そんな彼が、部室に忘れられた一冊のノートに記載された陽介たちの名前を見たとき、浩太から聞かされていた嫌いな奴の名前と一致していること気づいた。浩太に見せたら面白いだろうな、と軽い気持ちでコピーをしてそのまま浩太に見せたら浩太がいたずらを思い付き、それを眺めるのも面白そうだと思った。  悠斗は、浩太のことをノリが良くて、同じペースでゲームをプレイできる仲間だと思っていた。ネットで繋がってゲームをするのには丁度いい遊び相手だった。ゲーム内のチャットで、同じクラスの嫌いな奴ランキングを発表し合って、お互い憂さを晴らしていたところがあった。憂さ晴らしが共通の話題になるような相手である。そんな相手に裏切られても屁でもない、と悠斗は冷ややかに浩太との関係を心の中で終わらせた。 二十 文化祭前日  文化祭が翌日に控えたその日は、授業は午前中で終わり、午後は文化祭の準備に充てられる。  体育館の座席を並べる仕事を割り振られている貞晴は、海と連れ立って体育館に向かおうとしたときだった。 「吉川くん。ちょっと……」  声を掛けてきたのは祐子だった。祐子のポニーテールが今日も揺れている。  貞晴は海に「ちょっと待っていて」と声を掛けると、祐子に向き合った。 「あのね。生徒会の仕事が済んだら、写真部が展示に使う家庭科実習室に来てほしいんだけど……ちょっとお願いがあって」  祐子が上目使いに頼んできた。 「え?僕が行けばいいの?」 「うん。一人でお願い」  祐子が胸の前で手を組んでいる。貞晴は、廊下で待つ海を気にしながら 「……うん、分かった。いや、よく分からないけど、とりあえず用事が済んだら行くよ。ちょっと遅くなってもいい?」 と言うと、祐子は満面の笑みで頷いた。  貞晴は、祐子のあまりに眩しい笑顔と頼られたことの嬉しさで、顔がにやけてしまいそうだった。それを十代のプライドで隠し通し、「それじゃ後で」とその場を離れた。  (写真部の展示会場で何の用事だろう)と貞晴は考えたが、体育館に着いて山積みのパイプ椅子を前に、祐子のことを考えることは脇に置くことにした。  パイプ椅子を並べるのは、地味で作業量の多い仕事だった。土足でも体育館内に入れるように、まずはロール状のビニールシートを隙間なく敷き詰めるのだが、これに皺やヨレがなく敷くためには、腕力のある人間が引っ張ったり固定したりして作業を勧めなくてはいけない。貞晴が率先して、全体を指示しながら作業を進めていった。  その様子を舞台上から見ていたのが、生徒会で書記をしている佐々木彰人だった。翌日の舞台パフォーマンスの順番どおりに道具類が配置されるよう、舞台上の作業に立ち会っていた。  彰人がいる舞台上からは、寄せ集めの生徒たちを上手に使って、貞晴が手際よく作業を進めているのがよく分かった。  貞晴はそんな視線には気が付かず、敷き終えたシートの上にパイプ椅子を並べている。彰人からは、海の様子も見えた。海も彰人に気が付いていたが、気が付いていないフリをして黙々とパイプ椅子を運んでいた。  そこへ楓が駆け込んできた。急いでいるようで、海には気が付かず舞台方向へ走っていき、舞台袖の階段から舞台に駆け上がっていた。  そんな素早い楓の動きを見ていたのは、海と貞晴だった。  貞晴は椅子が等間隔に並ぶよう、舞台側から体育館のフロアを見ているところだった。  貞晴は最初、ずいぶんと慌てているな、という印象だった。楓は彰人と話がしたかったようで、舞台に駆け上がって彰人に近づこうとしていた。  舞台上では、翌日の演劇部の大道具の向きが違うことが分かって皆で方向転換をしているところだった。