第1話 アンナとヨシオ

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     6  夕方の国道463号線は、きまって上り車線が渋滞する。  ヨシオは、ぼんやりと自宅の賃貸マンションの方を見た。『タイガー』から、徒歩で5分とかからない距離だ。 (2連続ラス……僕のせいで、このままではアンナさんが……) 「ふぅ~、ヨシオも深呼吸して、体伸ばせよ」  両手を組んで上に伸ばし、アンナが言った。とりあえずヨシオも体を伸ばし、深呼吸した。 「よし。手ぇ出せ、ヨシオ」  ヨシオの手を取り、アンナは自分の胸に当てた。 「え、えっ?」 「どうだ、やわらかいか?」  アンナの体温が、鼓動が、胸から手を通して伝わってくる。ヨシオは赤面し、アンナを直視できなかった。アンナの倍の速度で、ヨシオの心臓は鳴っている。 「体が硬いと、頭まで固まっちまうぞ。リラックス、リラックス。頭も体もやわらかくな。ドントシンクフィール。考えるな、感じろ」 「あ、はい……」 (この状況でリラックスなんて……感じろと言われても……。あったかくて、やわらかい……。いや、そういうことじゃないよな……) 「よし! じゃ、手ぇ離せ。別のとこが硬くなっちまうといけねえ」 「ちょ、な、なに言ってるんですか!」  アンナがすでに自分の手を離していたことに気づき、ヨシオは慌ててアンナの胸から手を離した。 「アハハッ。さ、戻ろうぜ!」  アンナが外階段を登っていく。これが作戦会議なのか、という疑問はあったが、すぐに打ち消した。考えても仕方がない。  アンナの後姿を見つめながら、ヨシオはもう一度深呼吸した。  🀄  ここ数年で、やたら痰が出るようになった。夕方は特にひどい。それでも、煙草をやめるつもりはない。早田は、痰を吐いたティッシュをゴミ箱に捨てた。  ドアが開き、アンナとヨシオが戻ってきた。心なしか、ヨシオの血色がいい気がする。ラジオ体操でもしてきたのか。 「待たせたな。続きといこうぜ」 「ハハッ、てっきり逃げちまったのかと思ったぜ」  後藤は、すでに勝った気でいるようだ。麻雀の『流れ』については賛否両論あるが、潮目が変わったと、早田は確信した。  場替えをし、三戦目が開始された。起家はヨシオで、後藤、榎本、アンナという座順だ。  対局開始後、早田はヨシオから肩の力みが抜けていることに気づいた。それでいて、背すじはピシッと伸びている。 (手も入ってるな。親満は確実だ)  6巡目、ヨシオが引いた牌は六筒(ローピン)だ。390d931e-f333-484b-93c8-73cfead9a902 (すさまじいツモだな。受け入れ枚数はドラの三萬(サンマン)切りが一番広い。11種ある有効牌のどれを引いてもリャンメン待ちに取れる。すでに九萬(キューマン)は場に3枚見えているが、三萬切りの裏目は三萬引きだけだ……)  ヨシオが選んだのは、七萬(チーマン)だった。 (七萬か。タンヤオが確定し、三萬の縦引きにも対応できるが……)  一巡して、ヨシオがツモってきた牌は、三萬だった。cee49dd5-be41-473f-8be8-a6242cd3e371 (引きやがった! 最高の三萬重なりだ) 「リーチ!」  ノータイムで、ヨシオは八萬(パーマン)切りリーチを打った。三六索(サブローソー)待ち、三索(サンソー)ならイーペーコーだ。 (決断力もいいじゃないの。跳満は確定。一発ツモか三索、もしくは裏1で倍満。それにしても、半荘(はんちゃん)2回ノー和了(ホーラ)だったやつが、リャンメンターツを外してのリーチとはね)  南家の後藤が、榎本にサインを送った。榎本がかすかに(うなず)き、後藤はヨシオの現物の四筒(スーピン)を切った。 「ポン!」 「チー!」  先に発声したのはアンナだ。後藤と榎本が目を見開いた。鳴きは発生優先の決めだが、牌が置かれるスレスレのところで、アンナは発声した。