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Ⅰ
篠原美玲は、珈琲が好きだった。
だが、なぜ好きなのかはどうしても分からない。味が好きなのだろうか。それとも、含まれるカフェインがもたらす覚醒効果が良いのだろうか。しかし、同様にカフェインを含む他の飲み物を、篠原は好きにならなかった。珈琲の味も、さして美味しいとは感じていないはずなのに、彼女は何故か、いつも片手に珈琲の入った缶かマグカップを持っている。
「ねえ、せんせい?」
少女はある日、篠原に尋ねた。
「先生がいつも飲んでるその黒い飲み物って、先生のエネルギー源なの? 私が毎日飲んでる透明なやつみたいな?」
少女の赤い瞳が篠原を覗き込む。彼女の瞳は、宝石のように透き通って輝いている。しかし、綺麗だ、とただ感心するには、彼女は異質過ぎた。
篠原は、少女の問いかけに淡々と答える。
「私は人間だ。エネルギー源は食事だよ。穀物、野菜、肉、魚、大抵のものは全てエネルギーになる。だが生憎、この液体は何にもならないらしい。カロリーが無いからね」
そう言いながら、篠原は目の前のコンピューターを見つめる。検査値に大きな変化は無い。しかし、一つだけ、急激に上昇しているデータが一つあった。
「じゃあ、なんで飲んでるの?」
振り向かない篠原に構わず、少女は問いを重ねる。退屈そうに椅子に座り、足をぶらぶらさせる少女の肌や髪は、全て真っ白だった。瞳の赤を除いて、全てが白い。そう言ってしまっても過言ではないだろう。
「さあ。人間だから……かな」
問を重ねる少女に、篠原は短く返す。篠原は、目の前のデータに夢中だった。その様子から、少女は、どうやら自分は適当にあしらわれているらしいと察する。少女は溜息を一つ吐くと、篠原の一挙一動を見つめながら、「にんげん……」とつまらなそうに呟いた。
「先生、いつもそればっかり。人間って、変なの。今まで教えてもらった中で、一番意味分からない」
愚痴のような少女の言葉。それを聞いた篠原は、初めて顔を上げた。少し考え込むように天井を見つめて、篠原は答える。
「君が分からないのは仕方がない。それに関しては人間たちも、自分で自分が何か分からなくなっているくらいだからね」
篠原の答えに、少女はさらに顔をしかめた。少し首を傾げると、赤い瞳に、雪の如く白い前髪がかかる。篠原は、手を伸ばしてその髪をそっと払い除け、不満げな彼女に向けて微笑みを浮かべてみせた。
「人間に限らず、自分のことを知るのは一番難しいことなのさ。誰も答えを教えてくれない。自分で見つけ出さなきゃいけないから」
篠原の諭すような口調に、少女は小さな口をとんがらせて反抗する。
「私は私が何か知ってるよ?」
「……そうか。なら君は、自分は人間より賢いと言いたいのかい?」
篠原は、興味深そうに少女に問う。少女は頷くと、椅子から立ち上がって、一口にこう唱えた。
「ネーム4号、生成日12月25日。国立生命研究所で初めて生成に成功したクローン検体!」
どうだ、とばかりに少女は篠原を見上げる。誇らしげに胸を張る彼女の様子に、篠原は苦笑を禁じえなかった。
「ああ、そうだね。合っているよ」
そう言いながら、篠原は珈琲を持っていない方の手で彼女の頭を軽く撫でる。白い髪は、絹のようにすべすべとしている。
「ほらね、私、人間より賢い! 先生より賢いよ!」
少女は、無邪気に喜んでいた。篠原はそんな少女に、少し虚勢を張ってみる。
「私よりかい? それはどうだろうね。私はもしかしたら特別な人間かもしれないよ」
「うーん……たしかに? 先生は、先生が何モノなのか流石に分かってそうだもんね」
少女は素直だった。それもそのはず、少女にとって、篠原は唯一の存在だったから。
「さて、今日の検査はこれで終わりだ。また明日、同じ時間にここに来るから、用意をして待っていなさい」
篠原はそう言うと、着ていた白衣を脱いで、デスクの上に投げ出すように置いた。部屋のドアを開け、部屋を出る。ドアはオートロックになっており、外側から鍵がかかる仕様だ。篠原が手を離せば、ドアは閉まる。しかしその直前、少女は、慌てたように「先生!」と声を上げた。
「……なにか?」
閉まりかけのドアの持ち手を掴みなおして、篠原が聞く。
「もう、終わりなの……? 私、もっと先生とお話してたい。まだ行かないで?」
少女は、身体ごと首を傾げてそう言った。長い髪が、はらりと肩から落ちる。雪が木の枝の先から零れ落ちるように、儚く綺麗な白。篠原はすっと息を吸い込んで、少女に目線を合わせるようにかがんだ。
「明日も来るよ。じゃあ、また」
「せんせい……っ!」
「ごめん」
篠原は、そう言って扉を閉める。扉が立てた音は、ガチャリ、と冷たかった。篠原は思わず浅い溜息を吐く。
外からの全てをシャットアウトするこのドアは、被検体の少女に、一体どれだけの孤独を与えているだろうか。決して自力では開けられない。絶対的な閉鎖空間。もしかしたら、物心ついたときからここに居る少女にとっては、普通のことなのかもしれない。しかし、最近になって多くなってきた、少女が自分を引き留めようとする仕草は、どうも孤独からきているような気がしてならなかった。
印刷した、少女に関する複数のデータを見ながら、篠原は扉を離れて廊下を歩いた。身体的データは概ね良好。ほとんど平均的な人間と変わらない。一つだけ、たった一つだけのデータの差異を除けば、誰も少女が人間では無いだなんて言わなくなるだろう。
そのデータとは、原因不明の色素異常のことである。クローンとして生成された検体が共通して持つ、血のように赤い瞳、人間のものとは思えぬほど、生気を感じない白い肌と髪。その異質さを、人々は〈呪い〉と呼んで忌み嫌った。生命を人工的に作り出そうとなどするからこうなるのだ、と。クローン技術は、今すぐ廃されるべきだと訴える反対派は、この現象を彼らの主張の象徴のように使っている。
「クローンは人間では無い。人間の世を守れ!」
研究所の前には、今日もデモ隊が居座っている。篠原は、すりガラス越しに彼らを一瞥して、すぐにデータへと目線を戻した。少女が閉じ込められているのは、良いことだ。彼女は知るべきでは無い。自分が異質な存在であることを。自分が歓迎されていないことを。
「……人間の世を守る、か」
篠原は、思わず吐き捨てるように呟く。
「クローンは人間じゃないって? ったく、あんたらが何を知ってるって言うんだ……」
篠原は、居住スペースでもある自分のオフィスに辿り着いた。呪いが大々的に報道されて以来、研究所の外に出ることは控えている。ここに関係する人間だというだけで、安全はもはや保障されない。ましてや篠原は、被検体と直接関わって経過観察を行う唯一の人間だ。生成過程には関与していないが、クローン研究者というのは、人々からの攻撃を受けるに十分すぎる立場である。
篠原は、すっかり冷めた珈琲の残りを流しに捨てた。新しいものを作る気にもならず、机の端に腰かける。データ資料を一枚めくると、折れ線グラフが目に入った。先ほど気になった、急激に上昇するデータ。篠原は、天井を仰いで、微かに呟く。
「……君は、人間だよ。確かにね」
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