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百夜参りの噂(3)
「で、本当に何なんだよ!」
無事定時で仕事を終え、九重と帰宅している途中、あと三百メートルで我が家に着くというところで九重は脇道の路地に逸れてしまった。慌ててついて行きながら問いただすも、答える気がないらしく九重はフラフラと路地へと歩みを進める。
余談だが、俺と九重は現在シェアハウスをしている。理由はたしか、料理が全くできない俺がコンビニ飯を食い続けた結果体調を崩し、見かねた九重がシェアハウスを提案してくれたはずだ。たった二年前のはずなのに、朧月のように曖昧な記憶に思わず自嘲の笑みを浮かべてしまう。ついに俺もボケてきたのだろうか。
「怒ったり笑ったり、ついに頭がおかしくなったのかい?」
「人おちょくるのもいい加減にしとけよ。さっさと帰って飯食って風呂入って寝てぇ」
「その食事を作るのは僕なんだから、君が帰ったところで僕が家に帰らなければ君は食事にありつけないよ」
「だから今説得してるんだろうが!」
「どれだけ説得されても無駄だけどね」
空腹が限界を迎えて叫ぶ俺の声も全く意に介さずにずんずんと突き進む九重に、仕方なくついて行く。俺は食事、風呂、睡眠の順番を崩せない人間なので、先に家に帰って風呂に入ったり寝ることができないのだ。
「今日話しただろう。『百夜参り』の噂」
「あー、なんか言ってたな」
「あれの語源となったのは、丑の刻参りともう一つあってね。百夜通いって、知らない?」
「知らない」
「だろうと思った」
クスクスと笑いながら立ち止まり、路地の壁に背を着いてこちらを一瞥してから今まで歩いてきた道の先へと視線を向ける。
そこにあったのは、真っ赤な鳥居だった。
二メートルの人物がギリギリ潜れるくらいの鳥居の先には、よくある神社の参道の石畳と拝殿が見える。
「ここは……?」
「神社だよ。ここには、小野小町がよく参拝しに来ていたって逸話があるんだ。まあ所詮は諸説のうちの一つなんだけどね」
「小野小町?」
昔実在したとんでもない美人、という程度の認識は持ち合わせているが、何故そのような人物が突然話に出てきたのか全くわからない。首を傾げて説明を促すと、九重は呆れたように肩を竦めた。俺を馬鹿だと言いたいのかお前。一般人の認識大抵こんなもんだろ。
「さっき話しただろう。百夜通いという能の作品に出てくるのが小野小町だよ」
百夜通い。能作者たちが創った小野小町の伝説で、深草の少将という人物が小野小町にたいそう惚れ込んだが小町は少将を鬱陶しく思い自分を諦めさせるために「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま百日目の雪の夜に息絶えてしまった。
「この百夜通いと丑の刻参りが語源となったと言われている噂が『百夜参り』だ。」
「で? その『百夜参り』とやらは何をさせるんだよ」
「こちらへ来てごらん」
そう言うと、九重はずんずんと鳥居の先へと突き進んだ。俺はとりあえず鳥居の前で会釈だけして九重について行った。
「へえ」
俺がついて来たことに気がついた九重は、こちらを振り返ると少し驚いたように目を見開いた。
「なんだよ」
「いや、意外だなと思って」
「何が?」
「深山は神とか信じなさそうなのに、神社での礼儀がしっかりしてるんだね」
「神社での礼儀?」
「……いや、何でもないよ」
前に向き直りまたずんずんと進んでしまった九重にその言葉の意図を問い続けることができず、仕方なく俺も再び九重について行った。
「『百夜参り』は、その名の通り丑の刻にこの神社を参り、参った証として本坪鈴を三度鳴らす。それを百夜続けると、百日目に鈴を鳴らし終えた時、悩みが叶うんだ」
「悩みを叶えるためだけに随分めんどくさいことやらせるんだな」
たかだか、何かを忘れた気がするというだけで百日もそんなことをしなければならないなんて、面倒臭いことこの上ない。そんなことをするくらいならさっさと家に帰って仕事の疲れもろとも全てを酒で流してしまった方が楽だ。
「お酒は体に悪いよ。ここなら家からさほど離れていないし、散歩にちょうどいいんじゃないかな」
俺の思考を読んだかのように話す九重に、思わず顔を顰める。最近の酒の飲み過ぎにより少しメタボになっていたのを気にしていたし、人間ドッグでも注意されたばかりだった。
それに比べて九重は、俺よりも酒に強く二人で飲むときは俺が一杯飲んでる間に三杯飲んでいるほどだ。そのくせ常に健康体で、体型も細っこいまま変わらない。これだからイケメン様は、と何度思ったことだろう。
しかし、実際に健康を気にしなければと思っていたところだ。確かに家からはせいぜい五百メートルほどの距離で、散歩にはちょうどいい。目的も無く歩くことが向いてない俺にウォーキングは無理だと思っていたが、これはその目的にするにもぴったりだ。何と無く思い出せないだけとはいえモヤモヤしていたし、所詮は根拠のない噂とはいえ気を紛らわすくらいにはなるだろう。指定時間は遅いが、十九時に帰宅して二十二時に寝て二時に起きて三時にまた寝て七時に起きれば、合計八時間は寝ることができる。
「あーもう、わかったよ! この神社に来て鈴鳴らすだけなんだな!?」
「丑の刻にね。午前一時から午前三時だよ」
「はいはい。起き損ねたら起こせよな!」
「いいよ。じゃあ早速今夜からね」
俺の投げやりな返答にも満足したように、九重は笑顔できた道を引き返す。
俺も、神社までの道を忘れないように確認しながら、九重の後を追いかけた。
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