マッチ売りの少女

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※この作品は、アンデルセン著『マッチ売りの少女』のオマージュです。  冬の空。  凍てつくような白い星の瞬きを見上げると、あの日を思い出す。  年老いたおばあさんが亡くなった日。  何気なく見上げた夜空に一筋、流れ星が落ちた。それは暗い夜空を横切って、山の向こうへ消えていった。 「神様のもとへ魂がのぼっていくとき、星が流れるんだよ」  そう教えてくれたのは他でもない、おばあさんだった。  この世でただひとり、かわいがってくれたひと。愛してくれたひと。  あの日。  ベッドに横たわり、いつもと同じように優しげな微笑みを浮かべたまま、命を終えたおばあさんの穏やかな顔を、少女はいつまでもいつまでも見つめていた。  しわがれた手を握っていると永遠(とわ)に温もりを感じられるような気がして、少女はそのまま、夜を明かしたのだった。  目を覚ますと、汚れたガラス窓から白く朝日が差していた。  その光は残酷な祝福に満ちて、おばあさんの魂を天へと連れ去ってしまった。  あの日の絶望を、少女は決して忘れない。  死、それはいつも、心のすぐ隣にある。  少女の生まれ育った家はとても貧しかった。  華やぐ大通りの、すぐ裏手の薄暗い脇道の奥に、今にも壊れそうな貧しい家が立ち並ぶ一角がある。その小さな家々のうち、もっとも貧しい家で、少女は生まれた。  家の中は年中、ひどい有様だった。  父の怒号、母の金切り声、弟妹たちが泣き叫ぶ声で、いつも薄い壁がビリビリと震える。おまけに壁の割れ目から冷たい風が吹き込んで、隙間にボロ布や藁を詰めても、部屋が暖まることはなかった。  隙間風の入り込む寒い部屋で、父と母が殴り合いの喧嘩をする声に耳を塞ぎながら、子どもたちは身を縮めてじっとしていた。  みな、心までひどく冷え込んで、暖めるすべを知らないのだ。  7歳の誕生日を迎える少し前、少女ははじめて、マッチを売りに街へ出た。  それまでは、大通りの隅に一日中佇んで物乞いをしていたけれど、パンの一欠片すら、恵んでもらえることは珍しかった。  何も持たずに帰ると、父の怒りは頂点に達する。気絶するまで殴られ、そのまま朝を迎える。そしてまた街へ出る。  少女の日常はその繰り返しだった。  マッチ売りの仕事は、物乞いよりかはいくらかましだった。  安価なマッチだが、ときどき、買ってくれる人もいるからだ。  邪険にされることのほうが多いけれど、一日中黙ったまま地べたに座っているよりかは、ほんの少しでも小銭を稼げる。  本当に雀の涙ほどのお金でも、父に渡すことができれば殴られずにすむかもしれないという思いひとつで、少女は一生懸命にマッチを売り歩いた。  母の使い古したエプロンのポケットに、束にしたマッチをたくさんいれて、通りをゆっくりと歩く。  マッチの束をひとつ手に持ち、通りかかる人々に見せながら、一日のうち何十回も通りを行ったり来たりした。  ある風の強い日だった。歩いているうちに靴の底が抜け、ちぎれたボロ切れとなって風に飛ばされてしまった。裸足のまま追いかけるが、つまずき転んだひょうしに帽子も風にさらわれた。  靴も帽子も失って、その日は暗くなった裏通りをとぼとぼと家に帰った。帰る家はひとつしかないけれど、そこは一番、帰りたくない場所だ。  それでも少女は仕方なく家に戻り、腹を空かせたまま、父に見つからないよう体を小さく丸めながら眠りについた。    毎日のように、お願いする。  今日はどうか、殴られませんように。  おばあさんが亡くなってから、少女の心が救われることは一度もなかった。  抱きしめてくれる温かい腕も、涙をぬぐってくれる指先も、もうどこにもないのだ。  この不平等な世の中で、平等なものなどあるだろうか。  