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 自分の卑小さを思い知ったことがある。  遠い昔、まだ小学校5年生だったころのことだ。当時の私達はそれなりに成長したとはいえ、当然まだまだ自分のことも、十分にできるような年齢ではない。だがそれにしたって、私が所属していたクラスの素行は、同学年の他のクラスのそれと比較した時あまりにもひどすぎた。特に忘れ物の量は群を抜いていた。  図工がある時にスティック糊を忘れるのはまだ序の口。筆箱を忘れることも頻繁にある。赤ペンがない。消しゴムがない。余所のクラスでは、職員室に行って担任教師に借りるというようなこともやっていたが、我がクラスの担任、宮崎は、私たちの素行の悪さを前にそんな甘えを途中から許さなくなった。  忘れないように手にメモを取るよう、という全体向けの叱責が3回を超えたあたりで、宮崎は、私たちのことを口にこそ出さず、雰囲気だけではあったがバカにし始めた。どうせ、お前らだからな、そんな考えが透けて見えた。  そのまま諦めてくれるだけならまだよかったのだが、何がトリガーになったのか、宮崎はある時、帰りの会で忘れ物防止のために新制度を導入する、と発表した。 「『正』制度。忘れ物するたびに、その日の日直が前の小黒板で、各々の名前の横に画数を1本ずつ足していけ」 「5回忘れ物したら、正の字が完成する。そうなったら、その週の最後に全員の前で再発防止の案を発表してもらうからな」  陰湿なやり方だと何人かは思ったことだろう。だが、同時に増え続ける忘れ物について、このままでは良くない、という考えが、少なくとも私の中にはあったので、宮崎の作戦を当時の私は歓迎した。  事実、クラス内の忘れ物はその後しばらく続いたが、金曜日の帰りの会で強制的に起立させられ、忘れ物を今後どうやって防止するか、自分なりのアイディアを披露する者が2,3名現れると、徐々に皆が気を付けるようになった。全員、衆目の前で恥をかくことは避けたかった。  さて、私が日直になったある日のこと。その日、私はほんの少しだけ、浮ついていた。日直の職務を果たすべし、と義務感に駆られていたと言ってもいいだろう。当時、警察官になるのが夢だった私にとって、悪いことをした人間を裁くのは自分の夢を叶える一歩のように感じられた。  幸か不幸か、午前中の授業では誰も何も忘れ物をせず、私がチョークで1本を書き足す機会はなかった。まあ、ないのに越したことはない。どこか冷めたような気持ちになりながら、私はクラスメイトと一緒にドッジボールをするために校庭に出た。  速攻でボールを当てられ、内野から外野に回され、その後一度も内野に回ることができなかった私はほんの少し苛ついていた。下駄箱で上履きに履き替え、やや刺々しいオーラを周りに振りまきながら、5年生の階を歩いていると、クラスメイトの石井の姿が目に入った。  そう言えば石井はドッジボールに来ていなかった、とやや怪訝に思っていると、石井の手に握られている教科書に、違うクラスの男子の名前が書かれていることに気づく。 「石井。それ」 「ああ、昼休みの間に借りといたんだよ。見逃してくれ」  石井の見逃してくれ、が正の字に関わるものだとは、すぐに分かった。  宮崎は、忘れてきたものを他人に借りるのも駄目だ、と予めルールを決めていた。たとえ相手が快く貸してくれるように見えている場合でも、基本的には迷惑だ、というのがその論拠だ。  というよりも、そもそも忘れ物を防ぐための施策なので、家から自分のものを持ってくるのを忘れた場合は、その時点でアウト、というのが基本になっているのだ。 「いや、見逃さない。ルールだし」 「えー、そんなー」  石井の語尾を伸ばした言い方にややイラっとする。私は当時からやや人の好き嫌いをする方ではあったが、石井は特に嫌いだった。何しろ、不真面目だ。  『正』制度が施行されても石井は平然と忘れ物をし続けていて、2週に1回は全員の前で立たされていた。そして石井は大して効果が上がりそうもない対策を、悪びれもせず述べるのだ。宮崎も手を焼いているようで、この頃には既に諦めているような気配さえ漂わせていた。 「俺、あと1回でまた立たされんだよー。うんざりだわー」 「仕方ないだろ。自分が忘れたんだし。