鳥居の先で ~ 紅橙の守り神 ~

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 紅玉の数珠が、朝日を浴びてキラリと光る。  私は空を見上げ、天気の確認をすれば、雲一つなく、今日も暑くなりそうだ。「いってきます!」と一足早く仕事へ向かうために玄関から声をかけると、家の中から「いってらっしゃい」と二人の声が響いた。心軽く、一歩を踏み出した。 ◇ 「桃花ちゃん」  祖母の家の縁側で、座って庭を見ていると、心配するような声で名を呼ばれた。振り返ると、腰の曲がった祖母が、優しく微笑んで麦茶を用意してくれたようだ。 「おばあちゃん、どうかしたの?」 「それは、こっちのセリフだよ! お母さんとケンカしたって聞いて」 「……うん、そう」  進学のことで母と対立して、家を飛び出してきた。話せばわかってもらえると思っているが、心の整理をする時間が欲しくなり、祖母の家に逃げ込んだのだ。  玄関で出迎えてくれたとき、祖母は驚いていたが、温かく迎えてくれ、今まで何も聞かずにいてくれた。ときおり視線を感じたが、縁側でぼんやり庭を眺めながら、考える時間を作ってくれていたようだ。 「目指したいことがあるなら、私も応援するけど……どう思っているの?」 「いい加減な気持ちで、考えているわけじゃないよ? もちろん、お母さんが言うようにとも思っている。でもね? おばあちゃん。初めて人生の選択をするんだ。自分の身の丈にあったところを目指したいって、それだけ」 「桃花ちゃんのころは、いろいろなことに触れて、世界が広がっていくときでもあるからね。進学すれば、世界が広がるし、社会人になったら、さらに大きくなっていく」  祖母が私の手を握るので、しわくちゃの手を見ていた。 「桃花ちゃんが、これだと思うものをこの手に掴んでいきなさい。おばあちゃんも、もちろん、お母さんも応援しているから」 「ふふっ、ありがとう。だけど、おばあちゃん……」 「なんだい?」 「お父さんもきっと応援してくれてるよ!」 「すっかり忘れていたよ。自分の息子だけど、桜さんのほうが、娘ぽいから」  ケラケラと笑う祖母の手が、私の手から離れていく。握られたときに気が付かなかったが、その手には琥珀色の数珠が置かれていた。 「……これ」 「お守りだよ。桃花ちゃんくらいのときに、琥珀色の瞳をした青年にもらったものだよ」 「それって、初恋の人? おじいちゃん、やきもちやかない?」 「何言ってんだい、本当に。おじいちゃんと再会できたのも、これのおかげ。これを持っていると不思議と心が落ち着く。いいことが舞い込んでくる。頑張る桃花ちゃんに譲ってあげようと思ってね」  太陽に透かすとキラリと光った。黄色とも橙ともとれる数珠を左手首に身に着ける。その瞬間、何かいいことが起こりそう! そんな予感が胸に広がった。 「おばあちゃん、ありがとう。大事にするね?」 「桃花ちゃんにたくさんの幸せが舞い込んできますように……」  祖母の祈りとともに、電話が鳴る。母が迎えに来てくれるようだった。  ◇ 「……暑いな」  何もない田舎道を通勤のため、家から駅まで歩いているところであった。  朝早いというのに、真夏の熱に促されたか、蝉の声が聞こえ、余計に暑さが増してくる。  いつもどおりの道のはずが、今朝は何か違和感を感じた。生暖かい風が吹いたとき、歩道の横を見る。 「……あれ? 草がないんだ」  昨日まで、私の背丈程ある雑草が道沿いにずっと生い茂っていたのに、雑草の風に揺れる音がしないことで気がついた。スッキリした道沿いを歩いていると見知らぬ脇道。今まで、雑草で隠れていたのか脇道を視線で追う。  山の方に伸びているようで、その奥には、鳥居のような赤いものがチラと見える。  ……何年も近くで住んでるけど、こんなところあったかな?  仕事に向かわないといけないはずなのに、見たこともない道へどうしても進めと何かが背中を後押しする。  ……仕事、休もうかな? この先で、誰かに呼ばれている気がするし……。  カバンからスマホを取り出し、休む連絡を入れる。