10人が本棚に入れています
本棚に追加
Ⅴ
それから数日。
篠原は、少女の部屋に行かなかった。遠隔で集められるデータだけ集め、ただ一人研究室に引きこもる。学会に提出する資料も作らなくてはならなかったし、雑務は山のように溜まっていた。もちろん、少女の部屋に行かない理由はそれでは無いはずだったが、篠原は無言で淡々と書類仕事をこなしていった。
研究披露会が、いよいよ明後日に迫った日。発表原稿の推敲をしていた篠原に入ったのは、予期しない知らせだった。
「4号が脱走しました」
若い研究員が、篠原の部屋に駆け込んでくる。
「……脱走?」
「はい。掃除ロボットを入れようとしてモニターを見たら、部屋が空っぽで……それで……」
研究員は完全に動転していた。慌てたように、自分のせいではない、と言い訳を繰り返す彼の声を、篠原は聞いていなかった。
「今すぐ探せ」
篠原は低い声で研究員に指示を出す。
「あの部屋のドアはオートロックだ。外側からの。4号が一人で開けたとは到底思えない。誰かに連れ出されたのならまずい」
すると彼は、首を繰り返し縦に振って、
「もうみんなで探してます!」
と答えた。すると、篠原は何も答えずにパッとコンピューターを閉じると、白衣のまま研究室を飛び出した。
廊下に出て、どちらを探すか一瞬考える。篠原は、研究所のエントランスに向かって走った。自分が注意を払わなかった間に、少女が消えた。後悔と恐怖に、篠原は吐き気を覚える。あれほど拒否していた少女が、一人で外に出るとは思えない。もし誰かに連れ去られたのなら、その者はほぼ確実に少女に害をなすだろう。
篠原は、エントランスから研究所の外に飛び出した。雪は降っていたが、そこまでひどくは無い。しかし、そのせいで、今日はデモ隊が、大通りのすぐ向こう側に群がっていた。
「クローン研究は生命倫理に反している。即刻中止しろ!」
「研究所を閉鎖するんだ!」
「我々の世に呪いのクローンなんぞ持ち込むなっ!」
篠原は、肩で荒く息をしながら、デモ隊たちの叫びを聞いた。薄いワイシャツと白衣だけ、凍えそうな寒さの中で、聞いた彼らの言葉。どれだけ理不尽だったとしても、篠原には耐え難かった。もし、少女がこれを聞いていたら。彼女は、この言葉の意味を理解しただろうか。
「あんたたちに……」
篠原は、ぎゅっと拳を握り締めて呟いた。今は彼らに構うより、少女を探しに行く方が先決だ。しかし、篠原はどうしても湧いてくる怒りを抑えられなかった。デモ隊は、往来の人々に呼びかけるのに必死で、エントランス前に立つ篠原には気付いていない。篠原はそんな彼らを見据えると、凍てつく空気を精一杯吸い込んで、大声で叫んだ。
「あんたらに何が分かる……! 倫理だなんだ言うんなら、あんたらと同じ命を呪いだなんて呼ぶなっ! 呪われてんのはあんたらの方だよ。そこで騒ぐだけで、何も知ろうとしない、理解しようとしない! そんなあんたたちに、正義の味方面であの子を傷つけさせてたまるかっ! さっさと帰れ! ここから、……出て行け……!」
肺が、喉が、ひりつくように痛んだ。雪の積もった地面の上に、篠原はくずおれる。身体を二つ折りにして、篠原は泣いた。悔しくて仕方がなかった。この不条理な世の中も、不甲斐ない自分も。
篠原の叫びに、デモ隊は呆気にとられたように静まり返った。雪がしんしんと降る。風の音だけが、彼らと篠原の間を吹き過ぎる。篠原は、顔を上げなかった。しばらく経つと、静けさの中からはざわめきが生まれた。「あれは誰だ」「一体何なんだ」と囁きあう声。篠原にとっては、耳障りでしかなかった。しかし、その声はどんどん高くなる。篠原の言葉が響いた気配は無く、彼らは篠原にも聞こえる声で、
「此奴、ここの研究員か?」
「呪いの魔女だ……」
