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気が付いたらアパートに到着していたと感じる程に、ただ臼井のことだけが頭を埋め尽くしていた。
着くや否や呼び鈴を押すと、ややしてドアが開いた。
中から顔を覗かせた臼井は、そこに息を切らした頼杜が立っているのを見ると、信じられないといった表情で呆然とした。
「なんで……。身体は大丈夫なんですか」
「——先生っ、先生は、俺のこと、どう思ってるんですか。俺は単純だから、先生が今日くれたもの見て、馬鹿みたいにうれしかった……っ」
問いかけられた事への返事も、挨拶も、前置きも無しに勢いよく言葉が飛び出た。先ずは息を整えなければと思うのに、次から次へと溢れ出て止まらない。
「あの日、知り合いの人と話してた時も、俺のこと見ていてくれてたんですか……? 味も、好きだって言ったの、覚えてくれてた。先生にとっては、ただそれだけのことかもしれないけど……俺は、凄く嬉しいんです」
歯を食いしばって息を継いだ。
「俺は……、俺は、先生のことが、好きだから——」
ここまで走って来る間に、告白の台詞は色々と考えていたはずだった。けれど、好きな人を前にして出て来るのは、これ以上ない程シンプルな言葉だった。
「好きです、先生。貴方のことが、凄く、凄く……」
「……」
「返事してください——優也さん」
臼井が俺じゃなくて僕と言った時、暗に境界線を引かれたと思って勝手に傷ついた。
しかしそれなら、園の関係者じゃなくなっても、臼井を先生と呼んでいた自分はなんなのか。どこか臆病になって、遠慮して、一歩引いた位置に自分から線を引いていたんじゃないのか。それを今、越えてみたいと思った。
臼井は、惚けたように立ち尽くしていた。薄く開いた唇が微かに震えている。色素の薄い瞳に光がゆらゆらとしているのを、頼杜は無言で見つめていた。
アパートの廊下に沈黙が満ちる。
「……中に」
やっと言葉を発した臼井が俯いたまま、その身をドアの内側に滑り込ませたのに続いて中に足を踏み入れる。
窓の無い廊下へと繋がる玄関は、昼間だというのに薄暗い。一人でも狭く感じる程の小さなスペースに、二人が収まった。周囲から遮られ、そこに存在するのはただ自分と相手のみだ。
すると、それまで身体を支えていた力が抜けたかのように、臼井が頼杜の胸に倒れ込んできた。
後ろ手に支えていたドアから思わず手を離してしまい、僅かに差していた光も途絶え、薄闇が二人を包み込んだ。しかしそんな中でも、胸に顔を伏せている臼井の、綺麗な形をした両耳が赤く染まっているのがよく分かった。
「——本当に?」
臼井がこちらを見上げ、絞り出すような声で問いかけた。頬を染め、切なげに寄せられた眉にドキリとする。
ところが次に続いた言葉に、そんな危なっかしい気分も吹っ飛んだ。
「常田くん、彼女がいるんじゃないんですか……」
「……!」
そうだ、あの時の尾崎の言葉を否定する機会を完全に失っていた。
「違います! あれは、貴方と連絡しているのを見られて勘違いされていただけで……彼女なんて今までいたことない!」
「そんな……」
「それに、俺はずっと、貴方を見てました。園に顔を出し始めた時から、ずっと、気になってた」
「——」
「あの日っ、公園で会った日。恋人から突き放される貴方を見て、俺じゃ駄目なのかって……受け入れてもらえるのなら、俺が側にいたいって、そう思ったら、もう見ているだけじゃいられなくなりました。それでっ……」
「——えっ?」
先程までの張り詰めた雰囲気が一変した。
「……! 違います! あの人は、父です!」
「お父さん⁈」
まさかの勘違いに、素っ頓狂な声が出てしまった。臼井も困惑している。
「えっと……何から話せばいいのかな」
「……」
「あの、よかったら取り敢えず……座りませんか」
促されて部屋に入ると、前回来た時と同じ位置に腰を下ろした。チェストの上にある遺影と目が合う。臼井のお母さんから見られているような恥ずかしさを感じて、そこから目を逸らした。
「さっきも言いましたが、あれは俺の実の父です。会うのは本当に久しぶりでした。もう別の女性と再婚しているんですよ。確かに、年齢より若く見えると周りから言われてましたけど、まさか恋人なんて……参ったな」
ふふっと笑って、臼井が遺影を見遣る。
「まだ整理していなかった母の荷物から父の物が出てきて。それを返していたんです。……でもまぁ、別に返さなくたっていいようなものだったんですけどね」