気の進まない仕事から逃げ、道から逸れ、気の向くままに脇道へ入っていく。脇道も下草は刈られ、問題なく歩くことができた。  少し行くと、木々に囲われ、木漏れ日が道をチラチラと照らしている。夏だというのに、空気がひんやりと涼しい。先ほどまで汗をかきながら歩いていたのが嘘のようだった。 「神社にきたみたい。空気が変わったわ!」  山の中とはいえ、木々の間からは適度な光度があり暗くない。むしろ太陽の光がキラキラと光って前方の道を照らすので、優しい気持ちになった。  ……疲れているのかな? 居心地がいい。  進んで行くと大きな石の鳥居があり見上げる。その鳥居は立派なもので、古くからあるのか、ところどころ苔が生えている。 「……お邪魔します」  あたりに誰もいないが、鳥居は神様の家の玄関だと聞いたことがある。ペコリと頭を下げて一歩鳥居の中へ入った。  蝉の声でうるさい朝であったはずが、鳥居を抜けた瞬間に鎮まりかえる。  ……静か。  足音と息づかいだけが耳に届き、鳥の囀りさえ聞こえてこない。少し行くと、ところどころに石で出来た狐の置物があった。お稲荷なのだろう。出迎えてくれる置物を見ながら、さらに山の頂を目指し登っていく。  頂上が近くなっているのか、だんだんと登る道も急になり、しばらくすると坂道だったものが、石階段となった。  ……多少は、歩きやすくなったかな。  山道を登るだなんて少しも考えていなかった私の靴はパンプス。適さない靴は、歩き慣れない山道で辛かったが、階段になれば少し楽になる。  ……随分歩いた気がするけど? 不思議。  社は見えず、前を見ても後ろを見ても、私しかいないことが急に寂しくなる。  ……静かすぎるのが、ダメね。こんなに静かなところがあるだなんて。  引き返すには、登っていたので、足元が石段に変わったことを理由にもう少し歩いていくことにした。  ……さっき、頂上の方に赤い鳥居みたいなものも見えたしね!  自分に言い聞かせ、上を目指し、少しの休憩の後、山登りを再開した。 『……わっ、わわわ! 珍しい! お客様だよぉー! お館様に報告しなきゃ!』  子どもの声が聞こえ驚き、周りを見渡す。それらしい人影はなく、怖くなり、背筋が寒くなる。 「ゆ、幽霊じゃないよね? 昼間……というか、朝だし……? 苦手なんだよ……、ねぇ? 誰かそこにいるの?」  返事はなく、しんと静まっている。心臓の音がやけに耳に響く。鞄をぎゅっと握りしめ、周りを警戒しながらゆっくり進む。 「何も出ませんように……。見えない見えないっ! 聞こえないっ!」  震えながらも慎重に階段を登って行くと、伏見稲荷の連なる赤い鳥居を思わせるような規則正しく鳥居が並んでいた。赤いもの、朱色のもの、古く色褪せてしまったもの、苔の生えているもの。それらをくぐり抜ける。鳥居の間には小さな狐たちが出迎えているかのように並んでいた。数えながら歩いて行く。百六もの鳥居をくぐり抜けたところで、広場に出た。  昔は使われていただろう手水社には、苔が生え、芍は朽ちている。  ……どれだけ放置されていたのかな? 私が知らないってことは、結構な時間だよね。  最後の階段を登ると、一際大きな石の鳥居があり、「お邪魔します」と声をかけ頭を下げてくぐる。頭をあげたとき、目に入ったのは、とても立派な社だった。  こんな場所に……?  見事な造りの社には、そこかしこに狐がいる。石や陶器で出来ているそれらは、私をじっと見ているようだ。 「……お稲荷さんだね。ここに来るまでも、たくさんの狐がいたし」  吸い寄せられるように社へ近寄っていき、鞄を漁って財布を取り出す。 「5円、5円と……」  財布の中にあった5円を賽銭箱へと投げ入れ、中でカココンコンチャリ……と、落ちるのが聞こえた。誰もいない神社はとても静かで、優しい風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。 「お願いごと……うーん」  賽銭を入れたものの願いごとが咄嗟に浮かばず、家族が元気で暮らせますようにと祈る。  チリーン……。  