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「前の職場でまた働けることになったの」  そう姉が報告してきたのは数ヶ月前のことだった。  デザインの専門学校を卒業後、姉は隣市の小さな会社で働いていた。輸入雑貨などを取り扱うのをメインに、自社のオリジナル製品も販売している会社で、姉はそのデザインを担当していた。  デザイナーは激務が多い業界だが、その会社は純粋なデザイン事務所という訳ではないので、その限りではなかったらしい。寧ろ労働環境としては良く、福利厚生もしっかりしていたことから、姉はこれから先、ここ以上に良い所には巡り会える気がしないとよく言っていた。  社長は自身が独立前に激務で身体を壊した経験から、「心身共に健康に、やり甲斐ある仕事が出来る場を作りたい」との理念のもと、より良い会社の形を模索している人物なのだと言う。  そういったこともあって、姉が結婚に際し、その会社をすんなりと退職してしまったことを頼杜(よりと)は意外に思った。以後は現在まで、フリーランスのデザイナーとして在宅での仕事を行なっている。  退職理由は表向きとしては結婚に伴う転居の為となってはいたが、そこには元夫の意向があったことを、頼杜は後になって知った。姉のいた会社は圧倒的に男性社員が多く、束縛する気質の彼はそれをよく思わなかったようだ。 「最終的に仕事より結婚を選んだのは私なんだけどね」  夫婦仲に翳りが出ていたと思しき時期に、姉がぽろりと溢したその台詞の、「けどね」に続く言葉は何だったのか。答えは姉にしか分からないが、そこに滲んでいたのが後悔であることだけは確かに感じ取れた。  元職場とは退職後も夫に伏せて連絡を取り合っていたらしく、今回求人が出たことを聞いたのだという。社長夫妻も、姉の復帰を望んでいた。  社長は若葉の環境の変化を心配し、給与は少なくなるが一ヶ月は時短で子連れ出勤してはどうかと提案してくれたらしい。夫人は保育士免許を持っていて過去に保育所での勤務経験もあり、自分でよければ対応するとまで言ってくれたそうだ。  社会経験の無い頼杜から見ても、そこまでしてくれる職場など普通はまず無いと分かる。姉が元夫に隠れてまで、元職場の人々と連絡を取り合っていた気持ちが分かった気がした。  そうした経緯もあり、離婚により枷のなくなった姉はかつての職場に戻ることを決意した。フルタイムでの勤務は、若葉が区切りよく四月に新しい園に入ってからのスタートにすると言う。  それからの姉は現在抱えている仕事などの整理をはじめ、新しい生活への準備を着々と進めてきた。  若葉も幼いなりに母の決意をそれとなく理解しており、戸惑いつつも受け入れようとしているようだった。  「お休みの日は遊びにおいでよ」と言うと、「よりちゃんとバーバがさみしいとかわいそうだから、いっぱいくるね」なんて笑う一丁前さが、頼もしくもなんだか少し切なかった。   「あっ、うすいせんせいだー」  いつもと同じお迎えの時間、園児の無邪気な声が耳に飛び込んでくる。若葉が靴を履くのを待っていた頼杜は思い切り振り返ってしまいそうになるのを堪え、何でもない顔をつくった。  三歳児のクラスを担当している臼井とは基本的に接点は無いのだが、玄関先に出てくるタイミングによってはすれ違える時がある。  これまでも偶に挨拶を交わす機会はあったが、今日、久しぶりにそのチャンスが巡ってきた。  若葉と手を繋ぎながら、臼井のいる方向を確認する。近くに三組程の親子がいる先、臼井がこちらに向かって近づいて来た。頼杜の前の人達が順番に挨拶していく。  あと二組……。  一組……。  可笑しなリズムを打ちそうになる心臓を押さえつけるイメージで、ぐっと腹に力を入れる。自分はいま、何でもない顔が出来ているだろうか。  頼杜と若葉の番が来た。 「さようなら」  こめかみまでドクドクと脈打つせいで、水の中みたいに自分の声がくぐもって聞こえた。  こちらを見た臼井と目が合って、心臓は更にドクンと跳ねる。  すぐに逸らされてしまったが、一瞬でも視線が交わったことに喜んでいると、体を屈めて若葉にさようならを言っていた臼井がふいにこちらを見上げた。 「——さようなら」  そう言って僅かに微笑んだ不意打ちの上目遣いに、その一瞬、息をするのも忘れた。  普段から走ることを習慣にしていてよかったと思った。  そうでなければ心臓が破裂していたかもしれない。  臼井と玄関ですれ違ったあの日、これが最後の挨拶になるのではという予感が頭を過ったが、それは皮肉にも現実となり、あっという間に若葉が園に通う最後の日を迎えた。先生方にご挨拶をしたいということで、ラストのお迎えには姉が向かった。  二月が二十八日しかないのをこんなに恨めしく思ったのは、生まれて初めてだった。  頼杜が帰宅すると、若葉はクラスの皆が作ってくれたという可愛らしい色紙を大事そうに抱えていて、その日してもらったお別れの会の話をしてくれた。 「わかばがね、かなしくて、ないてたらね、あきせんせいが『かなしくなくなる、おまじないだよ』っていってね、こっちとこっちのて、ぎゅってしてくれたの」  あき先生は若葉が一番懐いていたベテランの先生で、笑うと下がる目尻に、ふっくらとした丸顔の組み合わせはなんともいえない温かみがある。あき先生に両手を握ってもらう泣きべそ若葉を想像すると、なんとも微笑ましかった。 「でね、わかばは、だいじょうぶになったんだけどね、つぎはおともだちがね、さみしいってないちゃったの。だから、わかばもこうやって、おまじないしてあげたんだー」  若葉が頼杜の両手をきゅっと優しく握る。 「ひっこしたら、おてがみかくねって。むこうでおともだちできたら、そのおともだちとも、おともだちになろうよって。そしたら、おともだちたくさんで、さみしくないよって」  若葉は皆とのお別れを悲しみながらも、既にちゃんと前を向いていた。それどころか、もう先のことまで考えている。  きっと、今日の会が良い区切りになったのだろう。  では、自分は?  なんの区切りもないまま別れを迎えてしまった自分は、中途半端に高まってしまったこの気持ちを一体どうしたらいいのだろうか。
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