その作業に彰人を含む舞台上の人間は集中しており、楓が舞台に上がったことに気が付いている者はいなかった。 「あ!」  貞晴と海は同時に叫んだ。  楓が舞台に立った瞬間、楓の背中側から細長い舞台装置が勢いよく回ってきたのだった。  楓は、死角から飛び出してきた道具に押され、抵抗する間もなく舞台からよろけ落ちてしまった。  どさり、と鈍い音がしたのち、少しの間、体育館内が静かになったかと思うとわぁと大きなどよめきが起こった。  楓自身は何が起こったのか分からず、ただ目を瞑って身を固くしていた。 「大丈夫?」  楓の頭上から控えめな低い声が聞こえて、そっと目を開けるとそこには貞晴の顔があった。 「大丈夫か!」  舞台から彰人が飛び降りて近づいてきた。海も、手に抱えたパイプ椅子を床に投げて駆け寄ってきた。 「ご、ごめんなさい!」  楓は慌てて、尻で敷いていた貞晴から離れた。  貞晴は、ゆっくりと胡坐に座り直して、楓を見た。 「……大丈夫だった?」  貞晴が聞くと、楓は自分の体がどこも痛くないことに気が付き、ここでやっと舞台から落ちた自分を貞晴が受け止めてくれたことに気が付いた。 「私は大丈夫!ええっと、吉川君は?」 「僕?ああ、大丈夫だよ。ちょっとびっくりしたけど」 「ごめんなさい。どうしよう?本当に大丈夫?」  楓は、いつものクールビューティを投げうって、おどおどしながら貞晴に訊いた。  貞晴はゆっくり立ち上がると、体を捻ってから 「大丈夫だよ」 と言ってその場を離れた。 二十一 家庭科実習室  舞台前はいつの間にか、大勢の人だかりができていた。  その群れから離れるように貞晴は、海が放り投げたパイプ椅子に近づき手に取った。そのまま何事もなかったように、貞晴は椅子を並べ出したので、舞台前の人だかりもすぐにほどけてしまった。  貞晴は横目で舞台の方を見ると、楓は彰人と何か話をしている。すぐに話は終わったみたいで、楓はまた体育館から出ようとしたその時、貞晴に近づいてきて 「本当にありがとう。体に痛みが出たら、すぐに病院に行ってね」 とすまなそうに声を掛けて出て行った。  そこへ海が寄ってきた。 「本当に大丈夫なの?」 「ああ。鍛えているから」  貞晴が半分冗談交じりで言うと、 「俺も鍛えようかな……」 と海が真剣な顔で呟いた。  それから、何事も無かったように体育館では作業が進み、フロア全体に椅子が並べ終わったのは、午後4時を過ぎていた。  海が貞晴に教室に戻ろうと誘ってきたのを、貞晴は「ちょっと用事。後で教室に行くから」と断りを言って、専門教室のある学習棟に向かった。  向かう途中、体育館の作業で考えが中断していたが、貞晴は祐子に呼び出された理由を嫌でもあれこれ考えてしまうのだった。 (行ってみないと分かんないよな) と貞晴は、やたらと浮かんでくる想像を脇に置いてから家庭科実習室に入って行った。  普段広いはずの家庭科実習室は、各作業台に展示の写真パネルが壁のように立てられており、奥が見通せず狭く感じられた。  人の気配がしないので、貞晴は抑えた声で 「遠藤さん?」 と室内に声を掛けると、準備室の扉がそっと開いた。 「祐子はいないの」  準備室から出てきたのは、優衣だった。  いつにも増して毛先がカールしている優衣は、それを指で弄びながら準備室の扉の前に立っていた。 「そう。じゃ、教室行ってみるよ」  貞晴は嫌な予感がして、踵をかえそうとした。そのとき、 「待って。祐子に私がお願いしたの。吉川君をここに呼んでって」 と優衣は鋭く言ったので、貞晴はそこで立ち止まった。 「なんで?」  貞晴は、自分でも驚くほど冷たい声が出ていた。  それに優衣も気が付き、怯んでいる。 