鈴の音がして、前を見れば、白い狐面をした男性とも女性ともとれぬ、装束を着た人が立っていた。  ……さっきまで、いたかな?  私は首を捻ってみたが見覚えもない。もう一度、鈴の音がして後を向くと、狐面を頭につけた男の子がこちらを見上げていた。 「ようこそお参りくださいました! お参りありがとうございます!」  年の頃は五、六歳くらいの子だが、しっかりした挨拶をされ、私のほうがたじろぐ。 「……あぁ、えっと、こちらこそ、その……」  なんと返したらいいものかわからず、そのあとは言葉にならない。 「こちらにどうぞ! お参りしていただいたので、ゆっくりしていってください!」  ニッコリ笑う男の子に手を引かれ、社務所へと入っていく。随分使われていないのだろうか? 部屋はところどころ床が腐り落ち、あちこちに蜘蛛の巣がはっている。現代には珍しく竈門があり、ガスコンロや電化製品などは一切なかった。 「……えっと、ここに入るの?」 「えぇ、おもてなしします!」  ニコニコの男の子には申し訳ないが、中に入るには腰が引ける。私は、男の子を傷つけないように言葉を選んでいた。鈴音のような少し高い声がし、そちらを見る。  ……さっきの人だ!  話しかけようとしたところで、その男性が男の子の名を呼ぶ。 「!」 「お館様! お喜びください! 五十年ぶりにお参りされた方です! 嬉しいですね! えっと、お名前は……なんでしたっけ?」 「えっ、私のですか?」 「そうです」と笑顔で聞かれ、答えないといけないのかと、口を開きかけたとき、お館様と呼ばれていた男性が紅狐をもう一度呼んだ。 「お館様……申し訳ありません。でしゃばった真似をしてしまいました。久方ぶりの参拝者に、はしたなくもはしゃいでしまいました」  私が参拝したことが嬉しかったようで、はしゃぎすぎたとしゅんとする紅狐。そっと引き寄せてお館様は頭を撫でていた。 「紅狐、参拝者に名は聞いてはならぬといつも言っていたであろう?」 「聞いておりました。お館様だけが知っていればいいことです。あの、申し訳ない」  二人のやりとりを見て、不思議に思った。年のわりにしっかりした受け答えをする紅狐。紅狐の親というより、上司に近い雰囲気を感じ取ったお館様。 「……あぁ、えっと、大丈夫です。お気になさらずに。その、五十年ぶりというのは……その、参拝者がってことでしょうか?」  荒れ果てた社務所を見れば、紅狐が言ったこともわかるが、年月の単位が五十年ということに驚いてしまう。 「そうだ。五十年ぶりの参拝者だ。ここは、もう、忘れられた場所だからな」 「……忘れられたですか。えっと、私、そんなところって失礼ですよね」 「いい。それより、そなたは迷い人か?」 「そういうわけでは……この道を下ったところの下草が刈られてまして、見たことがない道が続いていたので、つい」 「いつもと違う場所を歩こうなんて思わないぞ? 娘は変わり者か?」 「紅狐」 「あっ、はい。お館様。失礼しました」  お館様が紅狐を呼べば、何かを感じたらしく、紅狐は謝ったあと、押し黙った。 「立ち話もなんだ。こちらへ。社務所を使うわけにもいかぬだろう」  ボロボロの社務所を後にし、お館様がついてくるようにいうので従った。紅狐が何か思うところがあったようで、お館様にピタリとつき、ヒソヒソと抗議を始める。  ところどころ聞こえてくるのは、人間の娘やお館様の居住区など、聞きなれない言葉だ。  ……確かに人間の娘ではあるけど……それ以外に、あの二人には何があるの?  ジッと紅狐の後を見ていると、まるで、ご主人に懐く犬のように見える。それだけでなく、ご主人に構われて嬉しいと尻尾をぶんぶん振り回しているかのように。  ……かわいいな。  声には出さず、紅狐の様子をこっそり伺っていた。 「紅狐」 「はい、なんでしょうか? お館様」 「そなた、可愛いと思われているぞ?」 「私がですか? 何かの間違い……」  そろっと私の方を見て、すごく嫌な顔をしていた紅狐。見えないはずの尻尾を想像して、思わず顔がニヤけてしまったらしい。 「おいっ! 娘」 「……はいっ!」 「その顔はなんだ? よもや、紅狐様を可愛らしい狐だと思ってはいないだろうな?」  