後藤にも榎本にも、ポンされるという考えはなかっただろう。その甘えを、アンナに衝かれた。  四筒をポンしたアンナは北を切り、ヨシオの顔を見た。ヨシオが頷いて、山に手を伸ばす。その手は力強く、さきほどまでのような弱々しさはない。 「ツモ」  手牌の脇に、ヨシオは六索をそっと置いた。手牌を開け、裏ドラをめくる。表示牌は五索(ウーソー)だ。 「8000オール」 (三六索のどちらでも、ツモれば倍満だったってわけか。やったな、ヨシオちゃん)  一本場は、榎本の差し込みにより後藤がアガった。  親を迎えた後藤の配牌もすさまじい。第一ツモで、ドラの七萬が重なった。8c266852-4cfa-456d-8e93-35cacc41fc44 (おいおい、こいつも親倍級かよ。しかも1巡目でシャンテンたぁ……)  後藤は切ったのは(なん)だ。南家(なんちゃ)の榎本が少し考え、後藤の顔を見る。自風の南が対子(トイツ)なのか。結局、南をスルーし、榎本はツモ山に手を伸ばした。余計な動きを入れるな、という後藤の指示だろう。 「フッ、鳴きゃあいいのによ」  牌をツモってきたアンナが、打牌をせず手牌を開けた。 「流局だ」 「なっ……九種九牌……」  後藤が、(うめ)くように言った。  牌がセットされるまで、全員が無言だった。後藤の表情は憤怒(ふんぬ)に満ちている。榎本がボタンを押しフタ開閉部が開くと、後藤は荒々しく牌を流した。  東三局、親は榎本、ドラは一索(イーソー)だ。  8巡目、榎本が五索を切りながら後藤を見た。テンパイか。間髪入れずアンナがカン五索の形でチーし、四索(スーソー)を切った。四索は危険牌候補のひとつだが、アンナに躊躇(ちゅうちょ)はなかった。  ヨシオが引いたのは八筒(パーピン)だ。九索(キューソー)切りでテンパイだが、早田の読みでは九索は榎本に当たりだ。ce7929c1-cad7-488a-b2e4-54054d5c6816  ヨシオは九索に手をかけたが、すぐに戻し、長考した。ヨシオはまず榎本の河を見、自分の手牌を見たあと、アンナの顔を見た。  ヨシオが選んだのは、榎本の現物である四萬(スーマン)だった。 「ロン。1000は1300。よく選んだヨシオ」 「たまたまです。アンナさんのチーに、なにか引っかかるものがあったので」  口の端で笑って、アンナは点棒をしまった。一四萬待ちだが四萬でしかアガれない、片アガリのタンヤオ。アンナが親を蹴ったというより、ヨシオが差し込んだ、と言うべきだ。  榎本が、悔しそうに牌を流す。一瞬、七索(チーソー)八索(パーソー)が見えた。やはり九索は当たりだったようだ。 (連携が確実に取れてるわけではない……が、気配、息遣い、感じ取ったな。化けたねえ、ヨシオちゃん)  東ラス、ドラは九萬。親のアンナが、4巡目で先制リーチをかけた。捨て牌の情報は少ない。他の三人は、慎重に么九牌(ヤオチュウハイ)を切った。 「ツモ」  ドラ表示牌の八萬を、アンナは一発でツモった。裏ドラこそ乗らないものの、4000オールのアガリだ。そういえば、以前アンナは八萬が好きと言っていたような気がする。  一本場、アンナが3巡目で早くもドラの四筒をリリースした。榎本がポンして打二索(リャンソー)。その二索に、アンナからロンの声がかかる。12300点の放銃となり、榎本のトビでこの半荘が終わった。  3戦目はヨシオが+64Pのトップ、アンナは+23Pの2着で、合計は後藤・榎本組が32Pのリードだが、順位ウマを考慮すれば、それほど差はない。そして、すでに形勢は逆転している。  矢野の方を見た。目が合って頷く。矢野も同じことを思っているようだ。  🀄  最終戦は、アンナの起家でスタートした。ドラは二索だ。  南家のヨシオは、慎重に西から切り出していった。  場に索子(ソーズ)が高い。8巡目に、ペン三索待ちでテンパイした。一通赤ドラ、満貫の手だ。一索を切ると、かすかに後藤が表情を曇らせたような気がした。