どんな生き様でも、死だけは等しく平等なのだと人はいう。冷たく固いベッドのうえか、温かく柔らかいベッドのうえかの違いだけで、死は、死なのだと。  本当にそうだろうか。  この世の何もかもすべてが、本当は平等などではなく、辛いこと、悲しいこと、絶望のすべてが、つむじ風のようにひと所に集まって吹き荒れている。  そのつむじ風の真ん中で、少女はくるくると風に踊らされているのだ。この踊りがいつになったら終わるのか、少女は知らない。  厚いコートを着込んだ人々が忙しく行き交う大通りを幾度となく歩いているうちに、空は薄く翳り、夕刻が近づいてきた。  いつもより多くの人が足早に通り過ぎていくのを見ながら、少女はひとりごちた。  あぁ、今日は一年のうちのいちばん最後の日、大晦日なんだ。  新しい年を迎えるための特別な一日を、誰もがみな、大切な人と過ごすのだろう。ストーブで暖まった部屋で待つ、家族のもとへ帰るのだろう。  ひとりぼっちの少女を気にかける者は、誰ひとりとしていなかった。貧しい子どもがお腹を空かせたまま大通りをうろつく姿は、街の人々にとっては見慣れた風景にすぎないのだ。  もうずいぶん前から雪が降り始め、れんがを敷き詰めた通りを白く覆ってしまっていた。  その上を、少女は裸足のあしで歩き続けた。少女の小さな足は、地面を踏む感覚もわからなくなるほどに冷たくなっていた。小さな貝殻のような爪が青紫色になってしまっている。  すっかり日が落ち、通りを歩く人の影も少なくなった。  通りに人がいなければ、当然、マッチを買ってもらえることもない。雪は降り続けている。  少女は諦めて、大通りを少し脇に入ったところにある、二軒の大きな家と家との壁の隙間にうずくまった。  屋根の下なら冷たい風と雪をしのげるだろうと思ったが、長く日陰だったこの場所は、雪が積もっていないというだけで寒さは少しも変わらなかった。  それどころか、冷たい地面に着いた尻から体の芯にまで冷たさが入り込んでくる。それでも仕方なく、少女はその場で膝を抱えた。裸足のあしを隠すようにスカートの中へ入れる。  じっと体を縮めていると、空腹を思い出した。昨日も一昨日も食べ物を口にしておらず、少しの濁った水で腹を満たしただけだった。  少女は小さな体を自ら抱きしめるように、腕をまわす。細い指が氷をまとった小枝のように硬く、言うことを聞かない。  ほんの少しでも暖まりたい。そんな思いで、少女はポケットの中のマッチの束から、一本だけ引き抜いた。  売り物を勝手に使ったと知られたら、また父に殴られるだろう。もうそれでもいい。一本だけ、一本だけなら。  凍えるもどかしい手つきで、マッチをつまんで、れんがの壁にこすりつける。たちまち小さな火が灯り、少女を照らした。  オレンジ色の炎が輝き、冷えた頬にわずかな暖かさを感じる。  小さなろうそくのようなそれに、少女はもう一方の手をかざした。炎に照らされた手のひらは、徐々に温もりを取り戻していく。まるでそこに大きなストーブがあるかのように、暖かい空気が少女の体を包み込んだ。  鉄のストーブの中で、勢いよく燃え上がる炎はどこまでも力強く、まるで夏の太陽のようだ。  もっと、もっと体を暖めたい、その一心で冷たい足を伸ばす。とたんに炎は燃え尽き、湯気をたてていた大きなストーブも、たちまち暗闇に掻き消えた。そしてまた、冷たく凍るような日の落ちた脇道に、少女はただ一人、黒焦げたマッチを一本持ってうずくまっているのだった。  もう一本、もう一度だけ、あの暖かいストーブの火にあたりたい。少女は願う気持ちで、迷いながらも一本マッチを手に取り、壁にこすった。  こすれる音とともに、再び小さな火が灯る。  すると不思議なことに、明るく照らされた壁が透明なベールのようになって消え、少女の顔のすぐそばに、明るい部屋の様子を映し出した。  