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Ⅲ
自分が間違っていると思ったことは一度もなかった。
あの少女を研究対象として自分の監督下においたあの日から。
篠原の方針は、恐らく所長の思惑とはかけ離れたものだったと思う。それでも、所長は何も言わなかった。あんたの思うようにやってくれ、と言う言葉の通り、篠原が要求した設備や予算は全て叶え、それ以上のことはしなかった。彼は何を思っていたのだろうか。篠原は、自分の方針に対する所長の意見を一度も聞いたことが無い。——否、所長だけに限らない。誰も、篠原には意見しなかった。彼らは恐らく、呪いを恐れているか、それに嫌悪感を抱いているかのどちらかで、関わりたくないと思っているだけだろうが。
「……研究成果披露?」
「ええ、約1か月後に」
その日は、突然やってきた。篠原は、データ資料の紙束をバサリと取り落とす。
「そんなの無理だ。呪いだなんだで、こんなに世間が殺伐としているんだぞ。こんな時に……あの子を、4号を連れだすことなんてできるか」
震える声で言って、篠原は後退った。しかし、目の前の男は淡々と言う。
「とはいえ、もう限界なんですよ。篠原先生、このクローン生成プロジェクトに、どれほどの税金がつぎ込まれているかご存じですよね。少子高齢化対策という名のもとでやっている以上、確実な成果が必要とされています。初めて生成に成功し、順調に育っている検体4号。成果として発表するには、もう充分です」
「……もう少し、待ってくれないか。あの子が、傷つかずに済むほど大人になるまで。今は駄目だ。学会なんかに連れてなど行くものか」
篠原は唇を噛んで、睨みつけるような激しい視線で目の前の男を見据えた。学会から来たその男は、溜息を吐くとこう言った。
「篠原先生、あなた、5年前も3年前もそう言っていましたよね。4号、確か今10歳とかでしたっけ。もう充分だと思いますよ。こっちだって10年待った。これ以上は待てません」
「……たった、10歳なんだ」
「篠原先生」
「頼む。後5年、後5年は待ってくれ」
篠原は、男に向かってそう言って頭を下げる。すると、男は急に声音を落として、諭すように話し出した。
「篠原先生、あなたが4号を外に出したくないのは、彼女を傷つけたくないからなんですよね。たかが人工生命の被検体感情移入し過ぎているのもどうかと思いますが、今はそれ以上に。あなたの理論には、数多くの矛盾がありますね? 自分で分かっていますか?」
男の言葉に、篠原は答えなかった。ただ拳を握り締めて黙り込み、床の1点を見つめる。男はまた溜息を吐くと、そんな篠原には構わずに続けた。
「あなたは、被検体に対して過剰な情を抱いている。それでいながら、4号を狭い部屋に閉じ込め、1日1回のデータ採取を除いて外部との接触を絶ち、孤独な状況に置いていた。知識や教養は学ばせているようだが、接する相手があなただけでは使うタイミングもない。あなたは一体、4号をどうしたいんです? 幸せにしてやりたいというのなら、このまま彼女を閉じ込めておいても仕方がないと思いますがね。所詮は素人の感想ですが、私にはあなたが理解できません」
無意識に、身体が震えていた。初めてぶつけられた否定。自分は間違っていない、それは確かなはずだったのに、篠原は動揺を抑えられなかった。
「……出て行ってくれ」
篠原は、かすれ声で言葉を絞り出す。
「分かった、考えるから、今は帰ってくれ。……頼む、から」
「ああ、図星でしたか? 篠原先生」
男が、にやりと笑みを浮かべた。その不愉快な声に、篠原はハッと顔を上げる。男と目が合う。その瞬間、やるせない怒りの感情がふつふつと湧いてきた。篠原は無言で床に置いてあった男の鞄を取り上げると、それを男の胸に押し付けて言う。
「研究成果披露の件は承知した。今後何かあればメールでいい。もう来るな」
声の震えを隠そうと必死に言って、篠原は思わず男に背を向けた。これ以上向き合っていたら、自分が何を言い出すか、何をしだすか分からない。ガタッとドアの閉まる音がして、男が去ったことが分かる。それでも篠原はしばらくその場を動かなかった。
「私は……間違ってない……」
篠原は、自分に言い聞かせるように呟く。一人の部屋、空気は冷たい。顔を上げ、すっと浅く息を吸い込んだ時、不意に机の上の資料が目に入ってしまった。
急上昇する数値。学会の男の言葉を、唯一裏付けることのできるそのデータを、篠原は思わず机の横のごみ箱に投げ入れる。
このデータが無ければ、篠原もここまで追いつめられることは無かっただろう。それは、彼女が今までやってきたことの全てを否定する数字だった。
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