書くからな」 「頼む。泣きの1回」  私はふざけた風に要求してくる石井に、更に強い不快感を抱きながら、教室に入り小黒板の前に立つ。片手で持ち運びできるぐらいのサイズの小黒板上には、既に石井の言っていた通り、彼の名前の横に4画目まで書かれている正の字があった。  私はそこに1本書き足して、正の字を完成させる。 「消すなよ」  そう告げて、私は石井から離れる。その様子を見ていたクラスメイトは、また石井が忘れ物したのか、と笑っている。石井もやっちまったぜ、みたいな苦笑いをしている。その様子を見ると、何と言うか自分のやったことが全くの無駄ではないか、という気がしてきたが、まあ、彼にとって僅かながらも痛手であることを信じたい。  あわよくば今度こそ石井なりの忘れ物対策を編み出せるかもしれない。私はそんな都合のいいことを思っていた。  自分の行ったことが、何か大きくてすばらしい結果をもたらすのではないか。そんな子供じみた、都合のいい思考が、私をこの上なく驕り昂らせていた。  それから数日が経った。  その日の朝、私は前日にジュースを飲みすぎてしまったため、お腹を壊してしまっていた。母が私の体調を心配していたが、思春期に入りかけていた私は、そんな母の心配を微妙に鬱陶しいと思ってしまい、ひとしきり腹痛が収まると飛び出すように家を出た。  自分の失敗に気づいたのは、給食の時間だ。  6時間目の図工の時間に色鉛筆を使うことに気づいた時、ふっと不安が生まれた。その不安は最初こそ小さかったが、段々と大きくなり、給食を食べ終わるとすぐに私は自分のランドセルを開けた。ない。胃の中にざっと氷をぶち込まれたかのような感触に襲われる。色鉛筆を忘れてきてしまっていた。  前日に妹が塗り絵をするのに貸してしまっていたことを、今更ながらに思い出す。自分がとてつもない危機の中にいる気がした。いや、1回、2回の忘れ物ならどうということはない。小黒板に書かれた正の字は、金曜日になるとリセットされて、また1からのやり直しとなるからだ。  だが、当時の私にとって、自分の名前の横に1本でも線を増やされるのは、それだけでとてつもない苦痛と言ってよかった。  皆が食べ終わってグラウンドへ行く中、私は自席でひたすら頭を回転させる。家に帰るには昼休みは短すぎる。他のクラスの誰かに借りる? いや、それも駄目だ。既に他のクラスでも5年2組の施策の内容については広まっていて、下手に借りに行くとその情報が、本日の日直の石井の耳に届くかもしれない。そうなったらおしまいだ。  考え過ぎて、頭が痛くなった。自分の愚かさが悔しくて、涙が出そうになった。その時の焦る気持ちは、今でも鮮明に覚えている。  ポケットの中に入れていた財布を取り出す。マジックテープでくっついている接合部を、出来る限り音を立てずに私は開く。財布の中には、1000円札が2枚入っていた。  買える。そう判断して、なるべく平静な風を装いながら、椅子から立ち上がる。誰も私の方なんて見ていない。頭の中がパニック過ぎて、そのことが信じられないような気さえする。  教室を出て、階段を降り、昇降口で下履きに履き替え、校舎の外に出る。グラウンドでは歓声をあげながら、沢山の生徒が騒いでいる。本来ならば、私もその中に混じっていたはずなのだが、この日だけはそうもいかなかった。恥ずかしい思いをするぐらいなら、遊びなんていくらでも犠牲にできた。  なるべく目立たないように歩きながら、素早く校門へとつながる道を左に曲がる。ここまで来れば、グラウンドからは死角だ。クラスメイトに見つかっていないことを祈りながら、私は校門へと早足で歩いていった。  今思い返しても商売上手としか言えない、その文具店は校門を出たところ、目の前に存在しており、私は幾分かの緊張を覚えながら校門を出て、店の中に入る。いらっしゃい、という店員の声。この店員が宮崎と通じているのではないか、そうなったら終わりだ、という、何とも子供じみた不安が私の中で生まれた。  だが、最早そんなありもしない可能性は無視するべきだった。このまま何も買わずに校舎に戻ることはありえない。焦りと危機感で不安を無理やりねじ伏せる。額に汗を浮かばせながら、1000円札2枚以内で買える色鉛筆を選び取り、レジに持っていく。 