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 学会へ向けた研究成果披露は、クリスマスイブの夜に終わった。紺のスーツに身を包んだ篠原と、同じ色のワンピースを着た少女。会場のホールがあった建物から手を繋いで出てきた二人は、外の空気を吸い込んだ瞬間、同時にはあっと息を吐いた。 「……すまなかったね。あんまり非常識な行動は取るなと事前に注意はしておいたのだが……どうも、上手く指示が行き届いていなかったようだ。怖かったかい?」 「ええっと……ちょっとだけ。でも、先生かっこよかった! ずっと手を繋いでくれてたし、私は大丈夫」 「そうか。まあ、何はともあれ終わってよかった。嵐も過ぎれば何ともないものだね」  雪の中で、泣いたあの日。篠原は、どんなことがあっても、自分が少女を守って見せると決意した。愛して、愛されてしまったのなら、それを盾にするしかない。彼女にとって唯一の存在である篠原が、彼女を信じていればいい。誰に何を言われようと、篠原が少女の前に立てばいい。学会は案の定混乱を極めたが、篠原はどんな意見にも動揺することなく、反対派の声を捌き切った。否、捌き切ったは違うかもしれない。時にはただの感情論で、悪質な質問者を怒鳴りつけていた篠原だったから、研究発表というのは形無しである。だが、そんなことは少女にとっての問題ではない。自分の信じる人が立ち向かってくれるのなら、恐れる必要などなかった。 「……さて、これからどうしよう。また雪も降りだしそうだし、帰ろうか?」  篠原が少女に聞く。すると、少女は首を横に振った。 「私、もうちょっとだけ外に居たいな。……あのね、先生。私、初めて外に出た時、先生は嘘つきだって思ったの。外は綺麗でも、素晴らしいところでもなくて、すごく怖いところだと思っちゃったから。でも……今は違う。ここに来るまでに、先生と見た外は、綺麗だった。私、もうちょっとだけ見てから帰りたい」  少女の言葉に、篠原はふっと微笑んだ。 「嘘つきの汚名返上か。じゃあ、とっておきの綺麗なものを見せてあげよう。おいで。少し歩くから、抱っこしてあげる」  篠原は、少女を抱き上げる。そして、突然自分のマフラーを少女の頭から被せた。 「せ、先生!? なんも見えないよ!」 「そのままにしておいで。いいよと言ったら取るんだ。いいね?」  篠原は、明るい声で言って、早足で歩きだす。少女はわくわくを隠せない様子で、何も見えないにも関わらず、身体をゆらゆらとゆらしていた。 「……さて、確かここらへんに……あっ、あれだ!」  しばらく歩いた後、篠原がそう声を上げた。 「えっ、どれ!?」    少女が、バッとマフラーをよける。 「あっ、こら! まだいいよとは言ってないぞ」 「先生! もしかして、あれのこと!? 信じられない……」    篠原が冗談交じりに怒って見せると、少女はそれには反応せずに、両手で口を押えて、目を見開いた。少女の赤い瞳に映るのは、色とりどりのライトに飾られたクリスマスツリー。駅前のそれは、見上げないと頂上の星が見えないくらいに大きかった。 「こんなに綺麗なモノ、私初めて見た……。先生、これ、すっごく眩しい。キラキラしてて……それで……」 「びっくりしたかい。一年でこの時期にしか見られない特別なものだよ。だから、特に綺麗なんだ」  篠原は、優しい声で説明する。少女は、篠原の腕から飛び降りると、目を輝かせて、よりツリーの近くへと走って行った。 「気を付けろよー! 誰かにぶつからないように……って!?」    篠原はのんびりと忠告の声を上げたが、それは確実に五秒遅かった。少女は誰かにぶつかって、その場に転んでしまう。 「大丈夫か!」    慌てて駆け寄って、篠原は少女を助け起こす。次に、パッと少女がぶつかった人を見ると、それはサンタクロースだった。 「元気なお嬢さんだねぇ。前はしっかり見た方が良いが、元気な子は嫌いじゃないぞ」    恐らく、イベント用にコスチュームを着た一般人だとは思う。優しそうな老人のサンタクロースは、豪快に笑って言った。しかし、篠原は内心でまずい、と焦る。彼は、少女の容姿に気付いていないのだろうか。 「すみません。以後、気を付けさせます」    早口で言って、篠原は無意識に少女を背に庇う。しかし、サンタクロースは、そんな2人にこう言った。 「お嬢さん、雪みたいに真っ白で素敵だねえ。赤い目も、私の服とお揃いだ。どうだ、今年は私のプレゼント配りを手伝わないかい?」 「えっ……」  思わぬ言葉に、声を漏らしたのは篠原だった。目の前で優しく笑うサンタクロースは、純粋そのもので、その瞳には少女を嫌悪する色が見えない。 「ぷれぜんと配り……?」    少女は、それが何なのかも分からないと言ったように首を傾げる。するとサンタクロースは、ひげだらけの顔をまた笑顔でいっぱいにして答えた。 「そうだよ。でも……、いくら素敵なお嬢さんとはいえ、子供たちにサンタクロースのお手伝いを頼むわけにはいかないね。トナカイたちに怒られるか。ほっほっほ。ごめんな。この話は無しにして、今日は早くお布団に入るんだよ」 「うん、分かった」    サンタクロースの優しそうな雰囲気にほっとしたのか、少女は素直に頷いた。 