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三月最初の金曜日の夜、頼杜は住宅街を抜け、駅へと繫がる道を歩いていた。
今週、ジョギングサークルとしての活動は日曜日にあるのだが、来年度サークルを引き継いでもらう為の申し送り作業をしに後輩宅へと寄った帰りだった。
元々ずっと運動部だったこともあり、何かしら体を動かすことは続けていたかったが、拘束時間が長いのは避けたいという自分の希望に合致したのがこのサークルだった。
基本的に週一回、予定の合う者が集まって走るというゆるさで、元々は運動の習慣のない人に走る楽しさを知ってもらおうというところから始まったのだと聞いている。
とはいえ、頼杜はサークルの日以外にも個人的に走っていた。好きな時間に好きなだけ走るのは趣味であり、ストレス発散でもあった。走っている間は無心になれる。
特に最近では、報われないであろう恋に燻っている気持ちを一時的にでも頭の外に追いやってしまいたくて、走る時間はどんどん長くなっていた。
今夜も走ろうか——。
空を見上げるとキンと澄んだ濃藍に、パラリと撒かれた星達が綺麗だった。今夜は雲も無く、満月一歩手前の月がクッキリと清い光で街を照らしている。しかしその濁りの無さとあまりの清々しさが、何故だか今は頼杜の胸をもやもやとさせた。
そんな時にシャッフル再生でかかったのは、恋のままならなさを嘆く切ないラブソングで、頼杜の好きなバンドの最新曲だった。
音楽アプリは意図を持たず、単にプログラムに沿って動いているに過ぎない。しかし、偶に自分のことが見えているのかと錯覚してしまいそうな選曲をしてきて驚かされることがある。
イヤフォンから、叙情性をはらんだコード進行のメロディーが耳へと流れ込んでくる。
周りに広がっている住宅街の中にはポツポツと小さな公園や畑があって、その前を通ると水を抱え込んだ土のような匂いが鼻先を掠めた。
春の匂いだなと思った。季節は冬から春へと変わりつつある。
季節が変われば、自分の中の気持ちも少なからず変わっていくのだろうか。
四年生になれば卒業研究も就活も本格的に忙しくなる。多忙さが気を紛れさせてくれるかもしれないのは救いだった。
足取りも重く歩いていると身体が芯からすっかり冷えてしまって、暖かい飲み物でも飲もうとコンビニに寄ることにした。
ペットボトルのホットココアをレジの店員に渡し、財布を出す。ところがその時、ポケットの袋布に引っ掛けてしまったのか、中身がバラバラと派手に落ちた。
ついていない。本当に注意力が散漫になっている。
急いで拾い集めると、そそくさと店外に出た。イートインで飲もうと思っていたのに、気恥ずかしさからつい、外に来てしまった。
駅の向こうの公園にでも行って飲もう。そう思い向かった先、頼りなく光る街灯に照らされた駅裏の公園には、先客がいた。
まさかと思った。でもそれは確かに、あの臼井だった。
頼杜は反射的に、コードレスイヤフォンの電源を落とし、耳から外した。
臼井はポールライトに照らされたベンチの近くに立っていて、誰か、男性と話しているようだった。男性はこちらと反対側の出口に向かって歩いて行く所で、暗い為に顔はよく見えないが、声と雰囲気から臼井より大分年上なことが窺える。
考えるより先に足が動き、頼杜は向こう側からは見えない、ギリギリの場所まで近づいた。
会話が聞こえてくる。
「——もう忘れさせてくれないか」
「はい……」
苦しげに返事をしたのは臼井だ。
「お前の気持ちも分からなくはないが、私にも新しい家庭がある。すまないが、もう……これで終わりにしよう」
男性はそういうと、臼井の方には一瞥もくれずに歩き去ってしまった。
臼井は立ったままそれを眺めていたが、男性の姿が道の向こうに消えると、ふらりと力なくベンチに腰を降ろした。項垂れるように足元の地面を見つめている。
もしかして、泣いているのだろうか。
