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思わぬ経緯で臼井と再び会うこととなった、土曜日の夕方。買い物を終えて帰る人や、これから夜の街へと繰り出そうとする人、様々な目的を持った人達で駅前は混雑している。
頼杜は待ち合わせの時間よりかなり早く来てしまい、約束していたモニュメント前で行き交う人々を眺めていた。
臼井は今日も出勤だったらしく、仕事終わりに寄ってくれるという。どこまでも申し訳ない。
一方、心の隅では再び臼井と会える機会を得たことを喜んでいるのも確かで、そんなことを思っている自分が恥ずかしく、心苦しさが募った。
「常田さん」
人混みを縫うようにして、臼井が目の前へとやって来た。
頼杜の方が十センチ程背が高いので、並ぶと臼井が自然と上目遣いになる。途端に心臓が速いリズムを刻み始めた。
もう三月ではあるが、朝は雪がチラつく寒さだった所為か、臼井はベージュのダッフルコートにチャコールグレーのマフラーをしていた。品の良さと大人の可愛げが同居した雰囲気がとても似合っている。肩には、紙の工作物らしきものが沢山入った大きなトートバッグを掛けていた。
前回は突然の遭遇に驚いて全く目に入っていなかったが、臼井の私服姿に、園では見られないプライベートを感じて妙にソワソワした。
臼井は頼杜と合流すると早速、件の鍵を渡してくれた。
「お手間を取らせてしまってすみませんでした。お仕事終わりにわざわざ寄っていただいて申し訳ないです」
兎にも角にもまずは迷惑を掛けてしまったことを詫びたくて、頭を下げた。
「気になさらないでください。最寄駅ですし、どの道ここには寄るんです。あの日のお心遣い、嬉しかったです。ありがとうございました」
「そんな……寧ろご迷惑をお掛けしてしまったんじゃないかと申し訳なくて」
「全然! そんなことありません」
臼井が必死な顔で否定する。
「お恥ずかしい話ですが、あの日、少し落ち込んでいたんです。でも常田さんのご厚意に触れて……なんというか、気持ちが軽くなったんです。本当です」
今度は照れたように笑う。くるくる変わる表情に目が離せない。こんなに感情が表に出る人だったのか。
「すみません。個人的な、他愛もない話をお聞かせしてしまいましたね」
「いえ、喜んでいただけたのなら、嬉しいです」
本心だと伝わるように、真剣な表情で臼井の目を見つめた。
すると、臼井が思わず、といった様子で目を下に逸らした。
「?」
「……その、本当にありがとうございました」
噛み締めるように言った後、臼井は改めて頼杜を見た。
「それと……個人的といえば、送ったメッセージに関してなんですが。本来、自分達はプライベートで利用者の方と連絡を取り合うのを止められているんです。ですが、もしご自宅の鍵だったりしたらお困りになっているんじゃないかと思いまして……すみません、今回は特別な事情ということで、その……」
臼井は角を立てずにどう園のルールを説明するかに苦慮している様子で、先に進むほどに声が尻すぼみになっていった。
ルールを破ることになってまで自分のことを心配してくれた気持ちに感激しつつ、ひとつ気になることがあった。
「あの、先生がお勤めになってる園の関係者ってことでしたら、もう俺は違います。若葉、二月末で園をやめたんですよ。来週引っ越しなんです」
姪っ子が今までお世話になりましたと頭を下げた。
「すみません、失礼しました。そうだったんですね……クラスは違いますけど、もう顔を見られなくなるのは寂しいな。でも若葉さんなら、きっと新しい園でもたくさんお友達が出来ますね」
やはり、若葉の転園のことを知らなかったようだ。重そうな荷物を反対側の肩に掛け直しながら話す様子を見て、先程から気になっていたことを聞いてみた。
「その大きな荷物は、持ち帰りのお仕事なんですか」
「はい。普段は園で仕事を完結できるように努めているんですが、この時期はどうしても残業だけでは終わらないものが出てきてしまうので……」
保育士は仕事量が非常に多いという話は頼杜も聞いたことがあった。新年度に向けて今は忙しい時期なのだろう。
「もっと要領良く出来ればいいんですが、なかなか。つい家のことも後回しになってしまって。今日も夕飯は何か買って済ませてしまおうかと考えていたところなんです」