「おお、良い子だ。さて、良い子にはプレゼントが来るという決まりがある。お嬢さんは何が欲しいかな?」 「何が欲しい、か……? 分かんない」 「おや、そうかい。じゃあ、もう少しだけ考えるといい。眠るまでに決めればいいからね。おっ、そうだ。お嬢さんの名前は何だい?」    サンタクロースの問いに、篠原はハッとする。 「あの、この子の名前は……」 「よんごう?」 「ああ、えっとね。それは名前ではないんだ」    篠原が言うと、少女は言われた意味が分からないというように黙り込む。篠原は、困ったように言葉を探したが、その時サンタクロースが言った。 「おお、良いことを思いついたぞ。お嬢さんは名前をプレゼントにもらえばいい。さて、どんな名前が良いかな?」    篠原と少女は、顔を見合わせた。しばらくの沈黙の後、少女が篠原にこう問いかけた。 「ねえ、先生。この綺麗なものはなんて言うの。私、これと同じ名前がいいな」 「これ? これは、クリスマスツリー、だが……」 「じゃあ、それで決まり! その名前を私にちょうだい!」    無邪気に笑う少女に、篠原は思わず呆気にとられる。しかし、次の瞬間わっと笑い出した。 「それは長すぎるんじゃないかな。なんだか、呼びづらそうだ」    篠原が言うと、少女は釈然としないながらも「そっか」と呟く。 「先生の名前、四文字だもんね」 「私の名前は三文字だが……? ああ、せんせいは名前じゃないぞ」 「えっ! じゃあ、私、先生の名前、知らない……?」    少女は、強い衝撃を受けたように後退る。篠原はふふっと笑って、かがみこむと、はっきりした声で言った。 「私の名前は篠原美玲。これからは、名前で呼んでくれても構わない」 「しのはら、みれい?」    少女は、ゆっくりと噛み締めるようにその名前を発音する。篠原がうなずくと、少女はパッと嬉しそうに表情を明るくした。 「なーんだ! 先生の名前も長いんだね。じゃあ私もそれでいい。くりすま、すつりー! 私の名前、くりすま、すつりーにする!」 「……そういうことじゃ、ないんだけどね」 「え……? 違うの?」    ちぐはぐな二人の会話に、サンタクロースが「ほっほっほ」と深い声で笑う。 「私は良いと思うがねぇ。まあ、でも、普通の名前じゃないのは確かだ」 「そうなの?」 「ああ。じゃあ、クリスマスツリーを軸にもう少し違う名前を考えようか」  サンタクロースはそう言って篠原を見る。下を向いて、何やら考え込んでいた篠原は、ハッと顔を上げると、静かな声で呟いた。 「……ひかり」    少女とサンタクロースが顔を見合わせた。 「ひかり? 私の名前?」 「ほおほお、クリスマスツリーのキラキラから取ったんじゃな」    サンタクロースが満足げに言う。篠原は少女に手を伸ばすと、もう一度その胸の中に抱き上げて言った。 「君の名前はひかり。どうだろう。もし嫌だったら、他にも考えるが……」    篠原の言葉に、少女は澄んだ瞳で篠原を見つめた。クリスマスツリーのひかりが、彼女の赤い瞳に反射してきらめく。 「私の名前は……ひかり」  少女は、そう口に出した。そして次の瞬間、両腕を篠原の肩に回して、彼女をぎゅっと抱き締めると、「うん。私はひかり!」と歓喜の声を上げた。 「決まりだね。……ひかり、生まれてきてくれてありがとう。これからもよろしく!」    冬の空に、篠原がそう叫ぶ声と、鈴の音のような少女の笑い声が響く。空からは、それに答えるように雪がひらひらと舞い始める。    永遠に続けばよいのに、と思うほどに幸せな時間だった。しかし、二人は聖夜にそれを願ったりはしない。    この瞬間が、このクリスマスイブが終わっても、二人の人生は続いていく。    その未来に、どうか祝福を。    進む道の先に、光が溢れますように——。 「さて、帰ろうか……ひかり」 「うん。先生……じゃなくて、しのはらみれい?」 「美玲でいい」 「じゃあ、みれい!」    元気の良い声に、篠原は思わず頬を緩める。  少女を——ひかりを抱いて、クリスマスツリーを背に歩き出す篠原。  不意にひかりが、 「あれ、赤い服のおじさんは?」    と聞いたので、篠原はハッと振り返った。そこには、静かに点滅して輝くクリスマスツリーがあるばかり。サンタクロースの姿は、いつの間にか消えている。 「……君にプレゼントを届けたから、そりに戻って次の子供のところへ向かったのかもしれないね」  篠原はそう呟いて、ふっと息をつく。 (まさか、本物のサンタクロースじゃあるまいけど……)  一瞬、科学者らしからぬ考えを抱いてしまった篠原は、慌てて首を振る。 「私、お礼を言ってない」 「ああ、私もだ。でも、サンタクロースになら、どこからでも聞こえるはずだよ。今言ってみるかい」  篠原とひかりは、クリスマスツリーの頂上を見上げて、声を揃えて言う。 「「ありがとう! メリークリスマス!」」  その声は、雪の降る夜空を真っ直ぐに伝わった。かすかに鈴の音が聞こえたのは、きっと気のせいだろう。それでも、二人は何も言わずに微笑んで、また帰路を辿り始める。  クリスマスイブの夜が、ゆっくりとふけていった。
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