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Ⅵ
学会へ向けた研究成果披露は、クリスマスイブの夜に終わった。紺のスーツに身を包んだ篠原と、同じ色のワンピースを着た少女。会場のホールがあった建物から手を繋いで出てきた二人は、外の空気を吸い込んだ瞬間、同時にはあっと息を吐いた。
「……すまなかったね。あんまり非常識な行動は取るなと事前に注意はしておいたのだが……どうも、上手く指示が行き届いていなかったようだ。怖かったかい?」
「ええっと……ちょっとだけ。でも、先生かっこよかった! ずっと手を繋いでくれてたし、私は大丈夫」
「そうか。まあ、何はともあれ終わってよかった。嵐も過ぎれば何ともないものだね」
雪の中で、泣いたあの日。篠原は、どんなことがあっても、自分が少女を守って見せると決意した。愛して、愛されてしまったのなら、それを盾にするしかない。彼女にとって唯一の存在である篠原が、彼女を信じていればいい。誰に何を言われようと、篠原が少女の前に立てばいい。学会は案の定混乱を極めたが、篠原はどんな意見にも動揺することなく、反対派の声を捌き切った。否、捌き切ったは違うかもしれない。時にはただの感情論で、悪質な質問者を怒鳴りつけていた篠原だったから、研究発表というのは形無しである。だが、そんなことは少女にとっての問題ではない。自分の信じる人が立ち向かってくれるのなら、恐れる必要などなかった。
「……さて、これからどうしよう。また雪も降りだしそうだし、帰ろうか?」
篠原が少女に聞く。すると、少女は首を横に振った。
「私、もうちょっとだけ外に居たいな。……あのね、先生。私、初めて外に出た時、先生は嘘つきだって思ったの。外は綺麗でも、素晴らしいところでもなくて、すごく怖いところだと思っちゃったから。でも……今は違う。ここに来るまでに、先生と見た外は、綺麗だった。私、もうちょっとだけ見てから帰りたい」
少女の言葉に、篠原はふっと微笑んだ。
「嘘つきの汚名返上か。じゃあ、とっておきの綺麗なものを見せてあげよう。おいで。少し歩くから、抱っこしてあげる」
篠原は、少女を抱き上げる。そして、突然自分のマフラーを少女の頭から被せた。
「せ、先生!? なんも見えないよ!」
「そのままにしておいで。いいよと言ったら取るんだ。いいね?」
篠原は、明るい声で言って、早足で歩きだす。少女はわくわくを隠せない様子で、何も見えないにも関わらず、身体をゆらゆらとゆらしていた。
「……さて、確かここらへんに……あっ、あれだ!」
しばらく歩いた後、篠原がそう声を上げた。
「えっ、どれ!?」
少女が、バッとマフラーをよける。
「あっ、こら! まだいいよとは言ってないぞ」
「先生! もしかして、あれのこと!? 信じられない……」
篠原が冗談交じりに怒って見せると、少女はそれには反応せずに、両手で口を押えて、目を見開いた。少女の赤い瞳に映るのは、色とりどりのライトに飾られたクリスマスツリー。駅前のそれは、見上げないと頂上の星が見えないくらいに大きかった。
「こんなに綺麗なモノ、私初めて見た……。先生、これ、すっごく眩しい。キラキラしてて……それで……」
「びっくりしたかい。一年でこの時期にしか見られない特別なものだよ。だから、特に綺麗なんだ」
篠原は、優しい声で説明する。少女は、篠原の腕から飛び降りると、目を輝かせて、よりツリーの近くへと走って行った。
「気を付けろよー! 誰かにぶつからないように……って!?」
篠原はのんびりと忠告の声を上げたが、それは確実に五秒遅かった。少女は誰かにぶつかって、その場に転んでしまう。
「大丈夫か!」
慌てて駆け寄って、篠原は少女を助け起こす。次に、パッと少女がぶつかった人を見ると、それはサンタクロースだった。
「元気なお嬢さんだねぇ。前はしっかり見た方が良いが、元気な子は嫌いじゃないぞ」
恐らく、イベント用にコスチュームを着た一般人だとは思う。優しそうな老人のサンタクロースは、豪快に笑って言った。しかし、篠原は内心でまずい、と焦る。彼は、少女の容姿に気付いていないのだろうか。
「すみません。以後、気を付けさせます」
早口で言って、篠原は無意識に少女を背に庇う。しかし、サンタクロースは、そんな2人にこう言った。
「お嬢さん、雪みたいに真っ白で素敵だねえ。赤い目も、私の服とお揃いだ。どうだ、今年は私のプレゼント配りを手伝わないかい?」
「えっ……」
思わぬ言葉に、声を漏らしたのは篠原だった。目の前で優しく笑うサンタクロースは、純粋そのもので、その瞳には少女を嫌悪する色が見えない。
「ぷれぜんと配り……?」
少女は、それが何なのかも分からないと言ったように首を傾げる。するとサンタクロースは、ひげだらけの顔をまた笑顔でいっぱいにして答えた。
「そうだよ。でも……、いくら素敵なお嬢さんとはいえ、子供たちにサンタクロースのお手伝いを頼むわけにはいかないね。トナカイたちに怒られるか。ほっほっほ。ごめんな。この話は無しにして、今日は早くお布団に入るんだよ」
「うん、分かった」
サンタクロースの優しそうな雰囲気にほっとしたのか、少女は素直に頷いた。
