1.マーガレットのブローチ

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1.マーガレットのブローチ

 西村(にしむら)達也(たつや)は戸惑った。  休日の昼下がり、達也は有名なイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」の前で立ちすくんでいる。  目の前には自分と同い年くらいの若い女性が涙を流していた。達也にはどうして女性が泣いているのかわからない。  達也は出版社で新しく書く小説の打ち合わせをした帰り、イリーナ・ホテルに立ち寄っただけだ。  小春日和(こはるびより)の日差しを浴びながら紅茶でも飲もうとラウンジ「リリア」に入った時、突然ドアから出てきたこの女性とぶつかっただけだ。  達也が反射的に「すみません」と言い女性の顔を見ると、彼女はすでに涙を流していた。  女性は立ち止まると、達也にぶつかったのが合図だったかのように、嗚咽(おえつ)をもらし始めた。  ラウンジ「リリア」からはピアノの生演奏が聞こえて来る。その美しい調べをバックに涙を流す女性。  女性は天使のように可愛らしい顔立ちをしている。決して自分の容姿を卑下しているわけではない達也だが、彼女の可愛らしさの前では大体の人間は霞んでしまうだろう。  半分くらい西洋人の血が混ざっているのだろうか、彫の深い顔立ちにヘーゼル色の瞳。同じカラーのふわふわとした髪。  もしかすると、彼女は本当に天使なのかもしれない。間違って空から落ちてしまったのだろうか。天への帰り道がわからずに泣いているのかも。そう錯覚してしまう程だった。  達也が戸惑っている間に、2人の周囲が騒がしくなって来た。ホテル客が「何事か」と集まって来たのだ。  中には達也を見ながら「人の良さそうな顔をして、あんな可愛らしいお嬢さんを泣かせて……」と苦い表情で呟く老婦人までいる。  ホテルの警備員も足早に近づいてきた。一体どこに隠れていたのだろうかと思うくらい、警備員がぞろぞろやってくる。催し物でもやっているのか、今日に限って警備員がたくさんいるようだ。  ――違うんです。僕は彼女とは初対面なんです。僕とぶつかった時には、すでに彼女は泣いていたんです。  そう弁解するのは簡単だ。しかし、達也は泣いている女性の前で、そんな突き放すような言葉は言えなかった。  達也がどうすればよいのか考えていると、ラウンジ「リリア」から流れてきていたピアノの音が止まった。  ラウンジでピアノを弾いていた女性が、達也たちの方へと歩いて来る。    女性はシンプルな黒の演奏用ドレスを身にまとっていた。瞳も胸まで伸びたストレートの髪も黒く、昼間なのに月の光に反射しているような静かな輝きを見せている。  彼女のクールな表情も、どことなく月の光を思い出させた。冷たい表情のように見えて、どこかほんのりとした慈悲(じひ)深さを感じる。  泣いている女性が天使のような可愛らしさだとすると、突然現れた黒いドレスの彼女は女神のような美しさだ。  女神は真っすぐ達也たちに近付くと、天使の肩に手を掛けた。そして、レースのハンカチを差し出す。 「ごめんなさい、あなたがラウンジにいるって気付かなかったの。私がさっき弾いた曲、あなたのお父さまとの思い出の曲だったわね。お父さまのこと、思い出させてしまってごめんなさい」 「えっ?」  天使は突然の言葉に呆気に取られた表情をしたが、周りからの好奇な目に気付いたらしい。はっとした表情をし、女神から差し出されたハンカチを受け取って目頭を押さえた。 「いえ、私もごめんなさい。ピアノの演奏が素晴らしくて、つい父親を思い出してしまって……」  好奇な目を向けていたホテルの客人たちは、「そういうことだったのか」というような表情をし、ゆっくりとどこかへと行ってしまった。警備員たちも散っていく。  助かった、と達也は通常を取り戻したホテルを見ながら胸をなで下ろした。天使に「父親との思い出の曲に泣いてしまった」というシチュエーションを授けてくれた女神には、感謝しかない。  しかし、天使はどうして泣いていたのだろうか。うら若き乙女とは言え、人の多いところで泣き出すなんて相当なことがあったのかもしれない。    まさか、本当に天への帰り道がわからずに泣いていたわけではないだろう。 「あなた、このホテルのフロントスタッフの西園寺(さいおんじ)エミさんでしょ?」  女神に言われて、西園寺エミと呼ばれた天使は小さく頷いた。 「はい、すみません、こんなところで泣いてしまって。あと、誤魔化してくださってありがとうございました」  エミは女神に深々と頭を下げる。  そう言えばこの西園寺エミという女性、フロントで見かけたことがあったかもしれない、と達也は思い出した。  普段の彼女はいかにも名門ホテルのフロントらしいキッチリとした制服を着ているが、今は私服だ。しかも、ざっくり編まれた毛糸のカーディガンに大きなブローチをつけ、裾が広がったロングスカートを履いている。  髪だって、今は下ろしているが、業務中は一つでしばっているのだろう。これではすぐに気付かないはずだ。 「あなたはラウンジのピアニストの桜井(さくらい)百合(ゆり)さんですよね?」  顔を上げたエリが言うと、桜井百合と呼ばれた女神は小さく頷いた。 「西園寺さん、よかったら、ラウンジの楽屋に来る? もう少し心を落ち着かせた方がいいかも。私の今日の出番はもう終わったし。――達也も一緒に」 「わかった」  達也も小さく頷いた。
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