ジロと睨まれ、緩んだ頬を引き締めて小刻みに首を横にふり、滅相も無いと取り繕った。見透かされているようなお館様の視線に苦笑いを送ると可愛らしい紅狐の頬が赤くなる。 「娘っ!」 「紅狐、やめないか。参拝者に対して失礼であろう?」 「しかし、お館様」 「しかしもかかしもないぞ? 人間からみれば、まだ子どもなのだから。半人前の紅狐なのだから、仕方が無かろう?」  逆に紅狐がお館様に睨まれ、しゅんとなってしまったので、フォローに回ることにした。 「お館様……で、よかったですか?」 「好きに呼ぶといい」 「では、改めてお館様」 「なんだ?」 「紅狐のこと、キツく叱らないでください」 「……叱ってはいないのだがな。そんなふうに見えたのであれば、すまなかった。紅狐も」 「いえ、お館様は悪うございません。紅狐がお館様の言いつけを守らなかったことが悪いのですから」  しょんぼりしている紅狐に申し訳なくなる。この神社に来てから、明るく声をかけてくれたのに。 「そういえば……紅狐」 「はい、なんでございましょう?」 「みなに連絡しておいてくれ」 「はい、わかりました」と紅狐は、お館様の言いつけで何処かへ向かってしまい、お館様と二人、よく磨かれた廊下を黙ったまま歩く。少し歩いて行くと、見事な庭に出た。社の後ろにこんな立派な日本庭園が広がっているとは知らず、見とれてしまう。 「ステキな場所ですね?」  立ち止まって庭を見ていると、先に歩いていたお館様が戻って来た。紅葉には、少し早い気がしていたが、鮮やかな赤い色に目を奪われ見入っていると、お館様は廊下へ座る。私も倣って腰掛けた。 「まるで、この場所だけ、季節を先取りしたかのようで、とても綺麗」 「下界の季節とは少しズレているのだろう。秋の色合いだ」 「そのようですね? 今は、残暑が厳しくて……真夏の暑さにも劣らずって感じです。仕事へ向かうことが、億劫になりました」  肩を落としていると、不意にクスっと笑い声が聞こえ、隣に佇むお館様を見上げる。琥珀色の珍しい瞳が印象的であった。 「どうかしましたか?」 「いや、人間は、仕事をしないといけないから、大変だな? と思って」 「食べるためには、お金が必要ですからね。社会人になって、今はとても疲れています」 「ほぅ?」  眉を上げ、興味深そうにこちらを覗いてくる。 「何かおもしろいことでも?」 「人間そのものがおもしろい。下界を見渡せば、飽きもせず、毎日電車という箱に揺られて仕事へ向かうのだろう?」 「普通ですよね? お館様はここの主だから、俗物的なものと関わりがありませんか?」 「まぁ、な。そういえば、桃花」 「なんでしょうか?」 「祈りが雑だったぞ? 何かないのか?」 「何かといいますと?」 「他の願い事だ。良い婚姻相手が欲しいとか、仕事で上役になりたいとか」 「家族の健康も十分だと思います」 「綺麗な瞳の色ですね?」と声をかけた瞬間に、驚いたようにこちら凝視した。 「どうかされましたか?」 「昔、幼かったころ、同じように言った娘がいた。同じセリフを聞くことになるとは……」 「嫌だったんですか? それなら、謝ります」 「そんなことはない。この瞳の色が、一族の中では異端で、忌み嫌われていたのだが、その言葉に救われた。ただ、それだけだ」 「……お館様の瞳が、祖母にもらった数珠の色に似ていたから思わず」  取り繕ったように話題をずらすため、鞄の中から祖母にもらった数珠を取り出した。手のひらにおいたそれを見つめた後、お館様が貸してくれというので渡す。 「綺麗ですよね。中学のときに、祖母からお守りだと渡されたものなのですけど……」 「ほぅ。確かに琥珀の数珠だ。中に込められているものはすっからかんのようだが」 「どういうことですか?」 「これは桃花の祖母、夕花に渡したもの。今の桃花のように、心に大きな病を抱えていた」 「どうして、それを?」  毎日に追われ、1年前から眠れなくなり、精神を病んでいた。誰にも言えず、ただ、私はダメな人間なんだと自身に言い続けていた毎日を言い当てられ心が凍り付く。 「見ているからわかる。