≒WALLET

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休日に街を散歩中に見かけたカフェに私はふらりと立ち寄った。シンプルで清潔な店内、優しそうなマスター、美味しい珈琲と美味しいケーキに私の心は癒やされた。居心地の良いこのカフェに、また来ようと私は思いながらお会計を済ませようと鞄の中から財布を出そうとしたが、鞄の中をいくら探しても財布が見つからない。 財布を家に忘れて来てしまった…焦っている私に優しそうなマスターが声を掛けてきた。 「財布は、先週から持たなくて良くなったんですよ」 そうだった、と私は思った。先週から各個人の手のひらの静脈のパターンを認証する特殊なチップを手のひらに埋め込む簡単な処置を受けて、その手のひらを登録する事により(登録する手は右手でも左手でも可)お会計に置かれている特殊な機会に登録した手のひらを翳すだけでお会計が出来る、ハンドウォレットと呼ばれるお金に関する新しいシステムが導入されたばかりだったのだ。 ーハンドウォレットー 財布からお金を取り出すという手間を省くこのシステムは非常に画期的であった。財布を持たなくて良いし、財布を忘れたり落としたり盗まれる心配がない。レジで小銭を取り出すのにもたついて焦る必要も無いし、財布を開けてお金が入ってなかった事に気が付き青ざめる事もない。お金を支払いお釣りを受け取るやり取りの時間も短縮された。 手のひらにお金をチャージするのも、お金を引き出すのと同じ感覚で銀行のATMで出来る。カードやスマートフォンを利用する電子マネーの進化版がこのハンドウォレットだ。 政府は十五歳以上の全ての国民のハンドウォレットの登録を義務付け、先週からその運用が始まった。全ての国民の手持ちの紙幣と硬貨は銀行に入金するかハンドウォレットにチャージするかを選択させられ、今この国にはお金と呼ばれるものの、手で触ったり目で見たりする実体はなくなってしまっていた。ハンドウォレット運用開始後、紙幣と硬貨の使用は禁止され政府は回収した紙幣と硬貨を処理し、新たに製造する事を停止した。実体としてのお金が必要無くなったからだ。銀行に預けているお金は通帳に数字だけ記載されていれば良いし、手持ちのお金はハンドウォレットにチャージしておけば何の問題も無い。箪笥預金と呼ばれる隠し財産が無い限りは… 「そうでしたね」 実体のあるお金のやり取りをしなくて良くなった今、財布を持たなくて良くなった事にまだ私は慣れないでいた。私がカフェのレジに置かれているハンドウォレットの機械に右手を翳した時に、すぐ側に貼ってあった【本日を持ちましてケーキの販売を終了させて頂きます】の張り紙が目に入った。ピッと無機質な機械音が鳴り一瞬でお会計は終了した。何か物足りなさを感じるこの感覚にも直ぐに慣れるのだろうか。 「ありがとうございました」 「…今日でケーキは終わりなんですか」 「そうなんです、これが…」 優しそうなマスターは右手を私に向けた。ハンドウォレットのチップは高温に弱く、百度以上の高温に晒されると故障する。普通の人は手が百度以上の高温に晒される事は日常生活に於いてないのだが、ケーキやパンやピザを作る人達はオーブンや釜の高温に手が晒されてしまう。高温に手が晒される職業の人達は他にも沢山いるだろうし、そんな人達にとってはハンドウォレットは致命的に違い無かった。手は財布としての機能以外の使用をしてはいけなくなってしまうのだろうか? 家に帰り、あの美味しいケーキがもう食べれないのかと残念に思っているとテレビからハンドウォレットに関するニュースが流れて来た。 ”ハンドウォレット導入から一週間、現在ハンドウォレットに関する様々な弊害が続出しています。高温に極めて弱いシステムにより、仕事中や作業中にハンドウォレットの機能が故障してしまう事例が多数報告されおり、又、手を怪我をした人々がハンドウォレットを使用出来なくなり生活にも支障を来たしている事象も発生しているとの事です。事態を重くみた政府はハンドウォレットの運用の改善を現在検討中であると発表しました。続いて、先日起きた右手切断殺人事件の続報が入りました。犯人は依然逃亡中で、切断された被害者の右手のハンドウォレットの使用が死亡後に確認されました。殺人の動機はハンドウォレットの強奪だと見て警察は捜査を開始した模様です”
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