臼井の雰囲気が心なしか少し砕けた感じになった気がした。自分が園にとって部外者になったことも関係しているのかもしれない。それならば、と頼杜は意を決した。
「あの、だったら……もしよければこれから一緒に夕飯行きませんか。俺、この後この辺で食べていこうと思ってたところで」
この後、夕飯を外で済ませようと思っていたのは本当だ。
今日は母が職場の飲み会で、姉達も荷造りで忙しいので夕飯は外食にすると言っていた。自分も夕方は出るのでそのまま食べてくると伝えていた。
臼井は一瞬、思案げな表情をして、数拍置いた後答えた。
「……自分でよければ」
頼杜は、驚いて思わず目を見開いた。正直、断られると思っていた。まさか誘いを受け入れてもらえるとは。
臼井は「あ、社交辞令だったのか」とでも思ったか、しまったという顔をして赤面した。
「ごめんなさい、駄目元で誘ったので、びっくりしてしまって! 一緒に食べられたら、嬉しいです」
紛らわしい顔をしてしまったことを反省しつつ、一息に弁解する。
耳まで赤くして棒立ちになっていた臼井も、そこでようやく表情を和らげた。
二人が入ったのは、町中華といった風情の小さな古いラーメン屋だった。
どこで食べようかと歩き始め、丁度店の前を通った時に、臼井が行きつけの店であることを教えてくれたのがきっかけだった。
臼井は「美味しいけれど、お洒落さとかは全くないですよ」などと言って、本当にこの店でいいのかと気にしていたが、そもそも頼杜は食事にお洒落さを求めてはいないし、単純に臼井がよく行く店というのに入ってみたかった。
入り口の硝子棚にはレトロな食品サンプルが置かれ、その黄色く濁った白飯がこの店と共に在った時間の長さをよく表している。
中に入ると、えびす顔の店主と、バイトと思しき女の子が出迎えてくれた。まだ比較的早い時間だったので、客は他に休日出勤帰りらしきサラリーマン一人がいるだけだった。二人用テーブルに案内され、向かい合わせに座ると、頼杜は店内をぐるりと見渡した。
店の壁にぶら下がる手書きのメニュー札には温かみがあり、客のリクエストに答えたんだろうなと思わせる、オリジナリティ溢れるメニューもちらほら混ざっている。
本棚に並ぶ日に焼けた漫画の中には、自分が子供の頃に読んでいたタイトルも多くあって、懐かしい。
なんか好きだな、と思った。こういうのを実家みたいな雰囲気の店というのかもしれない。
「今日はお連れさんも一緒なんだね。注文はいつものかな?」
顔馴染みらしい、親し気な様子で店主が臼井に話し掛けた。
「はい。常田さんは決まりました?」
「じゃあ自分も同じのお願いします」
臼井が答えたのに続けて、頼杜も同じものを頼んだ。
すると、それを向かいで見ていた臼井が急に吹き出した。
「いつものが何なのか分からないのに、いいの?」
ふいに外れた敬語に、胸をくすぐられた。普段ならとっくに腹を空かせている時間だというのに、臼井といると胸が一杯になって空腹もどこかへいってしまうようだ。
程なくして注文の品が運ばれてきた。臼井の「いつもの」は、澄んだスープに炒めた豚と野菜がたっぷり乗ったラーメンだった。野菜炒めから香る胡麻油の風味が中太麺に絡み、とても美味しい。
「常田く……あ、常田さんは——」
「さん付けなんかじゃなくていいです。敬語も要らないですよ。俺の方が年下ですし。常田でもなんでも好きに呼んでください」
そういうと、臼井は「いくらなんでも、常田は……」と笑っている。
「じゃあ、常田くんて呼ばせてください。敬語は……なんていうか染み付いてしまっていて。外ではこの方が落ち着くというか、自然に出てしまうんです」
職業柄もあるのかもしれない。自分から要らないと言っておいてなんだが、頼杜は臼井の話す柔らかい敬語が好きだった。
「常田くんは幾つなんですか」
「二十一です。先生は?」
「そっか、大学生なんでしたね。自分の学生の頃に比べて、常田くんは凄く大人っぽいな。俺は、二十七です」
これまでは自身のことを僕と言っていた臼井が今、頼杜の前で「俺」と言った。ほんの些細なことだが、プライベートに踏み込ませてくれたような、そんな感覚に酔ってしまいそうだった。
