60人が本棚に入れています
本棚に追加
/158ページ
*
翌日の夜。
達也は心をそわそわさせながら、イリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」を訪れた。
百合の演奏が始まる少し前に窓際の席へ座り、いつもと同じショートケーキとアールグレイを頼む。
ラウンジ「リリア」には相変わらず穏やかな時間が流れている。
しかし、今の達也にはこの穏やかな時間も緊張の瞬間にしか感じられなかった。
やがて、黒いシンプルなドレスを着た百合が「リリア」に現れる。
達也は百合の首元にくぎ付けになった。百合は達也がプレゼントした、あのカトレアのネックレスをつけている。ラウンジの照明に当たると、また違う輝きを放ってとても美しい。
ラウンジの誰かが「まあ、素敵なネックレス!」と小声で言っているのが聞こえた。
(――やっぱり、あのネックレス、百合にプレゼントしてよかった)
達也が思わず笑みを浮かべると、ふと達也の方を向いた百合と目が合う。百合はいつも通りの無表情だが、達也は恥ずかしくなって俯いてしまった。
達也が次に恐る恐る顔を上げると、百合はすでにピアノの前に座り、最初の音を奏でようとしているところだった。
ラウンジ「リリア」に、百合のピアノの調べが響き始める。
(――この曲)
ビートルズの「恋をするなら(If I Needed Someone)」だ。
タイトルは「もし誰かを必要としている時」とはなっているが、これは暗喩だ。実際は日本語タイトルのように「恋をするなら君がいい」というような内容を歌っている。
(――百合)
達也は自分の顔が赤くなってくるのを感じた。まともにピアノを弾いている百合を見られない気持ちだったが、それでも今の百合の表情を見るためにピアノの方へと視線を移した。
百合はピアノを弾きながら、ほんのりとした笑顔を見せている。
こんなに百合が笑顔を見せているのは初めてかもしれない。
達也は百合の笑顔から目が離せなくなった。普段の無表情の百合も美しいが、今の笑顔の百合は今までの中で一番美しく、そして可愛らしく見える。
百合が笑顔を見せながら、ビートルズの「恋をするなら」を弾いたということは、これが百合の「返事」なのだろうか。
とりあえず、百合の演奏がすべて終わったら、楽屋へ行こう。笑顔と「恋をするなら」の意味を訊こう。
そして、百合の返事を改めて訊こう。
達也はそう決めると、心を落ち着かせるためにアールグレイを一口飲んだ。
【了】
最初のコメントを投稿しよう!