薄暗くてよく見えず、それでも気になって一歩足を進めたところ、ジャリッと砂を掻く音をたててしまった。
臼井がこちらに向かって顔を上げる。まともに目が合ってしまい、気づかなかったふりも出来なくなって、ぎこちなく会釈した。
臼井もそれに軽く礼を返した。とても驚いた顔をしている。
「若葉さんのお兄さん……ですよね? こんばんは」
そう声を掛けられ、他クラスの園児の関係者である自分を、臼井がはっきり認知していたことに驚いた。数える程度の挨拶を交わしたことがあるに過ぎないが、やはり先生というのは人の顔を覚えるのが得意なんだなと感心する。
「縦割り保育の日に、若葉さんが話してくれたことがあって。かっこいいお兄さんのこと、自慢なんですね。うれしそうに教えてくれましたよ」
頼杜の驚きを察したのか、臼井はそう説明を付け加えた。
園では異年齢の子ども達が一緒に遊ぶ日があると、姉から聞いたことはあった。
しかし、まさか若葉が年次を超えて自分のことを話し、それが臼井にまで伝わっていたとは。思ってもみなかったことに、恥ずかしさで顔が熱くなる。
「あ……えっと……若葉は姪っ子なので、俺は兄じゃなくておじさんなんです」
緊張と羞恥から咄嗟に気の利いた返しが出来ず、つい変な訂正を入れてしまった。
それでも「そうでしたか」と柔らかく微笑んでくれる臼井は、先程の男性とのやり取りなど無かったかのように振る舞っている。
そこで頼杜もそれに倣って、先程の件については触れないでおくことにした。
しかし、他になにか話題がある訳でもなく、そこで話が途切れた。
沈黙が気まずい。
居た堪れなくなった頼杜は、もぞもぞと所在なくポケットの中で手を遊ばせた。コツンとスマートフォンの画面に指先が当たる。
すると突然、二人の沈黙を破るように音楽が響き始めた。
恋のままならなさを嘆く、切なくて感情に語りかけてくるメロディー。
臼井が、あっと驚いた顔をして言う。
「あ、これ、好きなバンドの新しい曲です。常田さんもお好きなんですか?」
「すみません、急に音楽を鳴らしてしまって! えっと……はい、自分も、あの、このバンドが好きで……」
次から次へと起こる予想外なことに、しどろもどろになりつつ答える。Bluetooth接続が切れているまま、ロック画面で再生ボタンに触れてしまったようだ。
ところが、このアクシデントが会話の糸口となり、しばしバンドの話で盛り上がった。
「落ち込んだ時なんかは、この人達の音楽に結構救われたんですよね」
そう語る臼井はどこか頼りなく足元を見つめていて、頼杜は先程目撃したやり取りを思い出していた。
思わず「今みたいな時ですか」と尋ねてしまいそうになって、言葉を飲み込む。
突然自分が現れた所為で、臼井に無理して笑顔を作らせてしまっているんじゃないだろうか。先程のことがあって、本当は今、一人になりたいんじゃないか——。
今の臼井の心中を考えると、自分は早くこの場から立ち去った方が良いのではないかという気がしてきた。
ふと、街灯の光を受けて輝く臼井の髪の合間から、赤くなった耳が覗いていることに気付いた。寒い風に当たって冷えたのだろうか。
音楽のように、自分は落ち込むこの人を救うことは出来ないけれど、せめて寒さくらいからは守ってあげたかった。
年上の人に「守る」という言葉は適当ではないかもしれないが、でもその言葉が自然に出てきてしまう程、目の前の臼井は傷ついて、弱って見えた。
「先生、普段ココアは飲まれますか?」
「……? はい、好きでよく飲みます」
「これ、あったかいのなんですけど、良かったらどうぞ。俺は家がすぐそこなんで、もう帰ります。……失礼します」
そう言ってコンビニのビニール袋ごと渡してしまうと、頼杜はベンチから腰を上げた。
背後で臼井が戸惑っている気配がしたが、振り返らず真っ直ぐ進む頼杜に、返した所で受け取りはしないと思ったのであろう。
「……ありがとうございます」
後ろから、臼井の声が聞こえた。