「なんで、風間さんが僕を呼ぶの?どうして、遠藤さんを使うの?」  貞晴の言葉は、まるで答えを期待しないぶっきら棒な言い方だった。 「祐子は、吉川君と友達だから。親友って言っていたから」  優衣はしどろもどろに答えると、貞晴は、ふんと鼻を鳴らして 「親友ね……」 と、低い声で言った。  少し間、沈黙が続いた。優衣が立ちすくんだまま何も言わないので、貞晴は 「用がないのなら、これで」 と言って、立ち去ろうとした。その瞬間、 「好きなの。ずっと、吉川君のこと好きだった。どうしても、告白したくって」 と、優衣は大きい声で言った。  貞晴の顔からは、いつもの穏やかな表情は消えて、硬直した表情に冷ややかな目の光が浮かんでいた。  優衣は慌てた。想像していた告白シーンと乖離した気まずい雰囲気があった。勇気を振り縛る瞬間のドキドキや、答えをもらうワクワクなど、どこにも無かった。  優衣が感じ取れるのは、貞晴の怒りだった。  優衣には、貞晴がなぜ怒っているのか分からなかった。  忙しいのに呼び出したことを怒っているのか、家庭科実習室に呼び出したのが気に入らなかったのか。優衣は焦る気持ちが募ってきたが、どうにかこの気まずい雰囲気を明るくしたいと思い、そのための一言を頭の中で探っていた。 「ごめんなさい。吉川君の都合を考えずに呼び出して」  優衣がかろうじて絞り出した言葉を、貞晴は遮った。 「好きじゃないから」 「え?」  呆気に取られている優衣に、貞晴は重ねて 「好きじゃないから。迷惑だから」 と言うと、優衣をその場に置いて、家庭科実習室から出て行ってしまった。  廊下から、タッタッタという貞晴の駆ける足音だけが聞こえてきた。 二十二 分からない二人  貞晴は、一刻も早く家庭科実習室から離れたかった。  祐子に頼られたことを喜んだ自分が愚かしかった。頭の片隅で、祐子から何か甘い言葉をかけてもらえるのではないかと期待した自分が哀れだった。  どんなにお人よしの貞晴であっても、今回の件は、祐子からの「仕打ち」としか思えなかった。貞晴の理性が、たぎる怒りを抑えようとするが抑えられそうもなかった。 (このまま教室に帰れないな)  貞晴は、歩みを緩めるとそのまま立ち止まった。  その時、貞晴の背後で階段を上がる足音がした。振り返ると、祐子がいた。  祐子は、教室に戻っていない貞晴と優衣のことを気にして様子を見にきたようだった。 「優衣は?」  祐子の高めの声が、今の貞晴には耳障りに聞こえた。  貞晴は、祐子の問い掛けに無視をして教室の方に駆けていった。  2年D組では、すでにダンボールのパネルが迷路状に組み上がっていた。  一部のクラスメイトは入ったり出たりして遊んだり、余力のある者はダンボールにペイントしたりして、楽しいリラックスムードで溢れていた。  貞晴が姿を現すと、陽介が目ざとく見つけて近づいてきた。 「よう、遅かったな」  陽介は声をかけてすぐに、貞晴の様子がおかしいことに気が付いた。表情が強張っていたのだ。 「どうした?」 「悪い。僕、もう帰るよ。明日の役割分担は……」 「明日の朝、コバケンが教えてくれると思うよ」と陽介。 「じゃあ、また明日」  貞晴は陽介と目を合わせないようにその横をすり抜けて、自分のカバンを掴むと振り返らず玄関に向かっていった。  下駄箱まで着いたところで、 「吉川君?」 と声をかけられた。その声を聞いて、貞晴は身を固くした。  祐子だった。  少し息が上がっていた。走って貞晴を追いかけてきたのだ。  貞晴が返事をせず、その場で立ち止まっていると、祐子が近づいてきた。 「教室に行ったら、もう帰ったって聞いたから……」  貞晴は身じろぎもせず、靴を持ったまま立っていた。 