などと言い合っていた。地面に着いた手が、冷たく凍り付いたように感覚を失う。篠原がまた一粒涙を零した時、突然、高い澄んだ声が響き渡った。
「先生!」
半袖のワンピースに裸足の少女。雪と同化してしまいそうに真っ白な彼女は、研究所の後ろから転がるように駆けてきた。群衆が息を呑む。篠原は、恐る恐る顔を上げた。
「……どこに、居たんだ」
掠れた声で、篠原は呟く。少女は、問いに答えようと口を開いたが、次の瞬間、何も言えずに顔を歪ませた。赤の瞳に、涙が盛り上がる。少女は声を上げて泣き出した。激しくしゃくりあげる合間に、少女は謝った。
「ごめんなさい、先生……! ごめんなさい。あのね、私、私が外に行きたくないって言ったから、先生怒って来てくれなくなっちゃったのかと思ったの……。私、先生に嫌いになって欲しくなくて、それで……それで、自分で外に出たの……」
少女の言葉に、篠原は言葉を失った。ただ少女を見つめて、篠原は彼女に手を伸ばす。震える手で、篠原は少女を抱き寄せた。ぎゅっと強く、かじかむ手に込められる最大限の力で、篠原は少女の冷えた小さな身体を抱きしめた。少女は、「ごめんなさい」を小さな声で言い続ける。篠原は、何も言えずにただ少女の背中を軽くとんとんと叩いていた。
「……どうやって外に出たんだい」
しばらくして、篠原は微かな声で聞いた。他にも今言うべきことはありそうなものを、口をついて出たのはそんな問いかけだった。
「検査のロボットが出て行く時に……ドアが閉まらないようにって、バインダーを挟んだの」
「そういうことか……。賢いね、君は」
「……ごめんなさい」
少女はまた、震える声で謝った。しかし、今度は、その声に被せる様に篠原が言う。
「謝るのは、私の方さ」
込み上げてやまない安堵と罪悪感の片鱗。篠原は、言葉探しに時間をかけた。一番伝えたい言葉を彼女が探す間に、少女は顔を篠原の肩にうずめた。お互いの触れ合っている場所だけがほんのり暖かい。
周りにどれだけ人が居ようと、雑音があろうと、この瞬間とこの空間は二人の物だった。強くなり始めた雪が、二人を庇うように、群衆の視界を遮る。
「……ごめん。私は、君を騙しただろう。ずっと秘密にしていたこともあった。言い訳になんてならない。でも、全部、君を傷つけたくなくて……それでやったことだったのに。許してくれ、なんて虫が良すぎるか。すまない。私は、本当に、ただ……」
「先生」
「私は、最悪な人間だ。君を……君を引き受けてはいけなかった。結局、最悪な方法で君を傷つけた。君を育てるのに、私は適任では無かった。……絶対に」
紡がれる懺悔の言葉。途切れることなき奔流のように、心からの後悔が口をついて溢れた。
「……先生」
少女が、柔らかい声で呼ぶ。
「……ごめん」
「先生、いいの。私、それでも先生のこと大好きだよ」
「そんなことを言われる資格は無い」
「先生は、私を呪いだなんて言わない。私を好きって思ってくれてる。そう、でしょう……? だから、好きなんだよ」
もう、どうしようも無かった。この期に及んでまで、篠原には少女の声が愛おしくて、向けられる親愛が、嬉しくて堪らなかった。
「……私も好きだ。君の髪も、瞳も、全部好きだよ」
少女が篠原のところに駆けて来るまでに、何を聞いたかは分からない。だが、彼女の存在は決して呪いなんかじゃない。篠原にとっては、奇跡だと。それだけ、はっきり伝えたかった。
「……ふふっ、先生ったら」
少女は、涙声で笑った。
「分かってるよ。私は先生が好き、先生は私が好き。私には、好きって感情が分かるみたい」
「当たり前さ。だって君は……」
篠原は身体を離して、少女の瞳を見つめた。
「君は、私と同じ人間だからね」
最初のコメントを投稿しよう!