ここから、何十、何千、何万の人の営みを見ているのだ。桃花の心が蝕われていく様もここから見ていた。だから、この社にたどり着いたのだろう。ここは、迷い人しかこれない場所。認識できるのは、ごくわずかな人しかいないのだよ」 「……わかりません、私が迷い人だなんて。おばあちゃんも……」 「夕花は、戦争に向かう幼馴染を心配したあまり、心が壊れてしまった。この数珠を渡したとき、死人のような虚ろな目をしていた」 「この数珠をもらった後、おじいちゃんと再会したって……戦争に、行って……あ……」  涙が零れ始める。社会人になってから、零したこともなかったのに。 「……あれ、おかしいな。止まらない」 「好きなだけ涙すればいい。心に溜まったものを全て流してしまいなさい。ここは、そういうものを受け入れるための場所だから」  袖で涙を拭ってくれる。琥珀色の瞳は優しく、流れる涙が枯れるまで見守ってくれた。  ◇ 「……お館様」 「紅狐、おいで」 「娘は、眠ってしまったのですか?」 「あぁ、疲れていたようだ。かけるものを」  ◇  小さな子どもの足音が聞こえてきた。私の家に、そんな年頃の子はいない。うっすら目を開けると、美しかった庭が横に見え、ぼんやりしながら、頬に当たる感触で目が覚めた。 「……ここは。私、いつの間にか眠って……」  のそのそと起き上がると、男の子の声が聞こえる。 「娘、起きたか?」 「……紅狐?」 「娘よ、お館様を枕に眠るだなんて……」 「……お館様?」  見上げると優しく微笑んでいるお館様が「おはよう」と声をかけてくる。泣いた上に、眠ってしまい私は大慌てで居住まいを正す。 「今更取り繕っても遅いわ!」  紅狐に叱られ、しゅんとしながら羞恥で赤くなった顔を隠す。 「すみません、重かったですよね? 泣いてしまって、その……」 「いや、大丈夫。夕花もそうだった。心は軽くなったか? 桃花」 「はい、お陰様で。……あの、ひとつ聞いてもいいですか?」 「何かな?」とからかうようにいうので、質問も見抜かれていたのかもしれない。 「名前! どうして知っているのですか?」 「どうしてか。家族の健康を願ったじゃないか。そのときに名前を聞いたし、生まれたときから、桃花のことは知っていた。今更だ」 「……知って?」 「ずっと、桃花のことも夕花のことも知っていた。他の誰より、関りが深いから」 「どういうことですか?」 「手を出して?」 「あの……」 「いいから。ほら」と、言われるがままに手を出すと、手のひらに数珠が置かれる。祖母にもらった数珠ではなかったので、驚いてお館様を見返した。 「あの、祖母の数珠と……」 「あの数珠は、効力を失っていた。夕花だけでなく、桃花も守っていたから。桃花のために作り直した。紅狐がね」 「……紅狐が?」 「まだ、半人前にも成れていないから、私も手伝ったし、紅い玉は五つしかない。恥ずかしがっていないで、おいで、紅狐」  お館様の呼びかけで、庭の隅から出てきた白い狐に私は目を奪われる。 「……紅狐なの?」 「そうだ。桃花の数珠を作るために力を使ったから、人型に戻れないんだ。撫でてやって」  おそるおそるこちらに近づいてくる白狐。瞳の色が紅玉のように紅い。 「綺麗な瞳だね。燃える紅葉のような、紅玉を思わせるような……」  そっと頭に触れ、少しずつ撫でる。首回りを撫でると目を細め気持ちよさそうだ。 「紅狐、ありがとう。素敵な贈り物を」  紅狐が私に擦り寄ってきてくれ、お礼の返事なのだろう。私は紅狐を抱きしめる。そんな二人をお館様は優しく見守ってくれていた。  ◇ 「名残惜しいだろうが、桃花は帰る時間だ」 「……もぅですか?」 「そうだ」とお館様の言葉を聞いて、二度とここへはこれない寂しさを感じていた。  ……きっと、紅狐にもお館様にも。 「そんな顔はするな。会えずとも、いつでも繋がっておる」  トンっと手首を叩いて頷くと、私からも笑みがこぼれる。 「わかりました。いるべき場所へ戻ります」 「無理はせず、心おおらかに」 「……はいっ!」 「幸せにな」  お館様に見送られ石の鳥居のところまで来ると、紅狐が一際大きく鳴いた。  