「あの……どうしたの?優衣、なにか怒らせるようなこと言ったのかな?」 「遠藤さん、家庭科実習室にいなかったよね」 「え?……うん」 「遠藤さんが、用事があるからって言うから僕は行ったんだよ」 「うん?」 「風間さんが待っているなら、僕は行かなかった」 「……」 「……僕と他の子の仲を取り持とうなんて、よく出来るよね」 「え?どういう……」  ここで初めて貞晴は祐子を見た。祐子は本当に分からないという顔をしていた。 「何をしても、僕が怒らないとでも思っている?」  祐子の表情を見て、貞晴は絶望的な気持ちで言葉を振り絞ると、踵を返してそのまま玄関から出た。  取り残された祐子は、貞晴を怒らせたのは優衣ではなく自分だったということは理解したが、貞晴がなぜそこまで怒るのかということまでの理解は及ばなかった。 (私は、友達の告白の機会を作っただけ。なぜ私がそこまで怒られるの?) (吉川君も、嫌なら断ればいいだけ。なぜそこまで怒るの?) (吉川君は私の一番仲良しの男子だから、だから私が優衣から頼まれた。頼まれたら断れるわけがない)  祐子は自分の言い訳を頭の中で繰り返した。言い訳だけが頭の中はぐるぐる回って、いくら考えても貞晴の怒りの本当の理由まで思いが至らなかった。  最終的には、 (吉川君も、あんなに怒らなくったっていいじゃない) という責任転嫁で思考が止まってしまうのだった。 二十三 文化祭開会  文化祭の当日、生徒会長の開会宣言が体育館で行われる前に、2年D組のクラスメイトは教室前の廊下で憲太郎が作ったシフト表を渡され、各自が自分の担当の時間に教室に帰ってくるように憲太郎と祐子から言い渡された。ダンボール迷路を設置した2年D組は、時間ごとに数人ずつ立ち合いの係やチケット販売の係が教室に待機するだけで、他の生徒は自由に他の展示やイベントを見て回れた。  体育館で生徒会長の開会宣言が出て、そこで全員解散になった。  秋の爽やかな快晴の下、学校全体が浮かれたように開放的になっていたが、貞晴は一人浮かない顔をしていた。  朝から何度も祐子に話しかけられそうになったが、そのたびにスッと距離を取って祐子を避けていた。 「なぁ、一緒に回ろうぜ」  ぼんやりとしていた貞晴の脇腹を、陽介が突いた。 「……ああ。いいよ」  貞晴は元気なく微笑んで、二人は校舎の中に入っていった。  その頃、萌は家庭科実習室に到着していた。  萌が部屋に入ったとき、部長が一人で写真パネルの位置を直していた。  部長が萌に気が付いて、 「あれ、風間さんと一緒じゃなかったの?」 と、作業しながら声をかけてきた。  優衣の姿はどこにもなかった。いや、萌はいないと分かっていた。  今朝、B組を覗いて優衣に声をかけたが、今まで見たことのないほど元気がなく、事情を聞いてもはっきりとしたことは教えてくれなかった。「写真部の当番の後、一緒に見て回ろうね」と約束していたにもかかわらず、体育館で解散の後、優衣は萌の前には姿を現さなかった。  写真部ではパネルにいたずらがされないように、常時2、3人の部員が家庭科実習室に滞在することにしていた。萌は仕方ないので自分だけでもと思い、一人で来たのだ。  部長はせかせかと部屋から出ていき、萌だけが取り残された。  萌は、出入り口のそばに置いてある写真解説のパンフレットの乱れを直しながら、2年D組での祐子と貞晴の様子を思い出していた。  優衣の落ち込みの原因を確かめようと祐子に訊いてみたものの、祐子も言いよどむばかりではっきり言わなかった。その後、祐子が話しかけようとするのを避ける貞晴を見て、貞晴絡みだろうと推測できた。  