「じゃあ、なんで……」
「それをきっかけに、一度くらい母に手を合わせに来てくれるかも、なんて幼稚な期待をしていたのかな……結果はまぁ、あの時の俺を見ていたのなら分かるかと」
ライトに照らされ、項垂れていた姿が目に浮かんだ。
「勘違いしてすみません」
「いえ。でも、当たらずとも遠からずなのかも。俺の恋愛対象が男性ってことは合ってます。そのことは、母には受け入れられていたんですけど、どうも父には難しかったようで」
「……」
「疎遠になったのは、それも原因なんです」
まだ誰にも己の性的指向を打ち明けた経験のない頼杜には、なんと声を掛けたらよいのか分からなかった。
「常田くん、園に来始めた頃から、その……俺のこと気になってくれてたって言っていましたよね」
「はい」
「……俺もそうでしたって言ったら、驚きますか」
「え……」
思わぬ告白に、臼井の顔を見返した。口をきゅっと閉じ、赤く染まった顔を俯けている。
「うれしかったんです。常田くんがしてくれる全部。あんな風にプライベートでも繋がれるなんて思ってもなかった」
「それは俺も同じです。人生のラッキー使い果たしたかと思うくらい」
そんな大袈裟な、と臼井がはにかんだ笑いを浮かべた。
「俺、思いがけず嬉しいことがあったりすると、耳が赤くなる癖があって……顔に結構出やすいタイプなんで、常田くんに気持ちがバレたらどうしようっていつも冷や冷やしてました」
確かに、折に触れて臼井の赤く染まった耳を頼杜は目にしていた。てっきり寒さの所為かと思っていたが。
「正直、気持ちを伝えるのは怖くて。父に自分のことを知られた時のあの、嫌悪の表情を思い出すと……もし、常田くんにも同じ顔をされたらと考えたら、耐えられなかった」
しかし、それだけでは、あの時握った手を振り解かれた理由が分からなかった。
「俺が手を振り解いた時、きっと嫌な思いをさせてしまいましたよね……しかも、あれから避けるようなことをしてしまいましたし。すみませんでした」
考えが伝わったかのように、臼井が謝罪した。
「これは本当に、ただの自分勝手でしかなくて恥ずかしいんですが。常田くんが好意的に接してくれるのに思い上がっていたのかな……あの時、なんで彼女がいるのに自分にこんなことするんだろうって、苦しくなってしまって」
「……すみません」
「常田くんは悪くないです。……まぁ、それで諦めようと思って距離をとってはみたんですが、結果から言うと俺には無理でした。入院したなんて聞いた時は、つい母の時のことを思い出してしまって。間違いなく常田くんが生きてるって確かめたくて、メッセージ送ったり、病院にまで行ってしまったり」
「どんな理由にせよ、俺はうれしかったです」
臼井は頼杜の言葉を聞いて、情けなさそうに笑った。
「でももし母のことが無かったとしても、ああやって病院には行っていたと思いますし、なんだかんだでそのうち連絡もしていたと思います。未練たらたら過ぎて、自分でも笑っちゃいますね」
居心地悪そうに足を組み替えながら臼井は言葉を続ける。
「メッセージだって、返信を期待している癖に不要ですなんて書いてみたり。挙げ句の果てに、さよならを匂わせる手紙まで入れておいて、一体どうして欲しいんだか……いい歳して本当に、自分の行動がお恥ずかしいです」
「優也さん……」
顔を覗き込む。いつもなら柔らかなカーブを描いている唇が、自嘲的に歪むのを止めたくて思わずそこに触れた。
「……っ」
臼井が息を詰めたのが分かった。視線が絡んで、うっすらと空気が熱を孕んだ。
「そんな……俺の好きな人のことを、貶めるようなこと言わないでください」
「常田くんは優しすぎます……俺はみっともなく足掻いていただけなのに」
「例えみっともなくても、俺は貴方のことが好きです。どうすれば伝わりますか。言葉で伝わらないなら……態度で示したい」
臼井が息を呑むのが分かった。
スマートな誘い方など知らない。しかし二人を隔てる距離を少しでも無くしてしまいたいと思うと、身体が自然に動いた。顔を寄せ、額が触れ合う。顔に掛かるお互いの息が熱い。
「いいですか」
何を、とは言わなかった。言った自分自身ですら、どこまで許しを乞おうとしているのか分からなかった。
しかし言葉を続けようと口を開きかけた時、それを塞いだのは臼井の唇だった。軽く合わさり離れてゆく。目の前で、熱に浮かされたような焦茶の瞳がゆっくりと瞬いた。
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