部屋の中央には、白いテーブルクロスがかけられた大きな食卓があり、その上には艶やかに輝く高級そうな陶器の皿が並べられている。  そして、少女が生まれてから一度も見たことがないような大きなガチョウの丸焼きが、おいしそうな湯気をまとってピョンとテーブルからとび降りて、よたよたと少女のほうへ歩いてくるのだ。  ローストされたガチョウの、焦げた皮目の毛穴のひとつひとつが見えるほど近くにやってきたとき、ふっと灯りが消え、冷たく厚い壁が暗がりにたちはだかった。  あぁ、どうして、幸せは幻のようにすぐに消えてしまうのだろう。  少女は新しいマッチを取り出し、今度は迷うことなく壁にこすりつけた。  すると、見上げるほどの大きなクリスマスツリーが、いくつものろうそくの光を灯しながら少女の目の前に現れた。  ついこの前のクリスマスに、立派な商家の窓越しに見えたものよりも何倍も大きく、美しく飾りたてられたツリーに、少女の胸はときめく。  こんなにも美しいものを見たことはなかった。  暖かいストーブ、おいしそうなご馳走に、立派に輝くクリスマスツリー。そしてそのツリーの向こう側には、色とりどりのたくさんの絵画が、額縁に入れられ、少女を見下ろしていた。  世の中には、こんなに素晴らしい日常を過ごしている人たちがいる。  驚き、胸を詰まらせた、そのとき、マッチの火が消えた。  大きなクリスマスツリーは夢のように消え失せ、残ったろうそくの光が散り散りに空へのぼって、白く瞬く星になった。  その中のひとつが、息をつく()に夜空を斜めに横切って、長い尾を引いて消えていった。 「たった今、誰かが死んだんだ」  流れ星が落ちるとき、それは神様のもとへ魂が召されるときなのだと、少女はおばあさんから教えられていた。  命の儚さ、あっけなさ、手のひらからこぼれ落ちるように失われる命は、満天に輝くたくさんの星々を震わせる。逃れられない宿命を待つように。  おばあさんが亡くなったあの夜の寂しさ、悲しみが、少女の胸いっぱいに広がった。  悲しみをかき消したくて、少女はもう一本、マッチを壁にこすりつけた。  わずかな希望をともなって、明るい火が灯る。  あたりが一瞬で明るく輝き、その光の真ん中に、優しい微笑みをたたえ、少女を穏やかに見つめるおばあさんの姿が浮かび上がった。  会いたかった懐かしいその姿に、少女は思わず叫んでいた。 「おばあさん!」少女は手を伸ばす。 「待って!消えないで!」  慌ててポケットを探り、マッチの束を手のひらで掴んで取り出す。  そして、束にしたままのマッチを一気に壁にこすりつけた。  炎のかたまりがあたりを真昼のように明るく照らし、おばあさんの姿が、より大きく浮かび上がった。少女はおばあさんの足元へすがった。 「お願い、わたしもおばあさんのところへ連れて行って!マッチの炎が消えてしまう前に」  寒さもひもじさも、痛みもまるでない世界へ。  そのとき、真っ白な明るい光が少女の体を包みこんだ。  ふわりと体が浮き上がり、気がつくと少女は優しいおばあさんの腕に抱きしめられていた。少女の口元にようやく、安堵の笑みがこぼれる。  やっと、会えた。また一緒にいられる。ずっとずっと一緒に。  そのまま二人は、高く高く、天へのぼって白い星の隙間ににじんで、夜空に溶けていった。  新しい年を迎えたその最初の朝日は、雪の残る街を等しく照らす。  壁の隙間で冷たくなった少女の亡骸も、白く淡い光に照らされていた。  燃え尽きたマッチの束を持ったままうずくまる少女の魂は、もうそこにはない。大好きなおばあさんと一緒に、神様のもとへ召されたのだ。  少女がどのように生き、最期にどのような美しいものを見たのか、この街の誰も知ることはない。 (了) ※参考文献 『マッチ売りの少女ーアンデルセン童話集Ⅲー』 訳者 矢崎源九郎 新潮文庫
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