「ここ、俺が学生の頃から来てるんです。あんまり新しい所を開拓するタイプでもないので、外で食べるってなると自然とここに足が向いちゃうんですよね」
目の前にいる臼井が学生だった頃を見てみたいと思う。
「常田くんはお洒落なお店とかたくさん知ってそうですね。女の子と行ったりするでしょう」
突然振られた恋愛絡みの話に面食らった。
「いや、俺、そういうの無いです。店も全然。サークルの飲み会なんかは女子メンバーが店選ぶんで洒落た所も行きますけど。それ以外はラーメン、牛丼、ファストフードって感じで……。友達と飲む時は宅飲みか、居酒屋ですし」
女の子のことは勿論、それ以外も事実だった。
「……意外だな。だって常田くん、モテるでしょう」
チラリとレジの方を見遣ったのを、頼杜も目で追うと店の女の子と目が合った。女の子が慌てて目を逸らす。
臼井が「ね?」という顔をした。なんと答えていいか分からず、頼杜は麺を啜った。臼井もそれ以上は何も言わなかった。
始めは緊張と嬉しさに胸がいっぱいで食べられるか心配だった食事も、随分気安く接してくれるようになった臼井と、肩肘張らずいられる店の雰囲気のお陰か、気が付いたら残さず食べ終えていた。とはいえ、食事する臼井の伏せた目にかかる睫毛の長さや、麺を啜る口元に、つい目が行ってはその度ドキドキしてしまい、普段食べるよりも幾分時間は掛かったが。
会計の段になって、頼杜は臼井より先に席を立ち、財布を取り出した。
「俺から誘ったので」
ところが臼井は伝票を手に取ると、頼杜の脇をするりと抜けてレジへと向かってしまった。
「学生さんに全部出してもらうわけにはいきませんよ。今日は俺に出させて下さい。この前のココアのお礼とでも思ってくれると嬉しいです」
「そんな」
「おじさん、二人分まとめてお願いします」
サラリーマンのいた席を片付けている女の子に代わり、店主がカウンターから出て来た。
「でも……」
ならばせめて半分でもと食い下がろうとしたが、臼井はサッと札をレジに出してしまう。頼杜が心苦しく思っていると、ふいに臼井がくるりとこちらを振り返った。
「じゃあ、端数だけお願いしてもいいですか。小銭を全部切らしてしまって」
大きく頷いて、小銭を会計トレイに出した。
嬉しかった。それが、頼杜の心理的な負担を少しでも軽くしようとする臼井の心遣いなのが分かったからだ。
小銭を切らしたというのも、その為の方便だと思った。ここに寄る前に重い荷物をコインロッカーに預けた臼井が、百円玉を探そうと手のひらに小銭を広げているのを頼杜は見ていた。
優しい嘘を不器用につく、この人が愛おしいと思った。臼井を知る程にますます恋心は募っていく。
店を出ると、すぐそこが駅なので必然的にそのまま別れる雰囲気になった。しかし、これで終わりにはしたくなかった。
「あの、もしよかったら……アプリの連絡先交換してもらえませんか」
「え……」
「あのバンド好きな人、周りにあんまりいなくって。もう俺は園とは関係ないですし、バンドファン同士で繋がったらたまたま先生があの園の保育士さんだっただけだって考えれば、別に普通のことかなって……」
バンド云々は単なる口実でしかないし、園と関係ないことを強調したのはそれを理由に断られるのが悔しかったからだ。
怪しまれるのを避けたくて平静を装いたいのに、つい縋り付くような雰囲気が出てしまった。好きだから、どうしても必死になってしまう。
臼井は如何とも言い難い複雑な顔をした。
「断られるんだな」と覚悟して、落胆で重くなった目を足元に落とす。
しかし、意外なことにその視界に入って来たのはスマートフォンを差し出す臼井の手だった。
「このアプリって、どこから友だち追加を出すんでしたっけ。普段あんまり連絡先を交換することがないので、忘れちゃって」
「あっ、えっと、ここです……それで、こっち……」
臼井の顔を、とても見ることは出来なかった。見たら自分の顔が情けなく緩んでしまうのは間違いなくて、一生懸命友だち追加のやり方を教える人の振りをした。
その日の帰りに見た夜空は昨日と同じに澄んでいて、それでいて昨日とは別物のような清々しさだった。
月は満月になっていた。
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