「1600円です」  紙幣を2枚出し、お釣りを400円受け取る。校門に入る前に、その色鉛筆は服の中に隠すことに決めた。  店員に怪しまれていないだろうか、と若干びくびくしながら店の外に出た時、私は自分の愚かさを呪った。もっと外の様子を窺うべきだったのだ。石井が校門のすぐ近くにいた。  その日からしばらく、私は彼が意趣返しとして、私のあらがないか跡をつけて監視していたのだ、と被害妄想を爆発させることがあったが、今思うとそんなことはあり得ない。石井もこちらを見て少し驚いているようだったし、大体彼は植物委員で、校門近くの花壇を担当していて、何なら手にはジョウロまで持っていたのだ。  言い訳だっていくらでもできた。家で無くしたから今日買う予定だったとか、妹に色鉛筆をあげてしまったとかでもいい。だが、当時の私にそんな咄嗟の言い訳はできず、心の中にあるのは自分の手落ちを見つけられたという絶望感だけ。私はまだ色鉛筆を服の中に隠していなかったのだ!  石井はしばらく私の方を無表情で見つめていた。普段は明るい石井なので、その無表情が何を意味するのか、私は心底怖かった。石井は自分がジョウロを使って何をしなければいけないのか思い出したらしく、花壇の方に向かう。私は、今更もう遅いのだが色鉛筆を服の中に仕舞って、走って自分の教室まで戻った。  私はその後しばらく、教室内に設置された本棚から、児童書を抜き取って読んだり、窓からグラウンドを眺めたりして過ごした。石井が戻ってくるのが怖かった。全て筒抜けであるような気がした。昔から私は臆病者で、でもそのことを強く意識したのは、この時が初めてだったのではないかと思う。  グラウンドで遊んでいた者達が戻ってくる。石井も途中から遊びの中に加わったのか、同じぐらいのタイミングで教室に入る。私と石井の目が合う。石井は教室の前の方の扉から入ってきていて、そのまま、小黒板の方へと向かう。私は、最早腹を括るしかないと半ば観念していた。  しかし石井は小黒板の前で一度立ち止まり、チョークを持つために手を動かしまではしたのだが、そこでもう一度私の顔を見て、そのまま小黒板から離れていった。  見逃してくれた。そう思った。  石井が離れて行ってからしばらくして、私は大きくため息をつく。体中が緊張していたので、深呼吸をする。本来ただ座っているだけなら、力を入れなくてもよいところから、力が抜けていくのが分かる。 「え、お前、また教科書、忘れたんか?」  後ろからそんな声がする。忘れたのは色鉛筆で、私は滅多に忘れ物をしないから「また」という言葉もおかしいのだが、一瞬どきりとさせられる。振り向くと石井がへらへらと笑っていて、それをからかいの表情で見ている学級委員が目に入った。 「ああ、だから5時間目、ちょっと席近づけて見せてくれないか?」 「別にいいけど、小黒板には書けよ」 「そんなー」  細部こそ違えど、いつか私と石井でやったようなやり取りだった。いや、ルールだから、と学級委員は私のように譲らなくて、小黒板の方に歩いていき、線を1本書き足した。 「ま、忘れ物しないように気を付けな」  そう石井に告げる学級委員の表情は、私の心を鋭利な刃物さながらの切れ味で傷つける。笑顔だった。それもかなりいやらしい感じの笑顔だった。人を見下すとき特有のもの。石井をまるで同等とも思っていないような表情。  落ち着け、シチュエーションが似ているだけだと、その時の私は自分に言い聞かせた。でも、そんなものは何の役にも立たなかった。今の学級委員は、かつての私だった。あの時、私は確かに笑っていたのだ。急激に恥の観念が産まれてくる。石井の優しさに救われて、冷や汗すら流していたばかりなので、尚更のことであった。    今でも、自分への低評価については怖い。  言い訳もできないぐらいに、自分に非があるような失敗をした時、私は必ず、彼のことを思い出す。そしてその度にいつもは都合よく忘れている、高すぎる自己評価に気づかされるのだ。  6年生の時に石井が転校するまで、へらへらとした笑みは決して教室からなくならなかった。細かい失敗を最後まで繰り返して、バカにされ続けていた彼だが、私1人だけは、今でもバカにすることができなかった。
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