Prologue.

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「あらあら、あなた! また知らない車が入っていくわ!」 「ホームパーティーでもするんだろう。ノエル(Noël)だからな」  双眼鏡を片手に窓に張り付いた妻の後ろ姿を、夫は呆れたように見遣った。  手つかずの雑木林を切り開いたその場所に家が建ったのは、ほんの数か月前。木々に囲まれ、一般道から建物を確認することは難しい。その家へと続く、舗装された私道は狭く、対向車が来ればどちらかが私道の入口まで戻らなければ擦れ違う事も出来ない。  そんな私道の入口から、四百メートルほど離れた場所に住む妻にとって、新しい住人は格好の暇潰しなのだろう。聞けば、一か月ほど前に越してきた住人はフランス人と東洋人の男が二人なのだという。妻の悪癖(あくへき)に苦言を呈したところで素直に聞き入れるような性格をしていない事は、数十年連れ添った夫には分かりきっていた。 「ねえあなた! 今度はメルセデスよ! わたしもあんな車に乗ってみたいわ」 「そうかい、せっかくだから一台譲ってくれと言いに行ってみたらどうだ。お前の言うハンサムなご近所さんと仲良くなれるかもしれないぞ」  明らかに気のない口調で告げる夫を振り返った妻は、つまらなそうに溜息を吐きながら双眼鏡を片手に居間へと戻った。 「監視はもういいのか」 「だって、こう暗くちゃ顔も見えやしないじゃない」  皮肉を込めたつもりの夫の言葉も、残念ながら妻には通用しなかった。 「メルセデスに日本車、よく分からないけれど大きな……あれはアメリカの古い車ね。本当に、いったい何をしてる人たちなのかしら」 「さあな」 「先週なんて白いオープンカーが入っていったのよ!?」 「日本車もオープンカーも、ハンサムな住人の車だって言ってなかったか」 「違うのよ、違う車なの! だいたいハンサムなのは片方だけ! 東洋人は、なんていうか怖いのよね! 顔に傷があって!」 「ああそうかい」  私道の入口しか見えないと、見当違いな文句を口にする妻を(いさ)める気力は、夫にはなかった。せめてご近所に妙な噂話を吹聴(ふいちょう)して回らない事を願うばかりである。 「それに、どうも住んでる様子もないのよね。買い物に出かけてる様子もないし」 「別荘なんじゃないか?」 「こんな管理人もいない場所に? 不用心じゃない」  人様の行いを堂々と覗き見ておきながら、まともな事を口走る妻を夫は新聞から上げた視線でまじまじと見た。 「管理人よりも、いつ警官がうちのドアをノックするかと思うと私は気が気じゃないがね」  視線を落としながら呟かれた夫の言葉は、読みかけの夕刊に(むな)しくはじき返された。
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