家に帰ってから、頼杜はひとり布団に突っ伏し、公園での出来事を思い出していた。
去り際のあれは、ちょっと押し付けがましかったんじゃないか。それに些か気障だったかもしれない……。
悶々としながら寝返りをうち、天井と睨めっこする。
それにしても、臼井と一緒にいたあの男性は何者だったのだろう。
男性は臼井に対し「新しい家庭がある」と言っていた。「もう終わりにしよう」とも。
そこまで反芻して、ある一つの考えに至った。もしかすると、あれは別れ話だったのではないだろうか。とすると、臼井は自分と同じ、同性を恋愛対象とする人だったのか……。
まさかの展開に、信じられない気持ちで口を覆う。
男性は臼井よりかなり年上のようだった。でも、穏やかで落ち着きのある臼井に、年上の恋人はなんだかお似合いのような気もした。
それにしても……だとしたら、臼井はかなり手酷く振られたことになる。「家庭」ということは、臼井という恋人がありながら、別の女性にも手を出していたということだろうか。
そこまで考えて、男性に対してじわじわと怒りが沸いてきた。それと同時に、自分だったら決してそんなことで臼井を傷つけないのに、という悔しさも強烈に感じた。
気持ちの遣りようが無くて、頼杜はスマートフォンを掴むと音楽アプリの再生ボタンをタップした。
流れたのは、臼井も好きだと言っていたあのバンドの曲だった。
胸に渦巻く鬱屈や、ままならない恋愛感情を曲に込めることの多いこのバンドを、臼井が好んでいるのは正直意外だった。もっと爽やかであったり、落ち着いた雰囲気の音楽を聴いていそうなイメージを勝手に抱いていた。
落ち込んだ時に救ってもらったとも言っていた。外からは窺い知れないが、胸に渦巻く重苦しい何かを、このバンドの曲に重ねたこともあったのだろうか。
そう思うのは、思春期に己のセクシュアリティが周りの大多数とは違うことに気付きながらも誰にも言えず、彼らの曲を聴いて気を紛らわせていた自分の姿に、臼井の言葉を重ね合わせていたからに違いなかった。
目を瞑り、流れる音楽に意識を集中させていると、ふいにピコンとスマートフォンの通知音が鳴った。
画面を見ると、自分が登録していない番号からショートメッセージが届いていた。
迷惑メールの類いだったら嫌だなと思いつつ、画面をタップした。開いたメッセージを確認する。
〈臼井優也と申します〉
「——!」
仰向けでスマホを眺めていた頼杜は仰天して、前転しそうな勢いで上体を起こした。
臼井からのメッセージには、頼杜が自分の名前を知らないと思ったのか、保育園の職員であることが説明されている。そして、〈こちら常田若葉さんのお家の方のお電話で間違いないでしょうか〉と確認のメッセージが続いた。
急いで、間違いないことを伝える。すぐにまた返信が来た。
そこには先程のココアの礼、続けて、鍵が無くて大丈夫かという心配のメッセージが並んでいた。
鍵——?
一瞬なんのことか分からなかったが、すぐにそれが大学のロッカーの鍵であることに思い当たった。
コンビニで床に散らばったポケットの中身を拾って、レジ袋に放り込んだのを忘れていたのだ。
そしてそこには後輩宅に持参した、今年度のサークル勧誘チラシが含まれていたことにも気付いた。
来年度のチラシ作成の見本にと持って行ったもので、連絡先には、代表・常田頼杜の名前の下に電話番号が添えられている。きっと臼井はそれを見て連絡してきたのだろう。
臼井の為に何か出来たらと思ってしたことが、却って手間を掛けさせる結果となってしまった。
自己嫌悪に陥りながら、鍵に今すぐ必要な用事はないことを伝え、受け取りに行きたいので都合の良い日時を教えて欲しい旨を文章にして返信した。
そして数回のやり取りの後、鍵の受け渡しは明日、土曜日の夕方に駅前でということに決まったのだった。
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