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【1】
改札を抜けて、東京方面のホームへと向かった。
上下ともに誰も乗っていないエスカレーターは、この町がいかに田舎かを物語っているようだ。
「そのケーキ、新幹線の中で壊れたりしないよね?」
時岡綾月は兄の背中にたずねた。
「大丈夫。蓋を開けて中から取り出さない限り、その心配はない」
兄の聡志はエスカレーターの上方を見たまま答えた。ケーキの入った袋を割れ物を運ぶようにしっかりと抱いている。
ホームに着いた。16号車の前へと歩いた。一月の冷たい風が耳のはしを凍らせるように吹いている。
正月の余韻はすでに気配を消し、目に映るすべてのものが日常に戻っていた。
だが今日は、時岡兄妹の人生の中で最も特別な一日になる。
綾月の心はすで昂っていた。
初めて東京に行くのだ。
それだけではない。
10年以上も会いたくてたまらなかった、人気作家の土岐マリエに会えるのだ。
彼女の出版記念のサイン会が東京の渋谷で開催される。
出版社が運営するSNSで募集されていて、抽選で100名、それに見事当選したのだった。
列車が到着し、ドアが開く。
中へ入る瞬間、綾月は振り返った。ホームの向こうには故郷の純朴な風景が続いている。
この町には帰ってこられるのだろうか。ふと、そんなことを考えていた。
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