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「そと?」 「うん。このドアの向こう側だ」    男の訪問から数日後。篠原は、いつもの検査室で少女と向き合っていた。 「先生は、私に外に行って欲しいの?」    赤い澄んだ瞳が篠原を見上げる。降り積もったばかりの雪みたいに、汚れを知らない純粋な白。少女の見た目は、そのまま少女の内面と重なる。 「……そうだね、外。行ってみたいと思わないか?」    今自分がしていることは、明らかに少女の自分への信頼の利用だった。外で何が待ち受けているのかも、自分が外の人々にとってどんな存在なのかも知らない少女に、唯一信頼できる人間である篠原の誘いを断る理由は無い。    篠原は今、目の前の幼気な少女を騙している。    たとえそれが、最終的に彼女の幸せに繋がるだろうと信じても、篠原の胸はキリリと痛んだ。 「外……外には、何があるの?」 「私が今まで君に教えたもの全部さ。君が綺麗だと言った花も、見てみたいとと言ったレンガの建物も、全部外にある。私が、全部見せてあげる。君が望むものは、全部叶えてあげる、だから……」    どうしても、少女と目を合わせることは出来なかった。その代わりに、篠原は明るい声音で早口に言った。少女は、篠原らしくないその口調を怪訝に思ったか、首を捻った。 「先生、先生は外が好き?」  少女の問いかけに、篠原は一瞬言葉に詰まる。しかし、すぐに顔に微笑みを佩いて「好きだよ」と答え直すと、篠原は少女の小さな手を握って言った。 「この殺風景な部屋は世界のほんの片隅で、外にはもっと綺麗で自由な空間が広がってる。外の方が、君は幸せになれる。ここにいては出来なかったことが、何でも出来るからね」    嘘はついていない。だが、こんな甘い言葉が自分からスラスラと出て来るというのは何だか信じられなかった。篠原は一度息を吸い込んで、握った少女の手に視線を落としながら続ける。 「だから、私は君に外へ行って欲しいんだ。君の世界は、この部屋だけじゃない。私だけじゃない。それを、知って欲しい」    最後は、僅かに声が震えた。それでも、ここまで言い切れたことに篠原はほっとした。    少女はこちらを見上げて、今言われたことを静かに考えていた。    外の音も、光も通さない静かな部屋。隔絶された空間に、二人だけ。今までの当たり前が揺らいでいく感覚。    少女は、不意に下を向くと、一言小さく呟いた。 「……嫌」    篠原は、ハッとして目を見開く。少女を見る勇気は無かった。 「嫌、……って。外に行くのが、嫌だと言うのかい」    篠原が聞くと、少女ははっきりと頷いた。そして、突然篠原に抱きつくと、その小さな手を篠原の白衣の背中にぎゅっと回した。 「私、先生が好き。先生と、離れたくない。狭い部屋でもいい、ずっと先生と一緒がいい」    柔らかい声。耳元からダイレクトに伝わってくる言葉。    篠原は、されるがままに抱き締められ、少女の温もりを感じていた。    じきに彼女の心の中に浮かんできたのは、取り返しがつかないという焦りと、かすかな喜び。こんなつもりでは無かった、こんなはずでは無かった……。上昇するグラフの曲線が頭を過る。篠原は、ゆっくりと自分の手で少女の身体を抱き返した。 「ごめん……。でも、きっと君は知らないだけだ。君は、この場所しか、この生活しか、私しか知らない。だから、これが本当に幸せかを判断することもできない。外は……きっと良いところさ。私よりも、君を正しく愛してくれる人が居る」    自分も、確かに少女を愛していた。愛するべきでは無かったのに。ましてや、愛させるべきでは無かったのに。 「それでも、嫌なの。外に出たら、たくさんの人がいるんでしょう? だからって、きっと先生は私を離れちゃうんだ。私、先生以外の人なんて要らないのに。先生と離れたら悲しい!」    少女が叫ぶ。その最後の言葉に、篠原はすっと目を閉じた。それは、自分の方針の失敗を、 確実にする言葉だった。 「君に悲しいという感情は無い。君は人間じゃなくてクローンだから。感情も意志も持たない。君が何かを感じているのなら、それはきっと勘違いだ」    篠原は、すっと少女の腕を振りほどいて、冷たい声で言い放った。 「君は人間じゃない。人工的に作られた生命だ。私たちとは違う。何も感じない、何も思わない……分かったか?」    その言葉に、少女は唇を震わせてぎゅっと下を向いた。篠原は厳しい表情でそんな少女を見下ろす。長いこと、緊張を含んだ沈黙は続いた。それを破ったのは少女だった。 「……じゃあ、先生。私に悲しいっていう気持ちが無いなら、どうしてこんなに胸がきゅってするの? どうしてこんなに苦しいの? 私、息ができなくなりそう。悲しいじゃないなら、これはなんなの……?」 「勘違いだ。全て。一度落ち着きなさい。すぐに収まるはずだから」    篠原は、床に膝をついて視線を合わせると、少女の両肩を押さえて強く言う。少女の赤い瞳がぼやけて揺れる。必死にこちらを見つめる少女の瞳からは、涙が溢れてきていた。 「収まらないよ……! 先生、私病気なの? だったら外になんて出さないで。先生が直して。直してくれるまで、私どこにも行かない……」    少女が叫びながら泣く。涙をぬぐうこともせずに、絶望を小さな身体中で訴える少女。篠原は、突然声を荒げた。 「いい加減にしなさい!」    初めて聞く、篠原の怒声。少女はびくりと身体を震わせて、黙り込む。こちらを見つめる瞳の中に、恐れの色が潜んでいた。篠原は、込み上げてくる気持ちをぐっと抑えて立ち上がる。 「……君が言ったんだろう、自分が何かくらい知っていると。君はクローン、人工生命。分かっているのなら、そういうのは勘弁してくれ」    篠原は、廊下に出ると、背後のドアをバタリと閉めた。    廊下の窓から見える外では、雪が降っていた。少女のように真っ白で、自分の心の中のように冷たい雪。篠原は、窓に寄りかかって泣いた。自分が許せなかった。    クローン人間は、アンドロイドではない。遺伝子も構造も、全て人間と同じ。感情が発生するのも、ごく自然なことである。しかし篠原は、それを否定した上で少女を育てた。クローン=人工生命。感情も、意志も存在しない。そう何度も教えこみ、外界との接触を遮断し、極力慣れあうのは控えるようにした。    篠原は、少女を愛していた。得体のしれない少女をこの手に抱いて、戸惑いつつも育てたのだ。愛さずにいるのには無理がある。愛していたからこそ、傷つけたくなかった。世間に呪いだなどと強く拒絶されているこの少女に、絶望を味わわせたくなかった。    だから——殺した。少女の中の感情を、殺すことで絶望から守ろうとした。いつか来る、少女が全ての非難の矢面に立たされる日。そんな日に少女が苦しまなくて済むように。    そんな篠原の思惑が狂い始めたのはいつ頃だっただろうか。    篠原が欠かさず測っていた脳波データ。いつからか上昇の動きを止めなくなっていったそれは、少女の感情の動きだった。篠原の一挙一動でグラフが変化する。昔は下の方をほぼ横ばいに動いていたというのに、今では常に上の方で波線を描いている。「もっと先生と話していたい」「離れたくない」、言葉の端々からもそれははっきりと感じられた。    なぜ、こんなことに……。こんなはずじゃなかった、というには、自分で分かり過ぎていた。もっと上手くやれたはずだと。自分は甘かったのだと。    激しさを増す雪。透明なガラス一枚を隔てて、篠原にその吹雪は届かない。
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