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交番
あれ?
ふいに男は立ち止まった。なぜ、ここにやって来たのだろうか。どうにもその理由が思い出せず、眉間に皺を寄せてみたり、視線を泳がせてみたり。
交番の前で所在なく突っ立っている男を見て不審に思ったのだろう、中から顔を覗かせた警官が声をかけてきた。
「何かお困りごとでも?」
「それが――」
答えに窮する男。警官は促すように男を交番の中に引き入れ、パイプ椅子に座らせた。
「特別な用がないと人は、交番なんかに足を運ばないものだけどねぇ」
「そうなんです……用があったはずなのに、それが思い出せなくて」
「まぁ、落ち着いて思い出してくださいな」
警官はそう言うと、仕掛りの書類整理を進めた。
「あっ」男が声を漏らす。
「思い出しました?」
「思い出したというか――忘れものをしてきたみたいです」
「忘れもの? どこに?」
「家に」
警官は目を丸くした。
「落としものを届けに交番にやってくる人は珍しくないが、忘れものをしたまま交番にやってきた人ははじめてだなぁ」
苦笑いする男。
「で、何を忘れたの?」
「――それが、家に帰ってみないと思い出せそうになくて」
「なるほど。じゃあ、忘れものとやらを持って、再び来てもらいましょうか」
横目で警官に見送られながら、男は交番をあとにした。
真っ直ぐ立っているのがやっとのボロいアパート。朽ちた鉄階段。ギシギシと音を立て、男は二階の自宅前に立つと、手慣れた手付きでドアノブを捻った。
目の前に伸びる短い廊下。突き当りにはリビング。隙間風が入らぬよう、普段は閉められているドアが開けっ放しになっており、散らかったリビングが覗いている。
目に飛び込んできた光景に男は吐き気を催した。ガクガクと震えだす足。壁についた手も虚しく、膝から崩れ落ちた。
リビングには、男の忘れものがあった。
逃げ出そうかと考えたが、思考とは裏腹に、体がそれを拒んだ。男は引っ張られるようにしてリビングまで這っていく。
そこには、苦悶の表情を残し、息絶えた男の母親が横たわっていた。
――そうだ。俺は自首するために交番に向かったんだった。
母親の体を揺すってはみたが、当然のことながら微動だにしない。事の顛末を思い出した男は、全身が硬直し、身動きが取れなくなってしまった。
やっぱり自首なんかしたくない。このまま逃げてしまえば、どこまでも逃げ続ければ、捕まらずに済むかもしれない。そうだ、逃げてしまおう。そして、誰にも知られずに生きていこう。
「ひっ!」
突如として鳴らされたインターホンの音に、男は全身を強張らせた。
――死体を目撃されるわけにはいかない。
息を殺し潜む男をよそに、インターホンは何度も打ち鳴らされる。その度に、脈が速くなる。そして、とどめを刺すように、玄関の向こうから男性の声が男を攻め立てた。
「中にいるのは分かってるんですよ。帰宅されるの、見てましたから」
あまりの恐怖に男は両手で顔を覆った。その顔面は、涙と鼻水と唾液でグシャグシャになっていた。
観念した男は、鉛のような体を起こし、玄関まで歩いていった。
「はい……?」
恐る恐る玄関ドアを開くと、そこには見知らぬ中年の男性が立っていた。
「忘れものです」
中年男性の手には、数冊の分厚い冊子。「どうぞ」と優しく声をかけられ、男はそれを受け取った。よく見るとそれは、見覚えのあるフォトアルバムだった。
軽い会釈だけを残し、中年男性はその場を去っていった。
極度の緊張から解放された男は、玄関にへたり込み、暗がりの中でアルバムをめくった。そこには、若かりし頃の母と父の姿。そして、純粋無垢な幼い男の姿。忘れていた記憶が次々に蘇る。
そこには確かに平和があった。
いつしかアルバムから父の姿が消えた。他に女をつくって消えてしまった無責任な父。その辺りから、写真に映る母は、みるみる逞しくなっていった。一冊目のアルバムでは、可憐な少女のように映っていた母。三冊目にもなると、女手ひとつで我が子を育てる、気迫を帯びた母に変わっていた。それでも写真の中の母は、いつも笑っていた。
やがて男には思春期がやってきたのだろう。カメラのレンズから目をそむけた写真が目立ちはじめ、最後のアルバムには、空っぽのポケットが連なっていた。
写真には残っていないその後の人生。
男は自らの不遇の人生を振り返る。これといった楽しみや幸せもなく、誰からも必要とされない日々。この世にいてもいなくてもいい存在。写真に残す価値などない人生を歩んできた。
そして、母は介護が必要な状態になった。
自分の人生すら満足に生きていないのに、母の介護のために削られていく人生。男はそれをひどく憎んだ。子としての義務だと諦めはしたが、自由に動けなくなった母の存在が疎ましかった。
――だから殺したんだろう?
男は自分に問い詰めた。
アルバムを手に、亡骸となった母の元に駆け寄る。そこにはもはやアルバムに映っていた笑顔はなかった。苦しみに変わり果てた母。目の前の現実から目を背けながら、男はギリギリと奥歯を噛み締めた。
あなたはなぜ、いつも笑っていたのでしょう。なぜ、辛いときも笑顔を絶やさず生きていられたのでしょう? もしかして、こんな最低な俺のことを思って――
手にしたアルバムから、ひらりと一枚の紙が落ちた。拾い上げるとそこには懐かしい母の文字。子供の頃の置き手紙だった。
『おはよう! 今日からお母さんは仕事に行かなきゃいけないから、自分で学校の支度をしてね。くれぐれも忘れものはしないように!』
男はその場に膝をつき、泣き崩れた。深い皺が刻まれた母の手を取り、強く握りしめる。冷たくなっていくその手に、なんとか温もりが戻るようにと。
後悔に押しつぶされそうになりながらも、男は気丈に立ち上がった。
「いってきます」
母にそう言い残すと、男は忘れものを胸に、再び交番へと向かった。
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