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Ⅱ
それは、ある曇った春のある日のことだった。
「あんたの思うようにやってくれ」
あの日、そんな言葉とともに所長から託された、被検体の少女。呪いというのは噂で聞いていたが、篠原が実際に見たそれは、確かに異質だった。
「これが……クローン検体4号」
あり得ないほど白い肌と髪。身体はすべすべとして、ほのかに温かい。クローンの生成過程には詳しくないが、所長が篠原に抱かせた少女は、2、3歳ほどの幼児に見えた。
「生成器から出しても生きていたのはコイツが初めてだ。最低限の知識と言葉は生成過程で既に学習させてある。見た目はそんなんだが、そこらへんのガキに比べりゃ圧倒的に賢い。扱いやすいと思うぜ」
それを聞いた篠原は、不意にこう呟く。
「……子育ての経験はありません」
所長は苦笑した。「んなこと知ってるよ」と答え、身体ごと篠原に向き直る。
「あんたに期待しているのは子守りじゃない。分かるだろ? コイツは世界初のクローン、被検体4号。あんたの研究対象だ」
篠原は、自分の腕の中で無防備に眠っている少女を見つめた。クローン、被検体、研究対象。そんな言葉は、このあどけない少女にはまるで似合わないように見える。
「なぜ、私に?」
篠原は戸惑いつつ聞いた。
「私の専門分野は心理学で、クローン技術とは一切関係が……」
「だからあんたなんだよ」
「はい?」
篠原は、思わず素っ頓狂な声を上げた。所長は、呆れたように溜息をつくと、説明を始める。
「人工的に生み出されたとはいえ、コイツも人間だ。俺らと違って、コイツの生成過程を知らない人間の方が、ちゃんと人間として扱ってやれるんじゃないかと思ってな。あんたが心理学者だというのもなかなか良い。研究面も、任せられそうだろ? クローンの心理。どうだ。興味が湧いてこないか?」
「……え、ええ。まあ」
篠原は曖昧に答える。所長の理論は、理にかなっているように見えて、それでも理解できない。その時、不意に少女が篠原の腕の中で身を捩った。
「あっ、ご、ごめん……」
子供を抱いたことなどほぼ初めてに等しいのだ。もしかしたら、どこか痛かったのかもしれないと思っても、どうしたら良いのか分からない。篠原はたじろいだが、その時少女はパッと目を開けた。
少女と目が合い、篠原は思わず言葉を失う。
雪のように白い瞼の下から覗く、真っ赤な瞳。こちらを真っ直ぐに見つめるその色は、髪や肌の白以上に、少女の異質さを際立たせ、得体のしれない恐怖感のような感情を篠原に抱かせた。この色素異常が〈呪い〉と呼ばれるわけを、篠原は理解してしまう。少女はやはり、見る人に得体のしれない禍々しさを感じさせた。
「ふ、ふわぁ……」
不意に、少女が小さな手を広げて、言葉にならないような柔らかい声を漏らした。
「えっ、な、なんだ?」
篠原は再び動揺して、困ったように問う。しかし、少女は小さくあくびをすると、また瞳を閉じてしまう。所長は、また苦笑して篠原にこう声をかけた。
「子供っていうのはそういうもんさね。一挙一動に意味があるわけじゃない。とはいえ、上手く意思を伝えられない分、サインらしきものをこっちが見取ってやらなきゃならねー時もある。臨機応変にだ。初めのうちは慣れんだろうが、すぐに分かる。ということで、頼むよ」
本音を言ってしまえば、上手くやれる自信は全く無かった。この意味の分からない生き物を、自分がどうにかしなければいけないなんて。
篠原は、しばらく黙り込んで思案した。少女からは、程よい重みと温もりが腕を通して伝わってくる。脳裏に過るのはあの赤。篠原は溜息をつく。
「……受けさせていただきましょう。その代わり、どうなってもあなたが悪い。私に任せる決断をした責任は取ってくださいね」
所長は「分かってるよ」と気楽に言った。少女は、何も考えずに、ただ篠原の腕の中で眠っている。外も、珍しく静かだった。雨が降りそうなもので、デモ隊が引き上げたのかもしれない。
篠原は、少女をしっかり抱えなおすと、軽く頭を下げて部屋を出た。廊下を歩く足取りは、子供一人分だけ重かった。
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