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 保育園の降園時間——園児達の弾むように元気な声が、玄関ホールに響いている。  まるで色とりどりのゴムボールを一遍にひっくり返したような賑やかさの中、常田頼杜(ときた よりと)は意中の人を目で探していた。  ホールから奥へと繋がる廊下の途中、今日もその人は慈しみに満ちた眼差しで子ども達を見守っている。まだ寒い盛りの二月だというのに、その人の周りだけは春の光が淡く環を描いているかのように見えた。    初めは男性の保育士を珍しく思っただけだった。  けれども気付けばその姿を目で追っていて、次には人立の中に彼の姿を探していた。そして見かけなかった日には、ひどくがっかりしている自分がいた。 『臼井優也(うすい ゆうや)』  園からのお便りの中、その名が添えられた顔写真が目に飛び込んできた時には、正直、しまったと思った。  名前を知ってしまった途端、「園で見かける、気になる人」程度の薄ぼんやりとした輪郭しか持たなかったものが、まるで実態を伴って頼杜の心を占拠してきたかのようだった。  玄関で見かけるちょっとした表情、仕草、子供達への語りかけ。そういった臼井の断片に触れる内、いつの間にか興味は好意に変わっていて、それに気付いてしまったら、ますます彼から目が離せなくなった。 「よりちゃん!」  呼ばれて声のした方を向くと、姪っ子の若葉(わかば)がこちらへと駆け寄って来たところだった。  百八十センチを超える長身に加え、圧倒的にパパママ率の高いこの空間の中で、大学生の頼杜はよく目立つ。 「おかえり。若葉」  トレードマークであるお団子頭にぽんと手を置く。高い位置でニつに結い上げたお団子には拘りがあるらしく、ヘアアレンジ担当である頼杜の姉は毎朝、中々苦労しているようである。今朝は出来が良かったのか、朝食をとる頼杜の前をご機嫌な様子で通り過ぎ、玄関へと向かう姿を見掛けていた。 「ただいま! よりちゃん、きょうもおむかえきてくれてありがとー」  そう言って愛らしく笑うこの姪っ子を、頼杜は歳の離れた妹のように可愛がっている。少し前までは、偶に顔を合わせる程度の姪という認識でしかなかったのに、今ではすっかり家族のようだ。    姉が一人娘の若葉を連れて実家に戻って来たのは半年程前のことだった。  自身も離婚を経験し、女手ひとつで姉弟を育てた母には、姉の境遇に対して手を差し伸べたい気持ちが強かったのだろう。生活が安定するまでは若葉と共にこちらの家で暮らしてはどうかと勧めた。  初めは迷っていた様子の姉だったが、実家が若葉の通う保育園に通園可能な距離だったことや、自身の仕事がしばらく忙しいという事情が決め手となり、頼杜達が住む家へと戻ることを選んだ。  新しく始まった四人での暮らしに、父親と生活を別とすることとなった若葉の寂しさも、幾分か紛れているように思われた。  そもそも頼杜が園へと若葉を迎えに行くようになったのも、彼女の寂しさや不安を少しでも取り去りたいと思ったのがきっかけだった。  頼杜達の母は看護師で、現在は個人のクリニックに勤務している。ギリギリのスタッフ数で回している為に急な休みが取りづらく、園からのイレギュラーな呼び出しには対応不可だ。帰りは通勤時間も含め夜八時近くになることも多い。  祖父母が送迎を手助けしている家庭もあるが、常田家の場合、それは望めなかった。  そんなこともあって、姉の仕事の打ち合わせが長引き、お迎えが遅くなった時に若葉が泣いて待っていたという話を聞いてから、頼杜は大学とバイトの合間を縫って、可能な限りお迎えを引き受けるようになった。春休みに入って研究室や就活が忙しくなってきた現在も、それは変わらない。代表を務めるジョギングサークルの活動が土日しかないのも都合が良かった。  寧ろこの頃は極個人的な目的の為になんとか都合をつけていた節もあるので、純一無雑な感謝を送ってくれる姉には若干の後ろめたさを感じるくらいだった。   若葉の手を引き玄関ドアへと向かう途中、最後にもう一度だけと後目に彼を見る。  幅広な二重の下で光を跳ね返す瞳はやや色素が薄く、そしてさらりと素直そうな髪もまた、うっすらと茶色がかった色をしていて、白い肌との組み合わせには作り物には出せない透明感がある。  先の細い鼻はツンとしているが、いつも柔らかく弧を描く唇が、決して相手に冷たい印象を抱かせない。  清潔な陽だまりみたいだと思う。  それだけに、その中でどこか居心地悪そうに控える口元のほくろが、アンバランスな色気を醸し出しているように感じられ、頼杜は今日も胸のいきれを密やかなため息として逃し、保育園を後にした。  若葉はお友達から「お兄ちゃんかっこいいね」って言われるのが自慢なのよ、とは姉の言葉だ。  「よりちゃんみたいなひとのこと、しおがおイケメンっていうんでしょ」と何処から得てきたのか分からない、塩顔イケメンという単語を披露する五歳児の得意顔を思い出す。  こと頼杜に関して若葉はませた発言をよくするので、家族の間では若葉語録としてネタになっている。  先日は、「テレビによりちゃんみたいなひとがいる!」と真剣な声で言うので画面を見ると、売出し中の若手俳優がこちらに向かって微笑んでいた。骨格が整っていて全体的にこざっぱりとした顔立ちに、奥二重。そこに垂れ気味の目尻がどこか甘い印象を添えている。スタジオに登場すると、観客の女性達の黄色い声が上がった。  いま多くの女性達の目を奪っている——。  俳優の名前と共に画面に映し出される紹介テロップを、頼杜は無感情に眺めた。  自分の見た目が異性の目を引くようだということに気付いたのは、中学に上がる頃だった。  そして、己の性的指向が異性に向いていないということに気づいたのも。  常田くんは女子に対して余裕があるとか、変に意識していない所がいいとクラスの女の子から言われた時、頼杜はなんと反応してよいのか分からなかった。意識していないもなにも、そもそも異性に対して興味が持てない自分にとって、そんな事は至極当然の事であったからだ。  学年の垣根なく数々の告白を受ける頼杜が、それらを片っ端から断り続けていることには様々な噂が立った。他校に彼女がいるとか、年上の女性と歩いているのを見たとか、一体どこから湧いて来るのか分からない話だったが、寧ろそれで皆の目が逸れるのなら楽だと感じた。    これまで好きになったのは、教育実習生のお兄さんであったり、部活の先輩であったり、いずれも優しげな雰囲気の年上ばかりだった。臼井含め、好みがぶれず一貫しているともいえる。ただ、どれも恋愛に発展することは無かった。  勿論人並みに性に対する興味はあったが、即物的な出会いの場に恋を求めようというまでの気にはならなかった。恋に夢を捨てきれていないところがあるのかもしれない。  片想いごっこのようなことをしては気持ちを伝えることもなく、静かに諦めることを繰り返してここまで来てしまった。  そして今回もまた、きっとそうやって終わるのだろう。少なくとも、これまでのように臼井に会えるのはもう終わりだ。  今月いっぱいで若葉は退園する。  
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