昨日の朝までは優衣はいつもと変わりはなかった。むしろいつもより溌剌としているくらいだったのに。 (昨日の午後、吉川君となにがあったのだろうか……)  萌は、いくつかの仮定を挙げて脳内で検証してみたが、しばらくして止めた。 (もう、優衣のことはいいんじゃない?)  萌は、手に持っていたパンフレットをその場に置いて、明るい窓際に移動した。窓の下では、生徒たちが自由に歩き回っている。中には催し物の衣装を着たまま、はしゃいだり写真を撮ったりしていた。  メイド服を着たり、お化けの仮装をしたり。それぞれが趣向を凝らした衣装は、拙い作りであったがどんな晴れ着よりも輝いて見えた。  そういえばメイドカフェという提案があったな、と萌は2学期最初のホームルームを思い出していた。2年D組は、女子が嫌がってカフェの案は却下されたのだった。カフェなんて、男子が働かないのが目に見えているというのが女子の大半の意見だった。(と言うのは1年生のとき、面倒な思いをした女子である。)萌も違う意味で否定的な意見だった。似合いもしないフリルのエプロンを身に着けるなんて、拷問に近かった。 (優衣なら似合いそう) と、気を抜くと優衣のことを考えている萌は、自分のことが可笑しくなってきた。  夏前からの流れで行くと、もう萌と優衣は前のようには付き合えない。ただ優衣を独占したいがために、100%優衣の意に沿うように振舞ってきたけれども、優衣が離れてしまったのだから萌が出来ることはなにも無かった。  2年B組の仲良しの女子に慰めてもらうことで、優衣が満足ならそれはそれで結構なことではないかと萌は思った。  明るくて、可愛くて、おしゃれが好きで、おしゃべりが大好きな優衣。優衣と一緒にいるときだけは、萌は冴えない眼鏡の自分が普通の高校生のように輝いているように思えた。ずっと優衣の隣で笑っていたかった。優衣にも笑っていてほしかった。  萌の優衣に対するその気持ちは、友情よりももっと鋭く、もっと熱いものだった。優衣と一緒の時間を持つことが、萌の最優先だった。  たった一人で良かった。たった一人が欲しかった。  自分を見て、自分を丸ごと理解してくれる人が欲しかった。自分がそういう存在になれば、相手も自分をそう見てくれると思っていた。  それが大きな思い違いであったことを、優衣に教えられた。  優衣は、にこやかに笑いながら、萌と距離を置いた。  何がいけなったのかと思ったり、こうすれば良かったのかもと悩んだりしたが、もう萌は考えることを手放すことにした。  もう十分だ、という結論は、萌の心をゆっくりと慰めた。   二十四 冊子の山  貞晴と陽介は、藤棚のベンチでフランクフルトをかじっていた。  1年生の教室を回っていたら、「見て、あの二人」とか「噂のカップル」とか、こそこそと小声が聞こえてくるので、目的のフランクフルトを手に入れると早々に学習棟から離れたのだった。 「ケチャップ、旨いな」 「……うん」 「マスタード、辛いな」 「……うん」 「どっちなんだよっ」  陽介が覇気の無い貞晴に絡んだ。 「……うん」 しかし貞晴の気の抜けた声を聞くと、陽介は、はぁと息を吐いて黙々とフランクフルトを平らげた。  陽介は全て飲み込んだ後、 「あのさ、この後、漫画研究部に行ってみようぜ」 「……なんで僕らが?」  貞晴がげんなりした顔で言うと、陽介は真剣な面持ちで言った。 「まぁ、正直言って嫌な思いもしたけどさ。俺、考え直したんだよね。あんな物語を書けるって、ある意味すごいなって」 「だからって……」 「まぁ聞けよ。昨日さ、海と話したんだよ」 「海君と?」 