「おお、良い子だ。さて、良い子にはプレゼントが来るという決まりがある。お嬢さんは何が欲しいかな?」
「何が欲しい、か……? 分かんない」
「おや、そうかい。じゃあ、もう少しだけ考えるといい。眠るまでに決めればいいからね。おっ、そうだ。お嬢さんの名前は何だい?」
サンタクロースの問いに、篠原はハッとする。
「あの、この子の名前は……」
「よんごう?」
「ああ、えっとね。それは名前ではないんだ」
篠原が言うと、少女は言われた意味が分からないというように黙り込む。篠原は、困ったように言葉を探したが、その時サンタクロースが言った。
「おお、良いことを思いついたぞ。お嬢さんは名前をプレゼントにもらえばいい。さて、どんな名前が良いかな?」
篠原と少女は、顔を見合わせた。しばらくの沈黙の後、少女が篠原にこう問いかけた。
「ねえ、先生。この綺麗なものはなんて言うの。私、これと同じ名前がいいな」
「これ? これは、クリスマスツリー、だが……」
「じゃあ、それで決まり! その名前を私にちょうだい!」
無邪気に笑う少女に、篠原は思わず呆気にとられる。しかし、次の瞬間わっと笑い出した。
「それは長すぎるんじゃないかな。なんだか、呼びづらそうだ」
篠原が言うと、少女は釈然としないながらも「そっか」と呟く。
「先生の名前、四文字だもんね」
「私の名前は三文字だが……? ああ、せんせいは名前じゃないぞ」
「えっ! じゃあ、私、先生の名前、知らない……?」
少女は、強い衝撃を受けたように後退る。篠原はふふっと笑って、かがみこむと、はっきりした声で言った。
「私の名前は篠原美玲。これからは、名前で呼んでくれても構わない」
「しのはら、みれい?」
少女は、ゆっくりと噛み締めるようにその名前を発音する。篠原がうなずくと、少女はパッと嬉しそうに表情を明るくした。
「なーんだ! 先生の名前も長いんだね。じゃあ私もそれでいい。くりすま、すつりー! 私の名前、くりすま、すつりーにする!」
「……そういうことじゃ、ないんだけどね」
「え……? 違うの?」
ちぐはぐな二人の会話に、サンタクロースが「ほっほっほ」と深い声で笑う。
「私は良いと思うがねぇ。まあ、でも、普通の名前じゃないのは確かだ」
「そうなの?」
「ああ。じゃあ、クリスマスツリーを軸にもう少し違う名前を考えようか」
サンタクロースはそう言って篠原を見る。下を向いて、何やら考え込んでいた篠原は、ハッと顔を上げると、静かな声で呟いた。
「……ひかり」
少女とサンタクロースが顔を見合わせた。
「ひかり? 私の名前?」
「ほおほお、クリスマスツリーのキラキラから取ったんじゃな」
サンタクロースが満足げに言う。篠原は少女に手を伸ばすと、もう一度その胸の中に抱き上げて言った。
「君の名前はひかり。どうだろう。もし嫌だったら、他にも考えるが……」
篠原の言葉に、少女は澄んだ瞳で篠原を見つめた。クリスマスツリーのひかりが、彼女の赤い瞳に反射してきらめく。
「私の名前は……ひかり」
少女は、そう口に出した。そして次の瞬間、両腕を篠原の肩に回して、彼女をぎゅっと抱き締めると、「うん。私はひかり!」と歓喜の声を上げた。
「決まりだね。……ひかり、生まれてきてくれてありがとう。これからもよろしく!」
冬の空に、篠原がそう叫ぶ声と、鈴の音のような少女の笑い声が響く。空からは、それに答えるように雪がひらひらと舞い始める。
永遠に続けばよいのに、と思うほどに幸せな時間だった。しかし、二人は聖夜にそれを願ったりはしない。
この瞬間が、このクリスマスイブが終わっても、二人の人生は続いていく。
その未来に、どうか祝福を。
進む道の先に、光が溢れますように——。
「さて、帰ろうか……ひかり」
「うん。先生……じゃなくて、しのはらみれい?」
「美玲でいい」
「じゃあ、みれい!」
元気の良い声に、篠原は思わず頬を緩める。
少女を——ひかりを抱いて、クリスマスツリーを背に歩き出す篠原。
不意にひかりが、
「あれ、赤い服のおじさんは?」
と聞いたので、篠原はハッと振り返った。そこには、静かに点滅して輝くクリスマスツリーがあるばかり。サンタクロースの姿は、いつの間にか消えている。
「……君にプレゼントを届けたから、そりに戻って次の子供のところへ向かったのかもしれないね」
篠原はそう呟いて、ふっと息をつく。
(まさか、本物のサンタクロースじゃあるまいけど……)
一瞬、科学者らしからぬ考えを抱いてしまった篠原は、慌てて首を振る。
「私、お礼を言ってない」
「ああ、私もだ。でも、サンタクロースになら、どこからでも聞こえるはずだよ。今言ってみるかい」
篠原とひかりは、クリスマスツリーの頂上を見上げて、声を揃えて言う。
「「ありがとう! メリークリスマス!」」
その声は、雪の降る夜空を真っ直ぐに伝わった。かすかに鈴の音が聞こえたのは、きっと気のせいだろう。それでも、二人は何も言わずに微笑んで、また帰路を辿り始める。
クリスマスイブの夜が、ゆっくりとふけていった。
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