後藤は九筒をツモ切り、榎本は一索を合わせた。  9巡目、アンナが少し目を細めて、ドラの二索を切った。 「ポン!」  後藤が発声し、三索を切った。 「ロン」 「ロン」  ヨシオの声と、アンナの声が重なった。 「24000」001fa227-f3d8-4bcf-b7a6-26c69c6134d5 「8000」  アンナに次いで、ヨシオも申告した。2838665b-90c4-4666-8ba1-b4aea81f24d0  ダブロンで後藤がトビとなり、最終戦は東一局で終了した。  (勝った……。よかった……)  安堵(あんど)したヨシオは、大きく息を吐いた。  後藤はしばしうなだれていたが、アンナの手牌を見て顔を上げた。 「アンナ、最後のツモは?」 「お、気づいたか。西をツモって二索切りだ。その前は、一四索待ちだった」 「そうか、下家の一索を見逃し、同巡で榎本も合わせたが、待ちを替えた。俺はドラに食いついたが、余った三索が当たりだった」 「二索欲しがってただろ? 下家にサインも送ってたしな。ヨシオの一索で表情変えてたし、223の形だろうと思ったから、鳴ければ高目の三索が出ると思ったよ。ヨシオも索子待ちテンパイだとは思ったが、ダブロンは出来過ぎだったな」 「恐れ入った、負けたよ。けどよ、おまえほどの打ち手が、なんで『スパロー』なんかで打ってるんだ? もっと稼げる店が、いくらでもあるだろう」  言いながら、後藤がアンナに10万円を渡した。アンナは金額を確かめると、後藤の問いに答えた。 「楽しいからだよ。『スパロー』は、楽しい遊び場だ。その遊び場の和を乱すような真似をしたんだから、頭に来るってもんだぜ。ま、後藤ちゃんにつれなくしたのは謝るよ」 「そうか」  言って、後藤が立ちあがり、ヨシオの方に向き直った。 「悪かった。気が済むまで殴ってくれていい」 「いや……もう済んだことですから……」  「ったく、お人好しだなヨシオは。結果が逆ならアタシは……。まあ、最初(ハナ)っから負ける気はしなかったけどな」  事実、ヨシオはこの一週間、後藤への恨みはなかった。恐怖の感情は卓に着いても残っていたが、3戦目からは麻雀に集中し、楽しいとさえ思った。   後藤が改めて謝罪し、榎本と店を出て行った。二人の後ろ姿を見て、出会い方が違えば、麻雀を通じて仲良くなれたかもしれない、とヨシオはなんとなく思った。 「さてと、金も入ったし、祝杯でもあげに行くか。ハヤさん、矢野っち、ありがとうな。ヨシオ、頑張ったな」 「あの、アンナさん……」 「ん? どうした?」 「この一週間、ありがとうございました。それで、あの……これからも、僕に麻雀を教えてくれませんか?」 「ああ、いいぜ。まだまだヒヨッコだしな」 「あ、ありがとうございます!」 「よし、とりあえず行こうぜ。酒がアタシを呼んでる」 「ふっ。アンナは酒も強いからな」  矢野が苦笑しながら言った。 「なあヨシオちゃん……」  店を出ようとした時、早田が耳元で(ささや)くように言った。 「作戦会議って、なにしたんだ? アンナの乳でも揉んだの?」 「い、いえ……まさか、そんな……」  思わず声がうわずってしまった。なんでこんな発想が出るのだろう。麻雀が強い人は、そんなことまで読めてしまうのか。 「なにこそこそ話してんだ、下ネタか?」  こちらをふり返って、アンナが言った。 「いや、パイの話よ。な、ヨシオちゃん?」 「ぱ、はい」 「ふ~ん、まあ飲みながらゆっくり語ろうぜ」 (あ、焦ったぁ……)  外へ出ると、日が暮れかかっていた。飲食店のある駅の方へ歩いていく。  風に乗って、桜の花びらが飛んできた。通りの桜は満開だ。アンナが、スマホで写真を撮っている。  新しい生活が始まったことを、ヨシオは改めて実感した。  麻雀も、これからだ。      第1話 アンナとヨシオ 完
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