「サダが帰ってこない間にな」  陽介がそう言うと、貞晴の顔が一気に曇ったので陽介は慌てて話を続けた。 「海って、小学校も中学校も姫野姉妹と一緒だったんだって。でさ、海が言うのは、清香っていうのは、いつも姉と比べられていたらしいんだわ。勉強も運動も、姉のほうが出来るってことで。でも、妹は国語だけは姉に勝っていたらしい」 「へぇ」 「小学校の読書感想文でも表彰されたらしい」 「うん、それで?」 「海が力説するんだよ、あれが清香の取り柄なんだって」 「あれ?」 「そう。物語を書くってこと」 「……」 「お前はさ、コピーの内容にびっくりするくらい無関心だったろ?」 「まぁね」 「そういう態度って、お前の気持ちの中でコピーの存在自体を無かったことにしようとしてたんじゃね?それって清香っていう一人の人間さえも無かったことにしようとしてない?」 「そんなこと、無いって」  貞晴は、口では否定したが陽介の言いたいことは良く分かった。貞晴は、自分の理解が及ばないものを受け入れることが苦手であった。理解できないものとは関わりたくないのだが、今、よく分からないのに頭から離れない存在がいた。祐子だった。祐子が何を考えているのか、貞晴にはさっぱり分からなかった。分からないなら関わらない、ときっぱり割り切れないのが祐子の存在だった。  そんな貞晴の心情を知ってか知らずが、陽介は続けた。 「世の中にはさ、いろんなこと考えて、こっちが思ってもいない行動をする人間がいるわけよ。非現実的な作り話を書いている人間だって、現にいるわけで。で、そんな連中がどんなことしてんのか、見に行こうってことよ」  陽介は貞晴が食べ終わったのを見ると、ベンチから立って「さあ」と貞晴を促した。  学習棟から離れた教務棟には、ほとんど生徒の姿は見えなかった。 それでも、教務棟の一階入り口から廊下にわたって、「漫画研究部はこちら」といった看板が立ててあり、彼らの客寄せの努力の跡が見てとれた。  1階廊下の突き当りの階段を上がってすぐが、進路指導室で今年の文化祭での漫画研究部の会場だった。 「あれ?」  先行して歩いていた陽介が、階段を上り切ったところで立ち止まった。 「なに?」 と、貞晴が後ろから陽介の視線の先をのぞき込むとそこには、楓ともう一人が入口付近で部屋の中の様子を見ていた。  貞晴は、一瞬動作が止まってしまった。陽介も止まっている。  そして、二人で顔を見合わせた。  楓のそばにいたのは、お化けのマスクを被った誰か、だった。楓より少し低い背格好だったが、楓と似たすらりとした手足のせいで双子のように見えた。 「何、ここで固まってんだよ」  貞晴と陽介の背後から太い声がした。卓だった。  卓は貞晴たちを追い越して、2階の廊下に立った。後から、卓と同じ柔道部の雅之も上がってきた。 「なんだ、姫野のきょうだいじゃねぇか」  卓がズバッと言ったその声は、部屋のそばにいた二人組に聞こえて、お化けのマスクのほうが楓の後ろに隠れた。  貞晴と陽介は、また二人、顔を見合わせた。お互いに「やっぱり」という表情だった。  卓は楓たちにお構いなしで、部屋に入って行った。雅之も、見るからに付き合いで来た風情で、興味無さそうに部屋に入った。 二十五 お化けのマスク  貞晴と陽介も、卓の勢いに乗って雅之の後ろから部屋に入ると、部屋で待機していた部員たちがどよめいた。  お客が4人も同時に入ったことと、話題の3人が揃ったことで、特に1年生たちが浮足立っていた。  卓はそんなざわめきなどお構いなしで、長机の上に積んである冊子を手に取った。 「これ、姫野清香が書いたもの入ってる?」 と、机の奥で様子を見守っていた部員に声をかけた。