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その男の未央の腕を掴む手が強くなった。
ヤバい。未央は思い切り身体をよじった。
「挿入るのは違反です」
「ごめんごめん。わざとじゃないよお、あまりに濡れてるから間違って入っちゃうところだったっていうか?」
男は悪びれずにそう言った。
絶対嘘だ。じゃなきゃあんな押さえつけるように力なんか入れない。しかも〈濡れてる〉ってなんだ? ローションに決まってるのに。未央は不機嫌な様子を隠さなかった。態度や顔にこそ出さないけれど、身体は敏感に反応する。それを察知してか男は「じゃあ口でいいよ」と投げやりに言った。
化粧が崩れるから顔射はNGにしてるのに。男はこれみよがしにわざと発射寸前に口から引き抜いて、未央の顔にぶっかけた。男なりの反撃なのかもしれない。今日はもうこれで終わりだからいいものの、次が入っていたらさすがにキレていたところだった。
男は発射するとすぐにソファに座ってスマホを取り出し、煙草に火を点けた。
「さっさとシャワー浴びてきて。もう帰っていいよ」男は顔も上げずにそう告げた。スマホを絶えずスクロールしていた。このあと他の嬢を呼ぶんだろうとぼんやりと思った。
顔と身体を丹念に洗ってなるべく手早く済ます。化粧をする時間はなさそうだった。未央は慌てて服に着ると、身支度を整えた。
「失礼します」シャワーを浴びる前と全く同じ姿勢の男に、一応声をかける。返事はなかった。未央は仕方なく靴を履き、部屋を出ようとした。お金はすでにカード払いで決済している。
「君さあ、もういい歳なんだからもう少し客を喜ばせようとかすれば? つまらなかったよ」
未央はカッとなったが、なんとか抑えて扉を開いた。
本番が出来なかったからといって、どうしてそんなこと言われなきゃならないんだろう。そもそもヘルスで本番は禁止だ。ヤリたきゃソープにでも行け。そう怒鳴りたい気持ちを堪えて唇を噛んだ。
ホテルの外へ出て店に電話をする。やる気のなさそうな店員が電話にでた。未央は無理矢理本番させられそうだったと店員に抗議した。
『あー、でもその人ってめちゃくちゃ常連さんなんですよ』
だからなんだというのだ。常連なら許されるというのか。今の答え方だと出禁にしてくれと言うのは憚られた。
『っていうかもっと上手くあしらって欲しいんですよねえ。他のもっと若い子はちゃんと上手くできてるよ。未央ちゃんはその子達より年上なんだからさ』
言葉は柔らかいが〈ババアなんだからもっと上手くあしらえ〉ということなんだろう。
『そういうのがやっぱりリピ率にあらわれるんじゃない? それだと〈人妻店〉に行ったらもっと苦労するよ』
未央は「お疲れさまです」とひと言返すと電話を切った。もう聞いていられなかった。
店員は〈リピ率も悪いし、そろそろ人妻店に移ったらどうか〉とあんに告げているのだ。
25歳の未央には〈ギャル店〉は年齢的に厳しかった。店には30歳を超えた嬢も在籍する。けれど彼女達は根っからのギャルなのだ。ノリも見た目も。少し古風な気質の未央とは人種が違うのだ。
未央は真っ暗になった画面を眺めてぼんやりと立ち尽くすしかなかった。
派遣の仕事を急に切られた。未央には家賃と生活費のほかに奨学金の返済があった。あまりにも急なことでどうしてもすぐにお金が必要だった。派遣会社の人も抗議してくれたが、どうにもならなかった。部長の愛人だった女がヨリを戻して帰ってきたらしい。そのかわり五万だけ最後に上乗せしてくれた。どう考えても次の返済まで間に合わない。それで意を決して飛び込んだ世界だった。それから一年。それなりにお金に余裕もできた。もう潮時なのだろうが、今度は普通の仕事に戻るのが怖くなった。だが一年やっても未央のリピート率はよくないままだった。一年続けてリピのない嬢がやっていけるほど甘い世界ではない。店を変えるかこの仕事を辞めるか。選択しなければならない時期が迫っていた。
肩にガツンと何かが当たった。
「痛……」だが道端でぼんやり立っていた自分が悪い。未央はすぐに顔を上げて謝ろうとした。
だがぶつかってきた男性は肩が当たったその場から動かなかった。
「ごめんなさい」未央は声に出して謝った。だが男性から返事はなかった。
「あの……?」男性はそのまま未央に覆いかぶさるように身体を預けてきた。
「え!?」その身体を慌てて受け止めた。足元には赤いものがぽつりぽつりと垂れていた。
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