日が暮れかけ、暗くなっていた道が青白い炎により明るく照らされる。 「……狐火?」 「辿って行けば、元の世界へ戻れる。さよなら桃花。夕花によろしく言っておいてくれ!」 「ありがとうございます! 琥珀様!」 「な、」  大きく手を振り、私は元来た道を歩き始めた。足取りは軽く、優しい青い光に導かれて。  ◇ 「……行ってしまったな」 「……」 「何、桃花はもう大丈夫だ。紅狐の眷属がこれからの人生を見守っていくだろう」 「……」 「そんなに心配なら、百年くらい人間界で暮らしてもいいぞ? 私も暮らしていたんだ。夕花の側で、五十年」  白い狐は、駆けていく。桃花を追って。 「紅狐! 力を貸してやろう。五十年分だ!」 「……お館様、ありがとうございます! 行ってきます!」 「あぁ、行ってこい! 紅狐、元気でな」  琥珀色の瞳が、狐火に優しく揺れた。  ◇ 「桃花!」 「えっと……どちら様?」 「紅狐だっ!」 「……紅狐? さっきまで、小さか……」  可愛らしく膨れっ面になるので、それ以上は言葉にしなかった。急に背が伸び、私と同じくらいの年齢の青年に見える紅狐は、もう、可愛らしいの言葉を受け付けないだろう。 「どうしたの? 私、何か忘れ物でもした?」  身の回りを見てみたが、特に何か忘れたわけではないようで、小首を傾げてみた。紅狐は、どう話そうか悩んでいるのか、言いかけては口を噤む。繰り返して、うまく言葉を見つけられたのだろう。 「そうじゃない! しばらくの間、その、桃花と一緒にいてやると言っているんだ!」  少し怒ったような、紅狐のぶっきらぼうな言葉に戸惑う。 「……しばらくって、ここを降りるまで?」 「違う、ここを降りてからも!」 「えっ? 降りてからも?」 「その、一緒にいたら、迷惑か?」 「迷惑ではないけど驚いて。いいの?」 「お館様に許可はもらった。側に、いさせてくれ」 「それはいいけど、えっと……生活はどうするの? 昼間は私、会社だし。狐……」 「それは問題ない。生きるための日銭を稼げるくらい、お館様から力は借りておる」 「……力。そう、なら……帰りましょう、私たちの家に。それで、他に問題はある?」 「ない」と照れたように笑う紅狐。狐火の中、二人、手を繋いで歩く。少し不安に思っていたから、繋がれた手が嬉しい。 「……見た目」 「あぁ、人間になっている。高位の神になれば、人型になることなぞ、造作ない」 「……高位の神って、お館様?」 「琥珀様は、高位の狐神。桃花の祖母のお陰でこうして、この町を見守っていらっしゃる」 「紅狐は、その……」 「半人前のさらに半分。長時間、人型を保つには、本来であれば力が足りない。お館様が、五十年分の力を授けて下さったから、人間になれるし、人間社会で経験を積んで、これから自身の力も蓄えるつもりだ」 「私がしわくちゃのおばあちゃんになるまで、一緒にいてくれるってことなの?」 「もちろん、桃花が望んでくれるなら」  話をしながら歩くと行きよりも早くいつもの通勤路に出た。すでに暗くなって、街灯が周りを照らす。振り返ると、山道を照らしていた狐火は消え、道は消えてしまった。 「……夢を見ていたようよ」 「夢ではないだろう?」  繋がれた手を握り返し、見上げれば、紅狐が微笑んでいた。「さて、どう説明するべきか……」と呟き、我が家へ帰る。  ◇ 「ただいま」 「おかえり、桃花ちゃん。あら、素敵な方も一緒なのね? 紹介してくれるかしら?」  ニコッと笑い、出迎えてくれた祖母に紅狐を紹介する。 「紅狐よ! これから、うちに住むことになるけど、迷惑じゃないかな?」 「えぇ、大歓迎よ。先ほど、琥珀様から、ご連絡いただいてるから。桃花ちゃんのこと、これからよろしくお願いしますね。紅狐さん」 「……お館様は、どこまで先を考えていらっしゃったのでしょう」  してやったりな顔をしているであろうお館様のことを考え、紅狐は肩を落とす。私と祖母はそんな紅狐に笑いかけ、「お館様だからね」と諭すのであった。 終
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