1年生だったその部員は声が出ずに固まっていたので、離れたところにいた真紀が、 「学年ごとで編纂していて。そっちは1年生。2年生はこちらの水色の表紙のほう」 と助け船を出した。  卓はクルリと真紀のほうに向くと、その水色の冊子を1冊買った。  そこに陽介も寄っていき、「俺も一冊」といって500円硬貨を真紀に渡した。陽介が手に入れた冊子を軽く持ち上げて貞晴を見たので、ぶらぶらとあちこちの冊子を開いて見ていた貞晴も仕方なく1冊買った。  立て続けに3冊売れたので、部員たちから歓声が上がった。  卓は、用は済んだとばかりに部屋から出ようとしたそのとき、入口で中を覗き込むお化けのマスクと対面した。 「思ったよりすげえな、これ。しっかり『本』になっているじゃんか」  そうお化けに声をかけた。  お化けのマスクの中身は、卓が見抜いたとおり清香だった。楓から説得されたのもあるが、実際に漫画研究部がどういった物を仕上げたのか気になったのだ。  前日に、真紀から清香の作品もちゃんと組み入れたから、と連絡が入っていた。  それを聞いて、清香は本当に安堵した。自分の作品が冊子になったということではなく、漫画研究部としての作品が今日に間に合ったということが嬉しかった。一時、漫画研究部の部室が使えなくなったことに、清香は内心責任を感じていた。  真紀からの連絡に、どうしても文化祭に来たかったが勇気が出なかった。それを見かねた楓が仮装のアイデアを出してくれたので、清香も楓が傍にいることを条件に学校に来ることができた。  続けて雅之が部屋から出てきて、お化けと楓を見比べた。「俺は分からなかったよ」と軽く声をかけて、卓を追った。  その後を陽介、貞晴と部屋から出てきた。 「こんだけ書くって大変だろ?すげえよ」 と陽介がひとしきり感心したあと、「見ろよ」と清香に言った。 「あんたの、高校での存在の証明が山積みだ」  陽介はニカっと笑って、冊子を軽く持ち上げた。  陽介の後に続いた貞晴も、なぜか優しい気持ちになって、 「あとでゆっくり読ませてもらうよ」 と、お化けのマスクに声をかけた。  陽介と貞晴が部屋の入口から避けると、清香は部屋の中が見通せるようになった。机の上に積まれた冊子は、確かに自分の存在証明だった。自分だけでなく、部員全員の、一人ひとりが自分の時間を費やして紡いだ結晶だった。  それは拙く、言葉足らずで、思慮深くはないものかもしれないが、確かに自分をこの世に晒し、他者に自分を認めさせるものだった。そう思った瞬間、清香は自分の物語に目を通してくれた全ての人たちに深い感謝を感じた。 「清香、ちゃん?」  真紀が入口まで寄ってきて声をかけてきた。  清香は頬と顎にかゆみを感じ、マスクの上から顔をこすって、ああそういえばマスクしていたんだと気が付いた。 「きよか」 と楓が小さな声で声をかけた。  清香はゆっくりとマスクを取って、真紀と楓を見た。楓がハンカチを差し出してきた。清香は泣いていたのだった。 二十六 文化祭閉会  文化祭の閉会宣言が生徒会長によってなされると、蒼山高校の雰囲気はお祭りムードから一変、全校上げての大掃除大会に変貌していった。  2年D組は、膨大な量のダンボールを教室内にため込んでいたが、それを全員で運動場に出していった。他のクラスでも、今日のために作った様々な道具や装置がゴミとして排出されていった。  運動場には、紙、布、金属などそれぞれ分類されてどんどん積まれて山のようになっていた。不要な資材は、翌日に業者に引き取られる手筈になっている。  楓は不要品が積み上がるのを見て、嬉しく思う自分に気が付いた。 (これだけ私たちは頑張ったんだ) という証に見えたからだ。そのゴミの山は、蒼山高校のエネルギーの塊に見えた。  文化祭は、その年度の生徒会の最大で最後の仕事だった。文化祭が終わると、生徒会退任式が行われ、2週間後に生徒会長の選挙が行われる。  楓は、ダンボールの山を見つめて、それが明日になれば綺麗さっぱりなくなってしまう様子を思い浮かべた。  これが無くなれば、始まりだ。  楓は、生徒会長選への意欲が高まっていくのを感じた。  最大のライバルは、今期で書記を務めている佐々木彰人だった。例年、生徒会に入っていた2年生が立候補して生徒会長に選ばれている。今期の生徒会の2年生は、楓と彰人だけ。周囲も来期の生徒会長選は、楓と彰人の一騎打ちだと噂している。  出るからには勝ちたい、と楓は思っていたし、勝てると思っていた。そして来期に生徒会長になれれば、文化祭の運営においてもっと融通の利くことをやりたいと考えていた。  楓は、聡い人間だった。面倒なことは他の人にやってもらうよう振舞うことだってできる人間だった。しかし、それを良しとしなかった。一見面倒と思うことを引き受けてこそ、彼女が掴みたい、なにかに出会えるような気がしていた。  突風が吹いて、砂埃が舞った。目に砂が入らないように楓は、顔を腕で覆い、目を閉じで突風をやり過ごした。  辺りが落ち着いたとき、後ろに砂を踏む音が聞こえた。振り返ると、貞晴だった。  貞晴は、不要なダンボールを運ぶため運動場に出てきたところ、ダンボールの山を見上げる楓を見つけた。  その背筋の伸びた後ろ姿が、とても美しいと思った。  貞晴も突風に巻き込まれ一瞬目を閉じた。風が治まって目を開けてみると、突風によって楓の長い髪は乱れていたが、彼女の静謐さを微塵も崩していなかった。 「あ!お疲れさま。昨日はごめんなさい。どこも痛みは出ていない?」  貞晴を見て、楓は髪を撫でつけて、恥ずかしそうに俯いた。昨日の出来事では貞晴にとても感謝しているが、男性の体で受け止められた恥ずかしさで逃げ出したくなるのだった。その恥ずかしさは自分をとても無力なものにしてしまいそうで、楓は出来れば感じたくないと思う感情だった。 「……うん、大丈夫だよ。姫野さんこそ、大丈夫?」  貞晴は、楓の動揺に全く気が付かず、ダンボールの山に近づき抱えているものを足元に置いた。 「うん、大丈夫」と楓。 「そう、良かった」  貞晴は、そっけなくそう言うと「じゃあ」と言ってその場を立ち去ろうとして、なにかを思い出したように立ち止まった。 「妹さん、絵も上手いんだね」  振り返って楓に言った。  驚いたのは、楓だった。貞晴から妹に対して、肯定的な意見が聞けるとは思っていなかったからだ。 「……そうなの。清香は小さなころから絵をいつも描いていて。自分で物語もよく作って、描いた絵を使ってよく話してくれてた……」 「そう、いい思い出だね」  貞晴は親しみの込めた笑顔を楓に見せると、そのまま学習棟のほうへ歩いていった。  入れ替わりのように数人の生徒がゴミを持って、ダンボールの山に近づいてきた。顔見知りの生徒たちだったので、楓は軽く言葉を交わしながらも、貞晴の後ろ姿を見ていた。  貞晴が、清香の作品を手に取ってくれたことが嬉しかった。  ふと、以前、2年D組の廊下で文化祭の準備要員を手早く決めてくれたことを思い出した。あのとき、ただ「成績がとても良い人」としか認識してなかった貞晴という人の人格に初めて触れた気がしたのだ。  知り合えて、良かった。楓は、そう思いながら、貞晴の背中を見つめていた、 (了)
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